第40話 ブローチ
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そして翌日の午後。
テイラー伯爵家のティーサロンでは、カレンとエマが向かい合ってお茶を嗜んでいた。
エマはあくまでも在寮しているので、この後お茶の時間が終わり次第、帰寮することとなっている。
「昨夜はどうだったのかしら」
思わず、エマのティーカップを持つ手が止まった。
「昨夜……」
昨夜、馬車の中でロベールと口付けを交わしたことを思い出したからだ。
初めての口付けは、薄暗い中であったが彼の存在を強く感じ、思い出しただけでも鼓動が高鳴った。
「とても緊張しましたが、閣下がエスコートをしてくださったので……」
その先は気恥ずかしさから、言葉を紡げなかった。
「そう。閣下はなにをされるのもこなれてらっしゃるのね。中々慣れないかもしれないけれど、閣下に任せておけば間違いないから安心ね」
ピタリと思考が止まった。
こなれている。ロベールは口付けをすること自体が慣れているのだろうか。
彼にはこれまで婚約者はいなかったはずだが、そういった関係ではない女性とも、親密になることはあるのかもしれない。
そう思うと胸の奥がモヤっとするが、顔には出さないように努める。
「やはり閣下は、女性の扱いに慣れていらっしゃるのでしょうか……」
「そうね。まあ、公爵家の跡継ぎとして夜会や食事の際の女性のエスコート方に関しては、徹底的に叩き込まれているのではないかしら。うちはジョルジュが養子に入ったのが五年前の彼が十五歳の時だったけれど、中々講師泣かせだったものよ」
その時のことを思い出したのか遠い目をするカレンを見て、初めてエマは自分が思い違いをしていることに気がついた。
(伯母様が言っていたのは、あくまでレストランでのエスコートのことだったのね)
自覚すると途端に顔が熱くなってくる。
(私はなんてことを……)
ともかく、気を落ち着けるために紅茶を一口飲むと、目前のカレンがテーブルの上に小さな箱を置いた。
「エマ。もうすぐ嫁ぐあなたに、是非これを持っていて欲しいの」
カレンが仕草で開けるようにと促したので、その箱の蓋を開けて中身を確認してみる。すると、それには白い小花が模られたブローチが収められていた。
全体的に銀色だが、その美しさから材質も本物の銀なのではないかと思う。
初見のはずだが、何故かそのブローチが懐かしく感じた。
「とても綺麗ですね」
「ええ。実は、これは私の母から嫁ぐ際にもらった物なの。つまり、あなたのお祖母様が使っていたものよ」
「お祖母様の……」
だから懐かしく感じたのだと、エマは納得する。
「これをあなたにもらって欲しいの」
「……そんな、大切なものを……」
もらうことはできないと伝えたが、カレンは優しく微笑みながら首を静かに横に振った。
「是非もらって欲しいのよ。私の大切なものだから、きっとあなたを守ってくれるはずよ」
「伯母様……」
エマは、なんと感謝の気持ちを言葉にしてよいか戸惑うほど、これまでに数え切れないほどカレンには恩を感じていた。
そもそも、女官の試験に合格したこともそうだが、カレンがあのときエマを王都に連れ出してくれなかったら、王宮で開かれたパーティーに出席することもなかっただろうし、そうなるとケイトやロベールと出会うことも決してなかっただろう。
カレンがいなかったら、きっとエマの人生は大きく変わっていたはずである。
「本当に……ありがとうございます、伯母様。……いいえ、お義母様」
カレンは目を見開き、小物入れからハンカチを取り出して目元に当てた。
「エマ、こちらこそありがとう……。わたくしの家に来てくれて、義娘になってくれて本当にありがとう」
そうして、しばらくティーサロン中が優しい空気に包まれたのだった。
◇◇
同時刻のバルト公爵家邸。
同屋敷の執務室には、ロベールと家令のベクターが向かい合っていた。
「若旦那様。例の手配ですが一通り終わりました」
「そうか。ご苦労だった」
「はい。……これで滞りなくエマ様をお迎えすることができますね」
「……ああ、そうだな」
「それにしても意外でした」
「どの件についてだ」
ベクターは臆することなく、背筋をピンと伸ばしている。
「若旦那様は、エマ様をご婚約の時点でお屋敷に住まわれるように手配をなさるかと思っておりましたので」
ロベールはそのことはいつか訊かれるだろうとは思っていたので、動じずむしろ小さく頷いた。
「ああ。特に彼女はこれまで様々なことに見舞われてきた。それは、やっかみからくるものも多く、婚約の時点で彼女を屋敷に迎えることはその事柄から彼女を守ることに繋がるかもしれないが、反する場合も考えられるだろう。判断が難しかったのが正直なところだ」
また、領地の各統治者らから現在エマは伯爵家の養女であるが、生まれは子爵家の彼女を次期公爵夫人として迎えること自体に不満を抱く者も多く、そういった危険因子を前もって把握をし、場合によっては対処をする必要もあったのだ。
そういったことから、彼女には普段通りの生活を続けてもらい、輿入れまでに環境をよく整えておくことにしたのである。
「左様ですね。ですが、私は若旦那様のご判断は正しかったと思います。エマ様は女官としてのご教養もありますから、お輿入れをなされた後でも公爵家の夫人としての教養を身につけるのにさして時間は掛からないでしょうから」
「ああ。そうだな」
ロベールが頷くと、ベクターも満足そうに頷いて一礼し退室して行った。
彼を見送ると、ロベールはふと昨夜のことを思い出す。
「とはいえ昨夜は、何故彼女はこの家に住まいを移していないのだろうと思ったのだが」
そう呟き昨夜のエマの笑顔を思い浮かべると、ロベールはそっと微笑んだのだった。