第17話 妹のマニカ
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それから、エマは久々の実家の廊下を早まる鼓動を抑えながら歩き、どうにか私室へと辿り着くことができたのだった。
「はあ、緊張した……」
長年暮らした馴染みのある屋敷のはずなのに、半年以上留守にしていたからなのかまるで何処か知らない場所であり、不利な立場に置かれているような感覚を覚えていた。
「それにしても、お父様は一体なんのことを仰っていたのかしら。公爵夫人……?」
父親は元から不注意なところがあるから、なにか情報を誤って受け取ってしまったのだろうか。
なにしろ、実家に住んでいた時に屋敷の家令にそういったことを諌められている場面を、何度も目撃をしているのだ。
加えて、叔母のカレンは「まだエマは知らないこと」だと言っていた。
「まさか、ケイト様の弟君のことかしら。エバンズ卿は以前、伯母様のお屋敷で開催をしたガーデンパーティーで何度かお話をさせていただいたけれど、確かにその時のパーティーでとてもよい縁があったと言っていたわ。もしかして、その方とこれからご婚約をなさるのかもしれないわね……」
ただ、例えそうだったとしても、開口一番でその話を振られるほどエマは二人の仲に貢献をしたわけではなかったとは思うが、父のことだからきっとまたなにか思い違いをしているのだろう。
ともかく、エマは今身に着けているベージュのドレスから、室内用のデイドレスに替えるためにワードローブの扉を開いてドレスを選ぶことにした。
選んだドレスは、一人でも装着できるタイプの物だが、決してシンプルなデザインでもないので、伯母のカレンに注意を受けることもないだろう。
ちなみに、カレンは身につけるものに関してはキチンとしていないと済まない質らしい。
久しぶりに開いたので、衣装やワードローブ自体の状態は芳しくないかもしれないと思ったが、意外とドレスやワードローブ自体は綺麗に整えられているので胸をホッと撫で下ろした。
そもそも、エマの自室自体も掃除が行き届いており快適に過ごすことができそうだ。
それから、素早く着替えをして丁度それが終わった頃に扉がノックされた。
ここを訪ねてくるということは母か乳母だろうか。
妹は滅多にエマの私室に訪ねてくることはなかったので、内心で違うだろうと思いながら返事をした。
「どうぞ」
その寸秒後に扉が開かれた。
誰だろうかと姿を確認すると、それはエマにとっては意外な人物であった。
長い黒髪を後ろに髪紐で束ねた小柄な女性、──妹のマニカであった。
「マニカ……」
マニカは真っ赤な紅をつけた口元を突き上げながら、躊躇することなく室内に入ってきた。
「お姉様、お帰りなさい」
「え、ええ。ただいま戻ったわ」
妹のマニカは小さい頃から何をするにも要領がよくて、何故か姉の自分を出し抜こうとしてきたものだった。
そんな彼女は、祖母の世話に付きっきりであったことや、領民たちと共に田畑を耕すエマを毛嫌いし見下していたので、いつからか進んでエマに関わろうとはしなくなったのだ。
なので、マニカがかつての自分の婚約者と親密な関係となっていたとはよもや思わなかったのである。
それにしても、なにを話せばよいのだろうか。
マニカに対しては、正直なところ例の件の際には「泥棒猫」と罵りたかったのだが、それは自分がマニカと同等になってしまうだろうと思い直して、言ってやることができなかったのだ。
そういった経緯があるので、あの時のわだかまりはいまだに心にしっかりと残っているのだが、新しい生命が誕生した以上、そのことを今更持ちだしてはいけないだろうとなんとか自分自身に言い聞かせた。
「マニカ、男の子が生まれたと聞いているわ。遅くなったけれどおめでとう」
「ありがとう。……ところでお姉様。とても上手くおやりになられたようですね」
一瞬、なんのことかと思ったが、おそらくマニカは女官試験のことを言っているのだろうと思った。
結果こそこれから伝えるつもりであったが、受験すること自体はそうと決まった時に直ぐに実家に報せてあるので、マニカも当然知っていることだろう。
(もしかして、伯母様経由で結果を知ったのかしら)
「え、ええ。自分でも信じられないのだけれど、よい結果を得られて今は安心しているわ」
言った瞬間、マニカの顔がピクリと引き攣った。
「そう、本当のことだったのね。未だに信じられないわ。どうしてこんな鈍臭いお姉様が……」
聞き捨てならない言葉を言われたのでどうしようかと思ったが、このまま逆上したらマニカの思うツボかもしれないと思い留まった。
「それは、私には大切な方のお役に立ちたいという気持ちがあるからよ」
思い留まったのだが、これだけは伝えておきたいという気持ちが湧き上がり、気がつけばエマ自身の想いを言葉にしていた。
この言葉は、自分が思い上がっていると思い普段ならきっと口にしない言葉だっただろう。
また、その言葉を受けてなのか、マニカは眉間に皺を寄せている。
「私への当てつけのつもり? 自分の方が幸せだって言いたいわけ?」
マニカがなにを言いたいのかは理解し難かったが、そのようなことを言われておいて、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「当てつけではないわ。自分の方が幸せだとかそんな風に考えたこともない。大体、あなたが私にそんなことを言える資格があると思うの?」
エマは、たとえこの先に自分が俗にいう世間一般的な幸せを手にすることがあるのだとしても、マニカがかつて自分にした仕打ちに対して心からの謝罪をしない限りは、許すつもりは毛頭なかった。
とはいえ、元婚約者のことを取り立てて好きだったわけではないが、それでも以前は当然のように共に未来を歩むと思っていた相手だったのだ。
なにも思うところがないわけがなかった。
「なによ、それ。お姉様なんて伯母様がいなければなにもできなかったくせに」
瞬間、エマの中で何かがプツリと切れる感覚を覚えた。
駄目だ、マニカとは。
こちらから歩み寄ろうとしても、相手が受け入れてくれるどころか反対に全力で潰しに掛かられる。
もうこれ以上マニカとは話をしたくもない。
そう思った瞬間、丁度扉からノックの音が響いた。
「エマ、わたくしだけれど。今よろしいかしら」
聞き慣れたカレンの声に、エマは心から安堵した。
「伯母様。はい、どうぞお入りになってください」
「お姉様! 話はまだ終わっていないわ!」
相変わらず眉を吊り上げるマニカに、エマは心に冷たいものが込み上げてくるのを感じた。
「私にはもうないわ。お祝いは後で皆が集まっている時に改めて渡すから、今はもう退室してもらえないかしら」
「…………」
カレンが扉を開き入室するのと入れ違うように、マニカが早足で退室して行く。
エマは心底安堵し小さく息を吐いた。
「エマ、大丈夫だった? マニカがなにかあなたに対して、よからぬことを言ったのではないのかしら」
カレンは心から心配をしてくれているのか、エマの手をそっと握った。
「いいえ、大丈夫です。きっとよい機会だったのだと思います」
「よい機会?」
「はい。……私は、やはりマニカに歩み寄ることはできないのだと分かったのです」
そう言った後、カレンがそっとハンカチを手渡してくれた。自分でも気が付かなかったが、エマは涙を流していたのだ。
頭では理解してはいても、やはりどこか心では許したいという気持ちがあったのかもしれない。
そう思いながら、エマはしばらく涙をハンカチで拭ったのだった。