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パブリック    作者: つむぐぼん
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02:過去への扉

 宣言したのはいいものの、苦手なものはやはり苦手で僕は一人机に突っ伏していた。側にはハルから手渡されたロリータがある。ハル曰く、ロリータはハルの父親が一番読み込んでいた本らしく、何度も読んだのか、指を置くところにたくさんの垢がついている。なるほど納得の読み込み具合だ。小さいころから読んでいたのか指紋の大きさも別々だ。今のページは二百五十四。やっとのことで一章が終わり、これから物語がぐねぐねと動いていくのだろうと容易に想像できた。

 伴侶が不慮の事故で命を落とし、(といってもこれも主人公が直接的な原因といっても過言ではない)それを好機と判断した主人公が伴侶の娘と逃避行を始めるところである。そこまでハルのため嫌々ながらも読み進めていた僕は、主人公が同じ星に生きた人間ではないように思えてきた。常に伴侶の娘に対して劣情を抱いており、その体の柔らかさ、無邪気さ、愛らしさがどこまでも気持ち悪く鮮明に鮮明に描かれていた。翻訳らしい淡々とした描写とそれとは逆に恐ろしいほどの娘に対しての執着心や熱意が相まって、その様に強烈な嫌悪感を抱かせる。すべてが計算されつくし、もはや芸術的なほどであった。

『ロリータ、ロリータロリータロリータ』

 その純粋なる気持ち悪さと、ただただ驚く展開に圧倒され続けていた僕だが、やはり限界が近づいている。もう開きたくもない。二十五世紀の小説に比べてかなり内容も入り組んでおり、というか考え方が根本的に別物というのもあり、四苦八苦しながら読み進めてきたがさすがにこれ以上は来るものがある。今まで一応の主人公セーブ役として機能していた母親がいなくなった今、娘は主人公の思い通りなのだ。諸悪の権化である主人公が少女に悪逆非道の限りを尽くしていくのは目に見えており、想像もしたくない僕はギブアップすることを決意した。読んでいけばどこか一つぐらいは主人公に共感できるかと思ったが本当に全く見当たらず、そういう面でも僕はもういっぱいいっぱいだった。

 昔の世界にいいところなんて一つも見つからない。

 もう寝よう。僕はそう決め、寝床につくことにする。

 本も返そう。今日はもう家に帰っているから無理だけれども、明日一番に返せばいい。

 時刻は九時を回ろうとしており、普段の僕に比べたら長く起きていたなと、少しばかり以外に思う。飛ぶように過ぎた時間。その元凶がロリータなのだ。普段は逆に長ったらしく感じる時間が今はむしろ早く感じていて、ロリータ、もとい昔の書籍の魔力に驚きを禁じ得ない。

 拡張現実のコマンドを操作し、部屋の電気をシャットダウンさせる。僕は暗闇が嫌いだった。得体のしれない何かがじわじわと僕を侵食しているようで、さらに今日は過去の遺物に触れた。共有できない異質性と、口に出すのもはばかられる不快感は弱い僕の心をさらに心細くするのに十分すぎた。

 早く寝よう。横になり、毛布をかぶり目も閉じる。脳裏には小説の主人公の狂気な沙汰が鮮やかに焼き付いており、ベッドにシミを作るほどの冷や汗が、滝のように流れ落ちる。

『手の窪みには、まだロリータの象牙の感触が残っている——抱きながら手を上下させると、白いワンピースを通して伝わってきた、思春期前の、内側に曲がった背中の、あの象牙のようにすべすべした、しなやかな肌の感触がまだこの手の中にあふれているのだ』

『私は強力な睡眠薬を母親と娘の両方に処方して、まったく何の咎めもなく後者を一晩中愛撫する姿を想像してみた』

『彼女の頬骨には赤みがさし、ふっくらとした下唇はつやつや光っていて、私は今にも溶けてしまいそうだった』

 もはや悪夢以外の何物でもなかった。聞こえるはずのない主人公の笑い声が耳元で反響し、この先もずっと主人公の語りで少女が描かれていくと考えたら気の毒で仕方なくなる。この世界に生きていればそんなことにはならないのに、みんなで解決策を考えるのに、物語だから仕方がない。物語だから救いようがない。

 しかし気が付いた。寝ようと思ってベッドで横になっても考えるほど、この物語が救いであってほしいと切実に願うほど、僕はロリータに対してのめりこんでいるという事実に気が付いた。それは作者への期待なのかもしれない。作者ナボコフが善人であってほしいと、僕はそう思っているのかもしれない。

 どちらにせよ、ロリータへの関心は、主人公と娘への興味はとどまることを知らなかった。これらを消化するのは読み進める以外の方法では存在していない。

 僕は体を起こし、コマンドを操作し、部屋を明るくする。

「ロリータをここに」

 僕がそうつぶやくと、知性天井からゴムでできたピンク色の腕が伸びてきて、数メートル離れた机の上にあるロリータをベッドにいる僕のところまで器用に運んでくる。昔には存在しない今だからこそできる文明の力だ。

 僕は時計に目を向ける。一時間もすれば眠くなるはず。どうせ明日には返すのだし、もう少し読み進めても誰も咎めはしないだろう。

 僕はそんな心持ちで、ロリータを読むことに着手した。


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