影を以って夜を捉えるが如く。
そいつは、この世の人間ではない。
足が透けてるとか天地の気から生まれたとかそういう話ではなく、単に、憂き世や浮き世、つまりまともな世界と関わらずに生きている、という意味だ。まったくもって、一般的な振る舞いじゃない。
なぜそうするのかと訊いたら、そいつは面倒くさそうにこう答えた――「熊は人と関わらんだろ?」と。
自分のことを熊だと見なしているのか。あるいは、自分以外はすべて熊のようなものだと断じているのか。どちらにしたって、独善や自己陶酔が強すぎる。俺はそう思ったし、思ったままを口にもした。
するとそいつは悪どく笑い、指を鳴らして、こう言い放ったのだ。
「それでいい。ただのエゴイストでナルシストなんだよ。あたし達ァ」
影を以って夜を捉えるが如く。 / Fatal bonds.
「彼に会うのか?」
自宅の玄関で靴を履いてると、居間から父が問いかけてきた。
「うん、そうするつもりだけど」
「そうか。……なにか困ったことでもないか、訊いておいてくれ」
「あいつはいつだって健康だよ。元気じゃないだけで」
父は、ああともうんとも言い難い中途半端な声を返してくる。あいつ――寺無クレハのことになるといつもこれだ。俺は溜息を吐いて、玄関の扉を開けた。
今日は快晴。だが、まばゆさの中にもゆるい涼やかさのある、良い秋晴れの天気だった。日光アレルギーの吸血鬼だって外を出歩きたくなるような気持ちのいい日だろう。せっかくなのでクレハを外へ誘ってみようかな。
そう思いながら自転車でしばし駆けて、俺は繁華街の外れの雑居ビルを訪れた。
この雑居ビルの所有者は父で、クレハに最上階と屋上の大半を貸している。別に血縁でもないクレハと父の間に、どういう人間関係上の力学があったのかはわからないが、とりあえずそういうことになっているし、母や親族もそれに文句をつけることはなかった。
ビルの一階にある無国籍料理屋『ダイダバッター』でたこ焼きを買い、それを手土産にして俺は最上階へと向かう。
「……エレベーターとか、豪勢だよなぁ」
学生でも社会人でもないのに良い暮らしだぜ。羨ましい。
最上階のフロアはすべてクレハが使っている。だから、エレベーターから出ればすぐ玄関に通じる扉があった。チャイムを鳴らすこともなく、三種類の鍵を使って勝手に入っていく。
上がり込むと、寝起きといった風情の不機嫌そうな男に出くわした。クレハだ。
「ふほー侵入」
「呼べよ警察」
「やだよ……」
イケメンと呼べるぐらいには整った顔立ちだ。だが、滅多に笑わない愛想の悪さでお釣りが来ている。
「もう昼だぞ。起きろよ」
「エジソンとテスラに文句を言え。あたしはもう少し寝る」
そう言ってクレハは手で口を押さえ、大きなあくびを放した。
「またぞろ朝までパソコンか? ゲーム三昧たァ良い身分だよ、まったく」
「あたしだけが世界を救えるんだよ……」
面倒臭そうにクレハは言う。それから、使いさしのコップへウォーターサーバーの冷水を注ぎ、ちびちびと飲んだ。
「たこ焼き。手土産」
「またかよ。タコが入ってたこと一度もねぇじゃん、ゲテモノだよ」
「だから買ってんだ。文句あんなら食うなよ」
「食うよ……食わねぇとあんた機嫌悪くなんじゃん……」
そう言ってクレハはひとつを口に入れた。俺もひとつ放り込む。
「うぇー、イカだ」
「こっちはトリだな」
「あの店ロック過ぎんだろ……地獄に落ちるぞ……」
無名堂クレハ。半眼でたこ焼きをもぐもぐしているこいつは、いわゆるところのニートだ。だが、金銭的に困っているところはないので、おそらく働かなくても入る収入があるか、財産がどっさりあるかなのだろう。おまけにそれなりに高身長の美人でもある。雑に纏めてある髪をブラッシングし、眉毛やらなにやらを抜いて整えれば、それなりの貫禄だって作れるはずだ。
クレハも昔は、俺と同じ学校に行っていた。頭も悪くなかったし、人当たりだってそこそこ――というか俺以上にうまくやっていた。なのに、今ではこんな風に雑な生活をしている。風呂に入ったのは、いったい何日前なのやら。
「お前、たこ焼き食ったらシャワー浴びてこい。出かけるぞ」
「なんでだよ。あたしは眠いんだ、やだよ」
「良い天気だからだよ。図書館で調べ物があるんだ、手伝えよ」
「レポートぐらい自分でやれよー……」
「えー。行こうぜ。お天道様の光をたまには浴びるんだよ。公園に出て、図書館に行って、メシ食うぞ」
「……めんどくせぇなぁ」
悪どく笑いながら、クレハは鬱陶しそうにそう言った。そのくせ、立ち上がって体を揺らすと、よろよろとした足取りで浴場へ向かった。
クレハは不思議と、こんな風に話を持ってくれば断らない。
利用しているのか利用されているのか。よくわからないが、ともあれ俺は台所へ向かった。どうせ汚れた調理道具がそのまま投げ置かれてるから、シャワーを浴びている間にでも片付けておくのだ。……時間が余れば全自動洗濯機も回そう。
なんで生活能力もないのに一人暮らしをやるのかねぇ?
それなりに仕上がったレポートを提出した後、せっかくなのでサークルの部室に寄ることにした。
今日は雲が多く、空気が冷たい。薄手のコートを使って正解だった、なんてことを考えながら、声を出しつつ部屋に入り込む。
「こんち……わー」
珍しく人がひとりしかいない。しかも、居るのは美人だ。
「こんにちは」
彼女はオオシマという名の女性で、凄みのある風貌をしている。目が強いというのか、声が張っているというのか。どこか超然としたものを持っていて、他人と関わっている様子をあまり見たことがない。俺だって気後れするぐらいだ。
読んでいたマンガを畳んで、中央テーブルの上で手を組みながら、オオシマさんは言った。
「よかった。誰も来ないから、暇だったのよ」
「あまりないですよね。たいてい誰かがいるのに」
「でも、あなたが来てくれてよかった」
そう言って彼女は微笑む。
なんとなく直視できなくて、俺は視線を彷徨わせた。
「今日は寒いっすね」
「そうね。お鍋の美味しい季節になるわ」
「良いですよね、鍋もの。水炊き、おでん、シチュー」
「常夜鍋が好きかな。豚肉、ほうれん草、後はお酒とお水。ポン酢も。 ……そうだわ、あなたもどう?」
「……どうって?」
話の筋がわからなくて混乱した俺に、オオシマさんは穏やかな表情で続ける。
「美味しいお店、知ってるのよ。この近くの『ライラ』ってところ」
「ライラ……」
「小さくて、気さくな店なの」
なんとなくだが、誘われてることだけはわかった。
まさかこんな展開があるとは。嬉しい。サークル内での軽い付き合いしかなかったのだが、それなり、いや、かなり憧れるというか、お近づきになりたい相手だったのだ。オオシマさんは。
だが機会がなかった。いや、機会がないという言い訳をしちゃうぐらい、相手と自分を顧みると自信が持てなかった。
これは千載一遇のチャンスというやつだ。なぜそういうことになったのかはわからなくとも、ようやく俺はこれが得難い機会であることを理解したのだ。
「ぜひ」
「いい返事、嬉しいわ」
オオシマさんがそう言った直後だった。いくらかの人間がドヤドヤと部室に入ってきてしまった。なし崩し的に俺とオオシマさんの会話は途切れる。残念だ。
いつものやつと喋りながら俺は思った。もし、彼女がなにを言わんとしているかを理解するのが遅かったら。あるいは、俺がまごついて返事をするのが遅れていたらとしら。……まったく、嬉しいチャンスを逃すところだったのだ。
そうならなくてよかった。そう思いながら、ふとオオシマさんの方を見る。
偶然――たぶん――目が合った。
「…………」
微笑まれて、俺の心臓がちょっといけなくなる。
驚くべきことだ。そう思った。
雨がしとしと降っている。氷雨というほどではないが防寒の備えが必要な気温。
ざわざわと騒がしい大教室で、マイク片手に講師は授業を続けている。話している内容は心理学分野の話だが、いまいち内容がわからない。文明の利器で声を大きくしてさえ、ざわめきが強くてあまりよく聞き取れないからだ。
もう少し前に座っても良かったかなと思う。
講師にとっては、ここで『喋ること』こそが給料分の仕事なのだろう。『聞かせること』『学ばせること』は問題ではないわけだ。ならば、大半の生徒に無視されているとしても、この授業に意義は確かにあるのだ……もちろんその意義は俺に無関係な意義でしかないが。
そう。俺にとって、いま、この授業は意義を持たない。植物園に行って植物を見ないのは、時間と金銭と精神の無駄遣い過ぎる。なら、行かないか、植物を見るべきだろうと思う。
だから、やっぱりもう少し前に移動した。
「……するに、脳も違えば、体の機構も違うわけで。はっきり言って異星人みたいなものです。個体差。性差。まぁ、その違いも人間って種単位でなら吸収できる程度の差異ではありますけど、だからといって必ずお互いを理解・受容・認識できるかっていうともう無理ですね」
しっかりと聞いてみたが、どうやら学問的な話をしているわけではないらしい。
「ので、人間という種であることそして『あなたは私ではない』ということ、この間でちょうど良い塩梅を探ること、それも『こうだ』って決めた風にするのではなくて、その場その場でもう一度ちょうど良い関係であろうとすること、が大事になります。これは、人間関係のコストですけど、これを払わなければあらゆる好意的感情が萎れていくんですね。永遠の愛は、額縁に入れて飾るのでないなら、自転車操業を続けることでしか維持できない類のものであるわけです。ちょっと禅に似てますね。悟り即ち修行なり。悟った気分は悟りにあらず。……似てないかも?」
もう完全に言いたいことを言ってるだけだ。まぁ、席に座ってる連中の大半がお喋りしているのだから、講師だって好きなことを喋りたくなっても仕方ない。
「ともかく。男女間で類似した好意を向け合って関係を成立させることは、極めて難しいでしょう。なぜなら、まず右方と左方で個体差があり、さらに性差があるものですから、まぁカバとクジラぐらい違ってくるわけですな。とまれ、まぁ両方とも哺乳類だ、という風にやってみますと、女性は男性よりも感情を厳密に取り扱う傾向にあります。たとえば、友情と愛情などをそれなりに別のものとして認識できるわけです。これは、男性より高度なコミュニケーション能力の素地を持ち、かつそれを求められる女性ならではといったところがあるかもしれません」
雑談ならノートに取るのも意味ないな。もう話を聞くだけでいいや。
「さて。卵が先で鶏も先、そういう感じの相互成長的に、男性の所属する組織は所属者たる男性も所属先たる組織もより男性的になっていくもの。これは女性もまた同じです。そして、男性が達成力や機能性を重視して組織の序列を定める、つまり格付けを行うのに対し、女性は所有力や共感性を重視して上下を決めます。価値ある品があるとして、それを手に入れられることや使えるようにできることが大事なのか、それを持っていることや抱く価値観を共有することが大事なのか、といった具合でしょうか。まぁこれは雑談にしかならないぐらい恣意的過ぎる話ではあるんですけどね……」
あくびを噛みながら話を聞く。
男性のコミュニティと女性のそれの違い。まぁ、講師の言っていることが正しいかはさておくにして、まるで違うものであるのは事実だろう。あぁ、眠い。
「……まぁ、話を戻しますと、男性が他者に向ける好意というのは、女性が他者に向ける好意に比べて未分化であることが多い。それゆえ、原則的には贈った好意と同質の好意の返礼によって関係が成立するものですが、そこがどうにもうまくいかないことが多い。信頼してほしいのに欲情されたり、恋心を伝えても友情が返ってきたりするわけですね。そうなると、取引はなかなか続かないものです」
俺はうまくやっているだろうか。一緒にいたいと思える相手と、これからも取引できるだろうか。
やっぱり眠い。
関係を続けたいと思う相手がいること。その相手を想えること。
あぁ、それなりに俺は幸せなのだな。
少しだけ、ふと思った。
三つの鍵を開けて足を踏み入れる、勝手知ったるクレハの家。
「ちゃーす」
コントローラーを両手に持っているクレハへ、雑に声をかける。
「またゲームかよ。まだゲームかよ」
「うっせ。世界の平和を守ってんだよ。感謝しろ」
ディスプレイに顔を向けたままクレハが言う。とりあえず鼻で笑っておいた。
「そのゲーム一人用?」
「協力プレイもあるけど……なに、興味あんの。クソみたいなゲームだぞ、これ」
「クソゲーかよ。もっと面白いのやれよ」
その言葉の直後、どぅーんという重々しい音とともにディスプレイの画面が真っ赤に染まった。どうやら死んだらしい。舌打ちするクレハを横目に、棚からカップ麺を取り出す。共有財産というやつだ。文句を言われたことはまだない。
ウォーターサーバーからお湯をカップ麺へ注いでいると、クレハのキツい目と視線が合った。文句を言われるのだろうか。
「なぁ。あんたさ、なんで来んの」
違ったらしい。いや、合ってるのか。
「あー、今日は都合悪かったか?」
「そうじゃなくて。そもそも、来る理由がねーだろ」
「来るなって言いたいのか?」
「違うって。わかんねーだけだ」
もう何十回と来てるのに、いまさらそんなことを聞かれても。
「いまさらだなぁ」
「そのうち来なくなると思ってたんだよ。あたしだってあんたにゃびっくりだわ」
それなりに真面目な表情なので、それなりに考えてみる。
確かに、俺の親はそれとなくクレハの様子を見といてほしい的に思っているらしかった。だが、来たくなけりゃわざわざそんなことはしない。
なるほど。俺はここに来たくて来てるわけだ。ここは居心地がいい。わざわざそう言うのもアレだけど、機会があればそう言ってもいい気がした。
「そりゃ……まぁ、気兼ねしねー友達の家が近くにありゃ行くだろ。遊びに」
がっかりしたような、安心したような、そんな微妙な表情でクレハが言う。
「えー、そういうもん?」
「じゃねーのか。わからんけど。いや、邪魔なら来ねーぞ?」
「邪魔な時は入れねーよ」
「でもお前『今日はダメだ』とか言ったことねーじゃん。どーせずっと暇だろ?」
「だから、世界とか平和とか世界の平和とかをだな……」
「ゲームだろ」
「ヒーローだよ馬鹿野郎」
それきり、ぷいとクレハは顔をそむけた。やれやれ。
俺は出来上がったカップ麺を片手にそっちに向かう。クレハがゲームをやっている後ろで、茶々を入れてやるのだ。これが、意外と楽しい。
「悪いこと、したことがある?」
「……あんまり覚えがないです」
「でしょうね。そういう顔してるもの」
冬がより深まる前のころ、俺とオオシマさんは海岸の防波堤にいた。もともとは美術なり映画なりを鑑賞する予定だったのだが、急に『海が見たい』って彼女が言い出したから、冬海を見に来たのだ。
潮騒に鳥が鳴いている。
「私は覚えがあるわ。だから、すごく叱られたの。そのままだと地獄行きだって」
雲が深くて、空は明るくなかった。でも、オオシマさんは眩しいものでも見るように、目を細めていた。遠くに想いを馳せながら。
俺はなんとなく口を尖らせてしまう。
「その、怒った人、オオシマさんに関係ある人なんです?」
「いいえ。それまで、見たこともなかったわ」
「だったら、その人、言いたかっただけの人ですよ。知らないのに、なにもわかってないのにそう言ったんです。そうじゃなきゃ、地獄に行くなんてひどいこと言わないと思います」
焼かれたり凍ったり文句を言われたり、忙しい場所。そこが地獄だ。もしあるとすれば、獄卒どもは暇人だと思う。もしくは嫌な趣味の同好会か。
寒そうな仕草のまま、オオシマさんが声を漏らした。
「地獄って、あるのかしら」
俺は、地獄があるかないかなんて知らない。でも、そんなものをアリだと思いたくはなかったから、そう言った。
「たぶん、地獄があるからそこに落ちるんじゃなくて。罪悪感がある人が、地獄を必要としちゃうだけなんです」
『やっちまった』って思わずに生きれる人間なんていない。その、取り返しのつかないことを取り返すために地獄が生まれた。それはもうしょうがない。生きてる間は地獄を抱えていくしかない。だけど、それのせいで、死んだ後まで実際に地獄に落ちるなんてそんな無残な話、……俺はやだよ。
「なんで死んでまで苦しまなきゃならないんですか。そんなのナシですよ」
俺は繰り返し首を振った。
人間は苦しんでこの世に在る。とはいえ、少ないほうがいい。逃げられないとしても、少なくあるように祈りたい。
「あなた、優しいのね」
オオシマさんは、『なに言ってんだこいつは』という表情だった。そう見えた。
変なことを言ったつもりはないし、変なことだとしてもそう思うのだから、色々とまぁどうしようもない気がした。
しばらく経って、ようやくオオシマさんは呆れ顔で言う。
「……じゃあ、狼に地獄はないのかしら?」
「ないですよ。天国はあってもいいと思いますけど」
「天国に狼」
ようやくオオシマさんはくすくす笑う。
「そこで、絶滅した狼は群れてたりするのね。遠吠えしたり、狩りをしたり。……なにを狩るのかしら?」
「人間とか、獣とかじゃないですか」
俺がそう言うと、オオシマさんは溜息を吐いてから、強く言い切った。
「だったらそこも、この世よ」
狼めいたその横顔はひどく美しかったけど。
……オオシマさんは、自分のことを狼かなにかだと思ってるんだろうか。どこぞの誰かみたいだ。
その超然とした彼女に、なにかを言いたくなった。他人にアレコレ言うなんてろくでもない。でも、彼女の行く末こそがろくでもなくなってしまう気がしたから。
この種の人間は、ひどく頑なな殻で守ってるくせに、それ自身を真っ先に投げ捨ててしまうようなやりかたをする。それは良くないと誰でもいいから言わないといけない、なんてのはきっと余計なお世話なのだろうけど。
着信音が鳴る。オオシマさんはスマホを取り出すと、俺に軽く謝ってから通話を始めた。内容は聞こえなかったが、あまりいいいものではなかったのだろう。
話自体は短かった。きつくなっていた表情を緩めて、オオシマさんは言う。
「……ごめん。ちょっと、急に帰らなきゃいけなくなった。ライラに行くの、またまた今度になっちゃうけど、良いかな」
「了解。残念っす」
「ごめんね」
いつか、また。それがあるだけで十分だと思う。
そんなことを考えてると、少しはにかんだような様子のオオシマさんが、ある約束を切り出してきた。
「だからってわけじゃないけど……」
「デートだぜ、デート! しかも」
「あぁん?」
鬱陶しそうなクレハに、なお上から言い放つ。いいや今日ばっかりは祝ってもらおうと思ってここに来たんだ、プレゼントのひとつも頂かずに引けない! そんな気持ち!
ぐっと親指を上げためでたいハンドサインを両手に、さらに掲げてから叫ぶ。
「オオシマさんと一緒に、クリスマス!」
いわゆるクリスマスデートというやつだ!
「えー。あの、なんか鍋を食いに行ったとかいう女の人?」
「そうそう! あれから何度も会ったりしてさ! 鍋は食えてない!」
とりあえず嬉しさが伝わってないみたいなので、クレハに抱きつく。
「やーめーろー」
「フハハハハ!」
「……だめだこいつ」
しばらく、くるくると踊った。諦めてクレハはつきあってくれた。やっぱ意外と付き合い良いよな、お前。
ソファーに倒れ込んでぜえはあやってる俺に、息も切らしていないクレハが飲みさしのペットボトルを投げてくる。
「なんであんたと? 選ぶ理由あったっけか」
「ひでー言い草。言って良いことと悪いことあんだぜ?」
言いながら、ペットボトルをぐびりとやる。微炭酸飲料だったが、炭酸が抜けてしまって、微々々炭酸といった趣だ。クレハはこういった飲み物が好きで、どうかしてるとは思うが俺も嫌いじゃない。
「あ……うん。おう、悪かった。まー、誰かと遊びに行くならそれが良いよ。あたしも出かけるしな、その日」
「お前もデート?」
「そんな色気のある話はごめんだわー」
まだ枯れる歳でもあるまいに。
そう言おうと思ったが、俺の口を突いて出たのは別の言葉だった。
「お前って、……なんで生きてんの」
人の世に生きてない者が、なお人と関わるとすれば、それはなぜだろう。
そんな考えが、ふと、浮かんでしまったからだ。
「え? ケンカ売られてる?」
「あー。違う違う。前、なんで来んのって俺に言っただろ。でも、お前、なんで来んなって言わねぇの」
少し、オオシマさんとクレハは似ている、と思う。
どっちもこの世に関わろうとしないくせに、関わってみれば受け入れて、遊んでくれる。それは、未練というか罪悪感を抱えているから、なのだろうか、なんて思えてもくる。……まるで、幸せになることを恐れてでもいるような、在り方。
「関わりたくねぇのに関わられるのを拒まないって、中途半端だよな?」
「……」
「だったらお前からも関わろうとするほうが健全じゃねーか」
「……生き方、変えろってか」
飲みさしのペットボトルを、クレハに投げ返す。
「お前、もっと普通っぽく生きようとした方が楽じゃねぇの。人か熊か狼か、なんてのは、ただの言葉だろ」
クレハは、しばらく考え込んでいたようだったが。
ペットボトルの残りを飲み干すと、そこら辺に投げ捨てた。
「いいやごめんだ。あたしはあんたじゃないだろ。御意見五両、ってことで承るけどな、それ以上の高説は聞きたくねぇ」
俺と目を合わせないまま、クレハは言う。
説得されないようにしているのか、説得しないようにしているのか。不誠実にも見える態度だが、表情は真剣だった。
「あんたらは普通に幸せになってくれてりゃそれでいいんだよ。あたしァそれを羨むだけで十分に救われる。中途半端は性分だ、そこで生きれないと見切っても離れることもままならねぇのをどうにかできてちゃ、最初からそこで生きれてたよ」
俺は、クレハを説得したかったわけじゃない。
致命的にどうしようもないやり方ではないなら、いやそうだとしても、俺に関係がなければ好きにやればいい。そう思っている。だけど、クレハがクレハにとってもより良い場所に行けたら、とも思っている。だから言った。というより、忠告が口を突いて出た。
「お前だって幸せになれるだろうが。わっかんねー」
愚痴のように、ただ吐き出されただけの言葉は出てしまったけれど。
やっぱり、変わることがあるとすれば、本人が変わるしかないないのだ。それは結局、そうだろうと思う。
それぞれの絶望の淵があり、それぞれの希望の色がある。もし地獄を必要とするならば、どれだけ不相応に高かろうと、それを買い求めるしかない。少し、哀しいけれど。
「まだ言うかよ。勘弁。あんたが出てくかあたしが出てくか、どっちが良い?」
言い過ぎたかな、と思った。もう二度とここには来れないかもしれない。そうならなければ良いけど、と緩んだ瞳で部屋を見た。
「……俺が出てくよ。ここはお前の家だ」
微笑んで、そう言ったなら、クレハもまた微笑んだ。
「助かる。あんたのそういうとこ、あたしァ好きだよ」
きっと本音だろう。
クレハの家から出る時、そっと声が投げかけられる。
「応援してるぜ。本音だ」
それもきっと、切ないぐらい、本音だろう。
十二月二十四日。
やっぱり、オオシマさんは来なかった。
雪を、掴もうとして、体が冷え切っていることに気付いた。
「困ったな」
力ない言葉は、雑踏に紛れて、自分の耳でも聞こえにくいぐらい小さくて。ますます、弱ったような気分になる。
クリスマスイブの日、勇んでめかし込んで遅れず家を出て、昼の待ち合わせで待ちぼうけして夕暮れ越え、しかも屋外。さらに雪。世界を恨むには十分な気もしたけど、それよりなにより、今の状況をどうすればいいのかわからなくて、辛い。
飽きるほど確認したスマホに、待ち人からの連絡はない。
オオシマさんはどうしてるんだろう。
少し離れた場所で火事があったらしい。彼女も無事だといいけれど。
「……連絡、しないとな」
ディナーの予約は19時だから、それまでは待とう。19時を越えたら店に連絡して謝ろう。
そう思っていたけど。
あと少しだけ待とう。
あと少しだけ――。
――そう思ったら、なにも出来なかった。
「…………ッ」
目を閉じている俺の耳に、荒い息が聞こえる。
すぐ前にその人がいる。
「いいさ。どこかで、こうなる気もしてた。……そういうこともあるかな、って」
雪の香りの裏で、焦げ臭い匂いがした。
「すまん。待たせた」
「うん。待ってた」
俺の前にクレハがいた。オオシマさんは来なかった。そういうことだ。
「……あたしじゃないだろ、待ってたの」
「そこまで俺は健気じゃないから」
我ながらひどい台詞だ。まぁ、ずいぶん長く待たされたんだし。……結局、来なかったんだし。少しぐらいは恨みがましくなっても良いや。そう思うことにする。
そっと渡された缶コーヒーの暖かさに、めまいがした。
「なんで来たのさ」
無表情で、コート姿のクレハが言う。
「オオシマは知り合いだ」
「そっか」
思ったより狭い世界の話だったのだろう。ただの直感だけど。
偶然もきっと必然というか仕掛けというか。オオシマさん、俺のことが目的じゃなくて、俺でなにか目的を叶えようとしたんだと思う。最初から釣り合いなんて取れてなかったし。ずっと、夢のようだって気分だった。
いい夢だった。彼女にとってもそうだったらいいな。
「説教したの? 無神経な?」
クレハは頷く。
「嬉しそうだったよ。お前のこと喋ってる時」
顔を上げると、嫌そうな顔になったクレハの顔が見えた。
「色々と不便だよね。みんな」
立ち上がって、設置された屋外時計を見た。雪化粧をした文字盤は二十時の近くを示している。六時間ぐらいか。よく、待ったものだと思う。缶コーヒーを飲み干して、息を吐いても、息は暗い。体が冷え切ってるから。
泣こうかなと思ったけど、そんな余裕ないぐらい寒かった。
「わざわざ来るなんて。面倒くさがりのくせに」
「……そうだよ。わざわざ来てやったんだ。あんたが待ちぼうけ食ってるっていうから」
「遅ぇーよ。貸しイチな」
「言ってろ」
好きな人にフラれた挙句、クリスマスに腐れ縁と連れ立って歩くとか。
笑える。
「ははっ」
笑う余裕はあった。マジ笑える。
「行こうぜ」
そう言って、立ち上がる。節々が固くて、やってられない。
「今日はあんたがどこ行くか決めろよ。いつも俺に決めさせてんじゃねぇよ」
「決めたがりに譲ってやってんだ、感謝しろ」
憎まれ口ばかりのクレハにうまく言い返そうとして、ふと思いついて、プレゼントを渡すことにした。
「そうだ。これやるよ」
言って、ずっと持っていたものをクレハに押し付ける。なにも言わずに、渋い顔で受け取ってくれた。ざまあみろ。
鍋料理屋のライラは火事かなにかがあったらしく、空きテナントになっていた。
関係あるのかどうかは知らないが、俺がサークルでオオシマヒガンを見かけることもなくなっていた。
きっと、こういうこともあるのだろう。
気が向けば、俺はまたクレハの家にお邪魔している。