04:たった一つの冴えたやり方
それから僕は変わった。一見どこも変わっていないようだが、自分の中ではいろいろ変わったつもりだ。
まず読む小説が大きく変わった。二十五世紀に出版されたつまらない物語ではなく、二十世紀前後のうねるような展開の物語を好んで読むようになった。サロメに人間失格、ドグラマグラにカラマーゾフの兄弟。いずれも今では考えることもできない人間模様がありありと描かれていて、それによって世界が、付近の人間関係が変わっていくのは僕とどこか縁遠いものに見えた。この世界はみんながみんな優しいから、独占することをおいそれとはしない。あくまで自分は社会の一員。そんな考え方が根底に宿っている。それゆえにお互いの関係もある程度までは踏み込んでくれるが、逆にある程度からはなかなか踏み込んでくれなくなってしまう。頼めばいろいろと手伝ってくれるし、相談だって乗ってくれるけど、それは昔でいう表面上の関係と何ら変わりない。相談に乗れる関係。気軽に話せる関係。そこまでがデフォルトなのだ。そこからは幼馴染だとか、いとこだとかの強い関わりがない限り、なかなか問いてくる人はいない。プライベートがほとんどなくなったというのも昔と今の大きな違いだろう。拡張現実を起動しながら、または常時起動型のコンタクト拡現などを身に着けながら、道行く人を注視すると、様々な情報が公開される。本名、職業、電話番号やアドレスコード。既婚か未婚か健康状態はいかがなものか。その人物において最も評価されるべきところは先頭に、害を与える、つまりは普通を逸脱している危険なものは赤文字で。
こうやってお互いがお互いを見守る——いや、監視することで人々は模範的な生活を余儀なくさせられる。他者に全面的に信頼を置くことでプライベートを実質的になくし、調べようと思えばどこまでも調べられる。
きっと、そういった意識が逆に人の関係を希薄なものへと変化させているのだ。
僕はそういう考えの元、倫理セッションで主張することも決めた。個人情報を公開しすぎることが、逆に思いやりを薄くしていると。人が人をさらに思いやるためにはお互いの知らない部分がなくてはならないと。班のメンバーは、目を丸くして聞いていた。どんな意見を言っても温かい拍手が送られるが、この時ばかりはこころなしか、いつも以上に気持ちの入った拍手を送られている気がした。
この意見は大々的に取り上げられることとなった。百年ほど続いてきたプライベート公開法に転機が訪れるのではとニュースでも話題となり、様々な議論が行われることとなった。僕自身もそういった大きな話し合いなどに呼ばれることも増え、その際は過去の世界の憧れを思う存分語りつくした。もちろん過去の作品に触れることは禁止されているから伏せるところもあり、世界をよくするための意見とはいえ初期は後ろめたくもなっていたが、その意見が支持されていけばいくほど、僕のおかげで世界が良くなっていると、自分を正当化することが出来た。
その間も、ハルの家に行くのは日課としていた。いや、更に通い詰めるようになっていた。
初期は僕の考えを興味深そうに聞いていたハルだが、次第に聞きたがらなくなっていた。その内僕がハルの家に赴いてもドアを開けてくれなくなった。ドアにロック機能はついていないから、開けることはできたのだが、ドアの前にたくさんの荷物を置いて、無理やり入れなくしていた。志を同じとするはずなのに、この仕打ちの意味が僕にはよく分からなかった。開けてほしいと僕は言った。ハルはやりすぎだと返す。
「どうしてそんなことを言うんだ。君だって世界をよりよく変えようとしていたじゃないか」
「確かにそうだ。俺は世界を変えようと言った。だけど、これは違う」
ハルの声は震えていたが、なぜそうなっているのか僕には本気で分からなかった。ハルの父親だって、ハルだってこれが望みだったはずなのに。世界は今より良く変わっていっている。プライベートが尊重され、ハルの父親もきっと喜んでくれる世界が来ようとしているというのに、僕に世界を変えてくれと頼んだハル本人が、僕のことを否定している。
「何が違うんだ」
ハルは何もしゃべらなくなった。僕の疑問の声だけが、薄ピンク色のドアの前でむなしく散る。そのうちだんだんと腹が立ってきた。国はこんなにハルや世界のためにいろいろと行っているというのにハルはそれを認めない。理由を聞いても返さない。腹が立つのも無理はない。
ああそうか——。これが“嫉妬”か。
当時、僕がちょうどアマデウスやサリエリのことについて調べていたのもあって、それを嫉妬と判断。よりよく世界を変える案を考えたのが妬ましくて、僕にこれ以上知識をつけさせないように部屋に入れないようにしているのだ。なんと浅ましくて愚かすぎる考えなのだろう。
なぜかとても心地が良くなった。優越感というか、愉悦心というか、ハルを勝ち越したという気持ちが僕の中でぶくぶくと膨れ上がって、思わず口角が上に向く。今まで仲間だったはずのハルが、僕の中でとても小さなものに見えてくる。こういう時小説のキャラクターたちは何をしていたか思い出し、本で仕入れたたどたどしい恨み節をドアの前で放つ。
抑圧されてきた感情が一気にあふれ出し、ハルに向かって言葉をぶつける。気の赴くままに投げつけたそれはハルの心にしっかり痛みを与えていることだろう。とても、とても気持ちが良かった。二十五世紀の小説を読んでいたころとは比にならない。昔の小説を読んだ時よりも恐ろしいほどの快感が僕の身に襲い掛かった。
しかし、そんな快楽という名の火も、薪、つまり返答がないのならばいつか鎮火する。ハルは何の言葉も返してはくれなかった。
面白くない。
更に強い口調で吐いてみる。もはや罵倒になっていたそれだが、その時の僕に歯止めは聞かなくなっていた。やはりドアの向こうからは何も聞こえない。
気持ちも収まり、引き返すことにする。最後に僕はやり遂げるよという言葉を残して。
きっとハルは荷物の奥にいたのだろう。僕の罵倒を全部しっかりと胸に刻んでいたのだろう。一言、ハルの胸から絞り出すような声が僕に届く。ハルのそれはやけに僕の頭に残っていた。
「ごめんな……」
次の日から、僕はハルの家に行くのを止めた。情報を吸収するほうから、発信するほうにスタンスを変えたのだ。未来は明るくなること間違いなしだった。面白くなっていくはずだった。僕の目には希望しか映っていなかった。
しかし、その数日後、ハルは自殺未遂を起こした。