03:過去の代弁者
時刻は六時を回り、僕の拡張現実がアラームを鳴らす。それでもなお、本を読む手は止まらなかった。残りはあとわずか。彼の独白で物語は終結を迎えようとしていた。
『そしてこれこそ、お前と私が共にしうる、唯一の永遠の命なのだ、我がロリータ』
終わった。彼は最後の最後まで自分に殉じた男だった。彼は愛に生きた男だった。彼は自分のしたことを罪だと強く思い続けた男だった。そして、彼はどこまでも報われない男だった。
僕はその様を心のどこかでかわいそうと思ってしまった。もっと良いやり方はなかったのかと、娘も主人公も幸せになる未来はなかったのかと、思わず考えてしまう。確かに主人公は悪人だった。思うままの自我に生きた、根っからの悪人だ。
しかし、ロリータを心から愛していたのもまた事実。成長するにあたって愛情を失っていくと言っていた主人公だが、成長しきった少女を見てもやはり愛していた描写を見て思わず涙腺が緩んでしまった。いつからか小児性愛から父性愛に変わっていたが、そこもまた泣ける。彼は理解できない化け物のような人間ではなかった。僕はすでに彼を受け入れていた。
窓を見ると、すでに朝日が昇っている。僕はぶっ通しで読み続けていたらしい。
いい話だった。僕もこういった生き方をしたいとまで感じてしまった。
だが、一つ思う。これは今の世の中ではできないのではないだろうかと。
この世界は優しい。どこまでも優しくて思いやりにあふれている。みんながみんな望んだ生活ができ、不自由なんてこれっぽっちもない。どん底を知らないようにお膳立てされている。
だから歪んだ人が生まれてくることはない。
ロリータの主人公のように、別人に過去の面影を重ね愛する悲しい人も、ロリータ本人のように心から誰かを拒絶する人もいない。僕にはハルという苦手な人がいるから、後者のほうは当てはまらないかもだけど、基本的にみんな人が大好きで、何事も受け入れる準備はできているから、主人公とロリータ間の倫理の問題などはすぐに解決する。立ちはだかる障壁と言ったら、ロリータが主人公を愛してくれるかどうかぐらいだが、それすらも大したものではない。実際に行っている人は見たことないが、一応この世界では一夫多妻制と一母多夫制が認められている。最も重視すべきは自分の気持ちよりも相手の気持ちだから、きっと幸せになれたはず。
だけど、それではこの物語は生まれなかった。愛に生きて不幸な一生を送る主人公のような人間は存在しなかった。この世界では不幸がない代わりに物語のような難解なことも何一つない。
つまらない。
ふと思ってしまった。この世界はなんとつまらないのだ。あたりを見渡せば優しさ、善意、慈愛に平和。いつも他人のことばかり考えていて、気遣いながら生きている。こんな世界でどんなドラマが生まれるというのか。
平和である分この世界は恐ろしく退屈であるということに僕は今、気が付いてしまった。その点、昔の世界はどうだろう。成功は約束されていない。思いが成就するのも確実ではない。共有しすぎないからすれ違いもたびたび起こる。常に悪意を疑いながら人を落とすことだけを考えている。
なんとまあ最高だろう。悲痛の声が満載だ。たくさんのドラマが想像できる。きっとロリータのような悲しくて、考えさせられる物語がいっぱいだろう。
僕はハルの父親が昔を望んでいた一片が見えた気がした。今まで全く分からなかったことが一気に開けたような気がして、鬱屈とした何の味もしない暮らしに光が刺したように思えてきた。なぜ僕は今まで忌避していたのだろう。
「……このつまらない世界を変えてみせたい」
思わず漏れた。ハルがまずはロリータを読んで昔の世界に触れてくれと言っていた意味が今ならよく分かる。ハルは父親の意思を汲み取って、世界を面白く変えていく所存なのだろう。今の僕ならば何か力になれる気がした。
僕は背伸びをしながら今後のことを考える。とりあえず、倫理セッションで何か言ってみよう。みんな真摯に受け止めて社会の改革に努めてくれるはずだ。
期待で胸が高鳴る。喜びで頬が緩む。興奮状態もほどほどに、僕はロリータ読了の余韻に浸りながら、意識を失うかのように床に倒れこんだ。