05:真意
急いで階段を駆け上がる。一般の人に配慮して薬品のにおいを極限まで消し去り、できるだけ普通の家の形に近づけた薄ピンク色の病院は、それゆえにどこまでも同じ光景を広げていた。拡張現実のナビサポートコマンドがないとすぐに迷子になってしまいそうだ。
『次の通路を左に曲がり、突き当りが目的地です』
誰の耳にも優しい柔らかで温厚な声に指示されながら、僕はただひたすらに通路を進む。誰かの配慮なんてしている場合ではない。ずかずかと我が物顔で渡っていく。
「ここか……」
エヌコード0047FT。それがハルの病室だった。僕は思い切りドアを開く。ハルはベッドの上でたくさんのチューブに繋がれながら、広い病室でただ一人天井を見上げていた。
その顔には涙が伝っている。
「ハル……大丈夫……?」
僕の声に気が付いたハルは目線をこちらに向ける。何もかも失ってしまったような、からっぽで虚ろな眼差しをしていた。頬は少しこけ、深く刻まれた隈が睡眠不足を示している。拡現にも危険を表示する赤文字がずらりと並んでいて、もはや別人かと思わせる風貌だった。
「ああ、アキか……」
僕を視認したハルは体を起こし、姿勢を変えようとする。僕のためにやっているのだろうが、今は安静にしていてくれとハルをなだめながらベッドに横たわらせる。
「アキぐらいだよ。起こそうとする俺の体を押さえつけるのは」
「え?」
「みんな逆なんだ。俺が体を起こそうとするとその意思を尊重して、いかにしたら体に負担がかからないか。どうやったらスムーズに起き上がらせることが出来るのか。そんなことばかり考えている」
ハルはもう体を起き上がらせることはなかった。僕を試したつもりなのかもしれない。
——静寂。
お互いすれ違っていた期間のせいか、いまいち距離が掴めなくなっていた。時間として数十秒。感覚としては数十分にも思える長い時間は、ハルによって壊される。
「ごめんな……。あの時部屋に入れなくて」
「いや……」
「俺はアキに世界を変えたいって頼んだこと、ずっと後悔してたんだ」
僕が立ち去るとき、ハルが言ったごめんねを今、思い出す。
「どうして……?」
「僕は確かに、父さんのために世界を変えたいって言った。それは嘘じゃない。確かに本心だ。だけど僕にはこの世界に変えるべきところが見つからなかったんだ」
ハルは何も思わなかったのだろうか。昔の世界と今の世界を比べて、面白みに欠けているということに。つまらないこの世界を変えようとは全く感じなかったのだろうか。
「だから、ハルは僕に頼んだというの?よりよく世界を変えるために僕を無理やり参加させようとしたの?」
「いや、それも違う」
それが違ったらなんだというんだ。僕は結局、ハルの考え方がちっともわからなかった。
「僕はきっと父さんの気持ちを理解したかっただけなんだ」
ハルには物心ついた時から母親がおらず、ずっと父親に育てられてきたらしい。とても優しい人だったそうだ。とても優しくて、この世で誰よりも優しくて、だからこそ、父親のある一つのことが理解できなかったらしい。
「昔の本を好き好んでいたことか……」
ハルは頷く。常に昔の世界に憧れを抱いていて、しかも、一番好きなロリータを読んだときは毎度涙を流し、その日の夜にはいつも悪夢にうなされていたそうだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい……。父さんの悲痛の声は、してくれた優しさと同じぐらい記憶に残ってる。ごつごつした腕とか、疲れ切った表情と一緒にね」
ハルはそこで僕から目を背ける。
「僕は父さんが死んだ理由を知りたかった。優しすぎる父さんがそこまで追いつめられる理由をずっとずっと求めていた。だけど、それを理解する前に父さんは死んでしまった。だから僕には父さんを理解する方法が本を読む以外なかったんだ」
初めて聞いたハルの思い。ハルの過去。
「僕は過去の本が好きにはなれなかった。みんな獣のように生きる昔の世界がどうしても羨ましく思えなかった。憧れるところが何一つなかった。だけど、みんな昔の世界にあこがれてた」
「みんな……?」
そうつぶやいた僕の言葉を聞いてハルは自嘲気味に笑う。
「実はアキ以外にももう一人、世界を変えようという名目で過去の小説を読ませた人がいたんだ」
その名前はフユっていうんだ。ハルは悲しげにつぶやく。拡張現実の検索コマンドにかけると見覚えのある顔が出てきた。直接話したことはないが、ハルと一緒にいることは時々見かけていた、背の高い女の人だった。
「彼女とは父さんを失った後に偶然知り合ってね、身の回りの世話をしてくれた人なんだ」
知らなかった。ハルの家はいつ行ってもきれいに整理されていて、知的天井の自動掃除の設定にしていると思っていたのだが、どうやら人が整理していたらしい。
「俺は彼女にも頼んだ。真面目な彼女は熱心に読み込んでくれたよ。だけど、これらの考えを大々的に広めようとしたんだ。それはいけなかった。俺の本当の目的は父さんのことを理解することだったから。もちろん否定した。駄目だと強く言い聞かせた」
ハルはそこで息を深く吐く。これから話すことはそれほどまでに苛烈なものなのか。
「だけど彼女は聞かなかった。本を読んで自我を持ち始めていたのかもしれない。これは悪いことではなく、正しいことだから広めるべきだと彼女は全世界共有サーバーに書籍データを投稿しようとしていたんだ」
「僕は止めなければならなかった。アキやフユ、それに父さんを見て、昔の書籍は人を変える魔力を持っていることに気が付いていたから。それが全世界に投稿されてしまったら今の日々はもうやってこないことを知っていたから。」
ハルの声は震えていた。それはつい先日ハルの家に訪れた時と同じようで、もしかしたらその時——。
「だから俺はフユの首に手をかけた」
その人は死んではいないらしい。意識は戻らないらしいが、今も生きているそうだ。僕はそれを聞いて少しだけほっとした。
「禁止されている昔の書籍を読むことならいざしらず、人を殺そうとするなんて昔の世界であっても最も悪いことだ。僕は誰かに裁かれたくなった。だけど、この世界に罪を与える機関はない。たくさんのセラピーに、たくさんの薬を投与されて、社会に復帰させられる。僕はそれを耐えきる自信がなかった。たとえ社会復帰しても罪の意識につぶされて生きていける気がしなかった。僕は社会に生きる資格はない。だから僕も死のうとしたんだ」
言いながら、ハルはとても苦しそうに僕を見た。拡張現実内でハルの心身ストレスが異常値に達したことが表示される。
「僕が悪かった。嘘でアキを騙したこと、本当に悪かったと思っている。だから今からでもいいから世界を変えることを止めてほしいんだ」
今が最良の状態なのだとハルは言った。つまらなくても、平和なのだから最良なのだと。僕には同意しかねた。それでは幸せになれないと反論した。ハルはそうかとつぶやいた。とても悲しそうだった。病室を出るとき、ハルはまたも言う。ごめんね、と。
その日以降、僕はより一層法律改正に向けて運動をすることを決めた。ハルは保守的になっているのだ。きっと新たな世界を見たら受け入れてくれる。そうかたくなに信じてがむしゃらに努めてきた。支持者はどんどん増えていった。一部の自治体は先んじてプライベート公開を禁止し、たくさんのところから注目されることとなった。
順調だった。すべてが順調なはずだった。
しかし、突如として事件は起こる。
プライベート公開を先行して禁止した自治体の一つで暴行事件が起こったのだ。また、別の場所では他人を信用しきることが出来ないのが心から辛いといった言葉も上がりだした。今までの平和が一気に崩れだした。確かにつまらない世界は望んではいなかったが、プライベートを禁止するだけで暴力沙汰が起こるまでとは予測もつかなかった。僕は怖気づいてしまった。自分がしていることの重大さがようやく実にしみてきた。しかし、後には引けなかった。たくさんの人の期待が僕にかかっているとわかっていたからだ。
確かにこの世界はつまらなくはなくなっていた。小説の題材にできるぐらい奥深いものと化していた。しかし、そこは地獄だった。誰も裁かれず、自己を持つ者だけが、勝者となる、阿鼻叫喚の巣となっていた。
最後のほうは後々分を付け足します