仮定法過去完了
タイムマシンの乗り方を知っているかいなんて言われて、そんなものはないよと答えたら、ないものは乗れないのかと聞かれて、そんなこと知らないよと返したが、ついさっきまでワタシは中学生だったのだと彼女は胸をはった。日当たりのよい席で、カップを持つ彼女の白い手に窓枠の陰がぼんやりと落ちていた。何の特徴もない音楽のなかで、シーリングファンがくるくると回っていて、土のような香り、眠気を誘うのに冴える湯気、カウンターで話している人たちの声、電卓を叩く音、外で走る車、何もかもが騒がしかった。
「わたしも先週の火曜日は高校生だったな。宿題を忘れたふりをしたら、取りに帰りなさいと怒られて、なんてことだって思ったね」
「まったく、夢と現実を混同するのはやめなさい。こっちは真剣な世間話をしているんだよ」
中学のときおさげで、高校のときはポニーテールだった色瀬奈津美の髪型は大学生になってミディアムボブになった。かつてはかっちりと固そうなブラックも、やわらかそうなブラウンに。制服姿を思い起こすことが困難になるような、あまりにもぴったりなゆるい私服。「ならなに。中学生のコスプレでもしたの?」彼女は吹き出しそうになって、ペーパーナプキンで唇をとんとんと叩いた。
「ときどき、予知をする人がいるだろう」
「ああ、インチキの」
「それで思ったのだ。世界のあらゆることはもうすでに決まっていて、だけどワタシたちはそれを知らない。小出しの新しい知識を得る瞬間の長さが、長針の傾きになっている――死んだ人の時計が止まってしまうのは、もはや何も知ることがなくなったから」
だったらアナログ式ではなくて砂時計のイメージなのでは? 奈津美は首を横にふった。軽い毛先がふわふわと荒れて、凪いだ。
「事故で記憶を失っても、落ちた砂は元に戻らないでしょ。ところがアナログ時計は、二つの方法である地点に戻ることができる」
高校生のときに見たことがあった。二時間目と三時間目の間隙、壁にかけられた電波時計の針がぐるぐると逆回転していた。きっと、それは時計の不調や電池切れだったのだろうけれど、どこか不吉な予感があって、カフェインを摂りすぎた時のような、不安と興奮がじわじわとせり上がってきたのだった。
今日の奈津美の話には、まさしくその薄気味悪さが背景にあった。彼女は考えるわたしを見て、静かに笑った、気がした。
「まあまあ、今日は証明しにきたんだ。過去を知ったワタシと、過去を知っているあんたで、世界がどれだけ変わったのかを」
中学生のときに。彼女はまずそう切り出してから、カップに口をつけ、ちらりと上目でこちらを見てから静止した。
「ワタシは愛ちゃんに恋をしていた」
少し飲んでカップをソーサーに戻した奈津美は、わたしの顔を見てへらへらと笑い出した。
「何、そんなに衝撃告白だった?」
「だった、だったよ。だって奈津美と愛って、こう、あんまり仲良しではなかったような」
「具体的には?」
「スキー板で殴り合っていた」
「あったあった」
「二つのクロワッサンで頭をはさんで『ヤギ』『いや、ひつじ!』と言い合っていた」
「あったあった」
「ふたりして、わたしに互いの陰口を叩いていた。なんであんなやつと友達なのって板挟みに責められて、三日ぐらい不登校になったな」
「おっと、それは記憶違いだよ。あんたが三日も休んだのは帰り道にあった謎の植物をぱくっと食べておなかを壊したからだよ」
「そんな記憶はございません」
眉間にしわがよっている、と彼女はわたしに指をさしてまでからかってくる。にらみつけると、こほんと咳をして「本題はね」と目を伏せた。
「恋とは尽くすことだけではないから、跪いて花を捧げる人以外も、じつは情熱を秘めているものなんだよ」
「それはなんとまあ、おしゃれなこと」
「ワタシはその真理に気付かなかったし、当時はまだ若かった。それに周囲の女の子たちはイケている男子高校生や大学生、アイドルの話ばっかりで、同性の写真を枕に入れているなんて、とてもではないが言いづらいことだった」
確かに同じ中学生のくせに男子中学生は対象外だったよね、枕の下に写真を敷くと夢に出てくるなんて話があったよね、なんて反応は彼女も求めていなさそうだった。うなずくと「わかったような顔をするな」と口をとがらせてくる。呆れてやればよかった。
「ワタシはまず日記を探した。分厚い辞書と辞書のあいだに挟んでいた、ハードカバーの真っ赤な手帳。ある日の強烈な文章が忘れられん――冬服の、セーラー服の、赤色の、リボンの、結び方の綺麗な女の子に膝枕をされながら葉と葉のあいだから射す光だけを受けて生きていたい――気付いていた! 何がほしいのか、すでに知っていた。が、知らないふりをしていた。そして手に入らなくなってから、そのふりも忘れてしまった」
そこで彼女は己の欲望にしたがって、愛に告白したという。
「って、いきなり告白しちゃったの?」
「あんたがうなされているあいだにね。一人で帰ろうとするあいつの後ろについていって、なんだよと聞かれたから、抱きついてちゅーしたのさ」
「告白すらしていない」
思えば性犯罪だったね、と奈津美は過去を懐かしむように言った。
「泣きわめいて逃げる愛を公園まで追い詰めてさ、あいつは滑り台の上に立って叫んだ。『ファーストキスだったのに!』そしてワタシの喜びを反転させるように。『私にも好きな人がいたのに!』」
かつての愛を思い出す。天真爛漫な奈津美と違って、少し陰がありながらも控えめにやさしかった彼女。わたしが転んでしまったとき、清潔なハンカチを差しだしてくれた夏の日、レースの白が傷口に触れて赤と黒に染まった、流水の冷たさが染みた、吹く風のつめたさにストレートの黒髪がより引き締まって見えた、友の横顔にはだれかへの恋慕があった。が、わたしは何も知らなかった。
「結局、三回ぐらい殴られて、殴り返して、ワタシも二日ぐらい休んだんだよ。まったく、大人になると暴力で語り合うことを忘れてしまうようだがね」
「確か、わたしがふたたび登校してから、愛と奈津美の諍いが増えていたような」
「それはね、歴史が修正されたからだよ。ワタシが本当にしたいことをしたから、その結果が未来である過去の今に反映されたんだ」
ぐるぐるぐる。奈津美は頬杖をついて、空いた片手の人差し指で宙に円を描いた。最初は時計回りに。いつの間にか、時計回りに。
「いやいや、わたしが知らないことを話しても何の証明にもならないから」
「だったら部活の話をしようか。愛に振られたワタシは、すでに次の女の子のリボンに蕩けていた」
「移り気」
「彼女はやっぱりあんたの知り合いで、あの後輩のなかで一番かわいいユッコだった」
「かわいさで後輩に優劣をつけないで! ユッコ? まさか」
小首をかしげた奈津美に、わたしはそばにある窓ガラスに自分の顔をうつして、また前を向いた。
「ユッコのリボン、なんかいつもだらしなかった気がするけど。左だけ短くて、右だけ膨らんでいて」
「最終的には綺麗に整っていたよ」
「そうかなあ」
「ユッコがワタシの悪口を言っていたことについて言い出せないかわりにリボンの悪口を言うのはよくないぞ」
「知ってたの?」
両手を頭の後ろにやって「大人になると処理能力が高くなるから、過去に見えなかったことも見えてくる」と奈津美はさりげなく言った。
「人なつっこいユッコも、アドバイスを聞くときにはあんたの膝にばかり乗って、ワタシにはちっとも寄ってこない。白の靴下のワンポイントのチェリーのかわいい女の子だった」
「それで、またいきなりキスして当然のように拒絶されたの?」
「知らないかね、未来から学べるだけなくて、人は過去から学べるんだ」
「ふつうはそういうものだよ」
そうかな、と奈津美はふたたびコーヒーをちびちびと飲んだ。ワタシもカップを持ち上げる。苦さを、感じない。思えば、はじめて飲んだときからそうだった。視線に気付いてカップを下ろす。口を開く前に「なんでもないよ」と奈津美は片手をひらひらと振った。
「学習した奈津美ちゃんは、未来を知っているアドバンテージを利用しようと考えてね。のちのち彼女に起こる悲劇を回避させて恩を売ろうとしたのさ」
「廊下で他の子たちと競争していたら角から歩いてきた先生とぶつかってカツラを飛ばしてしまったこと?」
「いいや」
「お昼に自家製ヨーグルトを持ってきたら包みから染み出して大惨事になったこと?」
「いいや……記憶力がよいことは罪だよ」
ユッコの笑顔、靴下の伸ばし方が左右で違う、良いとは言えないけれど嫌いでもない家のにおいがする、部室の鍵を返しに行くときまでちょこちょこついてきて、ときどき廊下の真ん中でくるりくるりと楽しそうに回っていた後輩も悲劇のそばに立っていた。が、わたしは何も知らなかった。
「彼女はひどく思いつめて命を絶つところだったんだ」
「そんな、雰囲気の子ではなかったと記憶しているけど」
「たしかにあんたの前ではずっとお転婆だったよ。あの雲、たい焼きみたいですね先輩、なんて空を指さす勢いでにわか雨で出来た水たまりに足をつっこんでいた」
「あったあった」
奈津美はひそひそ話をはじめるかのようにこちらに顔を近づけた。
「じつはあの子にも好きな人がいたんだよ」
また恋か。わたしの表情に気付いたらしい彼女は「だれかを想うことはすべてを長大にしてしまうんだ」とため息をついた。
「でも、その恋は到底かないそうになかった」
「有名人?」
「まったく。むしろ有名人だったらまだチャンスがあった。心があるなら時と場合と状況によって通じる可能性もある。が、彼女の好きな相手には心がなかった」
でも人なんでしょ、とは聞かなかった。人でなしだって、人だ。
「ワタシは知っていたから、忠告してあげた。屋上近くの非常階段に呼び出してね。風のつよい日だったよ……あんたがどんなにアピールをしようと無意味だ、ゆえに絶望しなくてよし、石をかみ砕けないことで落胆する人生なんてなくていい。ああ、なんという親切心!」
「ただの性欲」
「ワタシは己の心に感涙さえしたが、ユッコときたら。『自分の名前をど忘れしてあやうくゼロ点を取りそうだった先輩がいったい何を知っているつもりなんですか、人の心なんてわかることすらできないのに知ることなんてなおさらできるわけありません』なんて」
ラミネート加工されたメニューの右端には、パンケーキの写真が載っていた。ふかふかな厚みの上にのっている胸焼けしそうな量の生クリームを台座で輝くカット苺。つやつやとしてみずみずしい。打ち上げで行ったファミレスで、甘えて肩に寄りかかるゆっこに苺を食べさせてあげたっけ……額をぴんとはじかれて顔をあげた。
「そ・れ・で、ワタシはさらにこう説得してやった。いいや、知ることはできる。未来から過去に戻って、やり直せばいいんだ。人は思い出話のなかでなら素直になれる。本当はああだった、こうだった、だれも頼んでいないのに語り出してくれる。その記憶をたずさえていれば、他者の心だって知っていられる」
ユッコの両肩をつかんで熱く語りかけている奈津美の姿を想像する。つばを飛ばしまくって、顔をゆがめるユッコのことも。奈津美は何かおかしそうな顔つきになって「そしたらさ」と続けた。
「ユッコ、号泣しちゃって。『おんどりゃあ、ふざけんじゃねえ、足を引っ張りたいだけだろうが、勇気がないだけのくせに冷静ぶってんじゃねえよ、頭突きすんぞ、とりゃあ』、大興奮よ」
「頭突きされたの?」
「華麗にかわして抱きとめて告白して往復ビンタされた」
「だめだこりゃ。それも、結局ユッコは死ななかったわけで」
結局ね、と奈津美は目を細めた。
「ユッコが恋で悩んでいたなんて、わたしはやっぱり知らないもん。だから奈津美の関与で何かが変わったとしても、それは、よくわからないし」
「知ろうともしないからわからないんだ」
「そもそも、歴史が修正されるって話なら、この会話は無意味よね?」
「意味があるかは、今はわからない。橘先輩のことを思い出してごらん。彼は野球選手になるつもりで毎日素振りをしていたが、事故で利き手に後遺症が残ってしまった」
つい奈津美の顔を長々と見つめてしまった。「それでも事故が起きるまでは楽しかったのだから、無意味だとは言えないと思う」「違うんだ。彼はある職業に就くために勉強していて、しかし模擬や演習問題を解くまでもなく、筆記用具を握れなくなったんだ。楽しかったからまだ良かったなんて後付けだよ。学んだことがあとに違うことで役立つなら、それもやはり未来が意味を決めるわけ」どんどんと饒舌になる奈津美、少しずつさめてゆくコーヒー。「あわれな橘先輩、ワタシは彼を事故から救ってやることにした」
「不謹慎な冗談! 彼は事故に遭って野球を止めてしまった。あなたは何もしなかったし、したとしても、何も変えられなかった」
奈津美は顔の前で両手を組んで口元を隠した。ぼんやりと、恍惚としたように向けられるまなざし。
「さっきは楽しかったら無意味ではないと言ったのに、これまた短い間にずいぶんと変わってしまったよ。まあ聞きたまえ。結果としては同じになっても、人間の気持ちはいくらでも変わってしまう」
「愛ちゃんやユッコのときみたいに、ろくでもないことしか出来なかったのでは」
「失敬な! ワタシは彼の心を十分にほぐしてやったつもりさ。ところであんたは、なぜ橘先輩が野球選手になりたかったか知ってる?」
知らないよ。答えながら橘先輩が病室で泣いていたことを思い出した。「知らない、何も」
「彼の好きな後輩の女の子が、プロ野球選手のカードをくれたんだって。お菓子についているおまけのカードをさ」
「俗」
「あのころは、好きな人のためなら何でもできる気がするんだよ」
よく、わからなかった。
橘先輩に近づいた奈津美は、後輩の女の子の情報をえさに、次々と彼の想いを暴いていったらしい。幼稚園から一緒だったこと、家が近くでよく遊んだこと、小学校高学年になって先輩と後輩の線引きが強くなってから、男と女というのもあって、遊びづらくなったこと、中学になって試合に呼んだら観に来てくれてうれしかったこと。
「事故の前の日、ワタシは朝練が終わったあとの橘先輩を捕まえて、体育館裏に連れ出した。あの場所は間違いだったね、夏だから虫がたくさんいてさ」
「告白と勘違いされなかった?」
「彼と仲良くなる過程で、好きな人を打ち明けていたからね」
ぱち、ぱち、と奈津美はへたくそなウインクをした。口元を隠していた手はすでにテーブルに預けられていて、彼女の唇はなだらかな弧を作っていた。
「首にタオルを巻いて『エリマキトカゲ!』とはしゃいでいた先輩に、ワタシは忠告をした。気をつけてください。過去である未来である明日、トラックに轢かれそうな親子を救うために先輩は怪我をすることになるだろう」
「あ、きちんと言えたんだ」
「そう言ったよ。言ったんだけども、先輩はエリマキトカゲの声真似のあいだにこう聞いてきた。『でも俺が避けたらその親子が死んでしまうかもしれないんだろ』分かりませんよと、ワタシは言葉を選んだ。もしかしたら親がトラックをひっくり返して子どもを救うかもしれないし」
「なんと無謀な」
「先輩も信じてくれなかった。『もしもそこで親子が死んだら殺人になるだろ、本来は俺を盾に生きられるはずだったのにさ、だから色瀬が話した時点でもう逃げられないんだよ』やっちまったと思ったよ」
「やっちゃったね」
カップを持った手を揺らして、奈津美は黒の液体をぐるぐると回した。
「次の日、先輩は無事に車に轢かれた」
「何も変わらなかったね」
「聞いて驚いちゃいけないよ。人は知ることで変わることができる」
手の動きが止まった。奈津美のコーヒーはおだやかな渦を作っていたが、それもしだいにただの波になって、平たい水面になった。
「ひとりで見舞いに行ったときの先輩はずいぶんと元気そうだった。野球選手にはなれないかもしれないが、所詮は好きな人にかっこつけたいがための夢。『リハビリを頑張って、これからはふつうの野球少年にもどるよ』と彼は笑った」
「え?」
「その先輩に頼まれたワタシは、次の日、彼の想い人を病院に連れてきた。当時は、二人っきりにするために外に出て、ベンチに座って待っていた。でも未来から来たワタシはひと味もふた味も違う。こっそりと病室に忍びより、そっと耳を立てた」
「待って。何の話なの?」
「まず橘先輩の声が聞こえた。『わざわざ来てもらってごめんね、忙しかったでしょう』次に彼女がか細く答えた。『先輩は卑怯ですよね』ワタシは驚いたが、もう驚かなかった。未来で知った過去から学んだからだよ」
「ねえ、奈津美……」
「『卑怯って何のことかな』橘先輩の声は明らかに震えていた。『何のことって先輩、わたしに告白の回答をさせようとしたんですよね、ここで。だけどこの状況であなたに追い打ちをかけるように断ることができますか』それはもう、背筋が寒くなる声、ではなく、おだやかな声で、彼女は言った。『今まで、たくさんの人たちが好意をよせてきました、が、平気だったんです。どうしてだと思います?』答えない先輩のかわりに、ワタシが答えよう。なぜなら彼女たちはそのことを知らせなかったから」
なぜ今になって、過去の話をするの?
わたしと奈津美は見つめ合っていた。隣のテーブルに座っていた客が去って、店員がテーブルを拭いて、また元の位置に戻っていった。
「ワタシはね、過去に戻って告白するつもりだったんだよ」
誰に? 奈津美はコップを、すでに空になっていたコップを、少しずつ高く、高く、頭より高く持ち上げた。
「もし、あのときに勇気をだして想いを伝えたら、何度もした放課後デートが恋人どうしのデートになって、ひそひそ話をするたびにドキドキすることになって、一緒にコーヒーを飲む時間が、違う意味を帯びていた、はずでしょ?」
コップに注がれていた彼女の視線が、わたしを捉えた。
「だから未来に行って、聞いてみたかったんだよ。どうしてあんたは人を好きになることができないの? ってね」
遠ざかるたびに大きくなってぼやけてやがて消えるものはなあんだ。まだ涼しい朝のこと、冷たい砂場で、なぞなぞを出した女は答えられないわたしの耳たぶのはしに口づけた。
「わたしにも好きな人がいたから」
「過去形?」
「修学旅行の前日、彼女はわたしに一生、友だちだって誓ってくれた」
腕がぴんと伸びて、少しずつ後ろに倒れてゆき、カップを持つ手が震えていた。
「だけど、そんな彼女も過去から見た未来の今、わたしに告白して死んでしまうのかな?」
持ち上げられたカップが手から離れたとき、わたしは目をつむった。
「仕方ないよ。好きなものにはどんな時の流れも抗えん」
目を開けるとそこは日当たりのよい席で、スプーンを持つわたしの白い手に窓枠の陰がぼんやりと落ちていた。何の特徴もない音楽のなかで、シーリングファンがくるくると回っていて、甘い人工的な香り、眠気を誘うのに冴えるぱちぱちとした泡、カウンターで話している人たちの声、電卓を叩く音、外で走る車、何もかもが騒がしく、静かだった。
ふいに腕時計が気になった。アナログ時計は、二つの方法である地点に戻ることができる。一つは時間を合わせるために、あるいは不調のために左回りすること。もう一つは単純に前に、右に進んで回ること。時間の経過にしたがって、針は必ず同じ場所に戻ってくる。メロンクリームソーダの上にのっているアイスをつつく。もしもここに彼女がいたなら。わたしはコーヒーを飲んだだろうに。