幼少期 後編
ミロさんとの戦闘はその後も何度か行われた。俺は傷一つ付けることができなかった。一方的に傷つけられたとも言う。
そして、いくつかの冬を超えたある春の日、俺はグルに連れられてお馴染みとなった闘技場にやって来た。しかし、何処かグルの様子がおかしい。いつもの様に銀色の光が目に付いた辺りで、グルは漸く口を開いた。
{小僧、命令だ}
「ん?」
{あのミロとか言う小娘を殺せ}
「………え?」
{言葉の通りだ、殺せ。出来なければお前が殺されるだろう}
「で、でも、俺、あいつに勝ったこと無いぞ!?」
{……ガタガタぬかすな。死にたくないなら殺るしかねぇんだ}
ジロリとグルの紅い目が俺を射抜いた。それ以上俺は口をきけなかった。
白銀の龍が反対側の淵に着地し、背中からミロさんが滑り降りる。その目はいつもと変わらず透き通るように美しく、一切の陰りが見られなかった。とても、これから俺を殺しにかかってくるようには見えなかった。
{分かっていますね、グルシェンガルム}
{みなまでいうな}
龍は淡々と告げ、グルは苦々しそうに吐き捨てた。
{それでは、はじめ}
言うが早いか、気付けば俺はうつ伏せで地面に叩きつけられていた。何が起こったか理解するよりも早く首筋を掴まれ、俺は闘技場の外に投げ飛ばされた。下まで落ちれば当然死ぬ。
「うおおお!!?」
腹の底から驚きの声を上げながら、俺は咄嗟にグルの爪を壁に突き立てた。さすがの鋭さを誇る爪はあっさりと壁に突き刺さり、しかし下にずり落ちることなく俺の身体を支えていた。
とにかく上に登らなければ、そう思って見上げた俺と、感情の無い眼差しでこちらを覗き込むミロさんの視線が交錯した。まさか突き落とす気かと背筋に走った恐怖に対し、彼女は興味無さげに顔を背けた。
二つの爪を使ってなんとか闘技場の淵から顔を覗かせると、ミロさんは既に俺など見ていなかった。その代わり、じっとグルと見つめあい、周囲の空気を緊張で張りつめさせていた。
{勝負はお終い、貴方の負けですよ}
龍が俺の方に視線さえも向けず、明らかに失望した声音でそう告げた。それに対して俺は悪態の一つも吐けずにただ身を投げ出した。明確な死の恐怖は俺の精神を酷く削っていた。
夜空の星が天辺を過ぎた頃、延々と何かを話しあっていた二頭は満足いったらしく、グルがこちらにやって来た。尻尾で俺の胴体を器用に巻き取ると、ひょいと背中に乗せて無言で駆けだした。俺は振り落とされないよう必死にしがみついた。夜明け前、巣に戻った俺はすぐさま意識を失った。
目を覚ましたのは次の日の日の出と同時だった。グルが獲ったのか、太った魚が数尾足元に並べられていた。それを無視して水を口にし、身体が起き出すと途端に腹が食べ物を要求し始めた。俺は巣に戻って魚の腹に齧りついた。
三尾目を骨にした辺りで、奥で丸まっていたグルが動き出した。グルはこちらをじっと見つめ、何かを言い淀んでいる様子だった。しかし覚悟を決めたのか、おもむろに口を開いた。
{小僧、ここから出ていけ。二度と帰って来るな}
何を言われたのか、初めは分からなかった。次いで、冗談だと思った。
だが、グルの目は本気だった。口答えは許さないという気迫がヒシヒシと伝わってきた。
「森の中で、グルと別れて暮らせばいいのか?」
{違う。人間の町に向かえ。言葉などは教えてやっただろう}
「……でも、でも」
{くどい。決定だ、すぐにでも出ていけ。………森の入口付近に人間の一団がいる、連中に付いて行け}
「…………」
突然のことで、グルが何故こんな事を言い出したのかが分からなかった。しかし、動こうとしない俺に業を煮やしたか、苛立った様子でグルが立ち上がり、狩りの時の目でこちらをギロリと睨みつけた。
{出ていけと言っているだろうが!!!}
グルが吼えた。洞窟に咆哮が反響し、外で鳥が一斉に飛び立った。
グルの変貌、その余りの恐怖に俺は一目散に外へ駆けだし、わき目も振らずに巣から離れた。気付けば、いつぞやにキマイラをグルが仕留めた辺りまで走っていた。
訳が分からなかった。ただ息を切らせ、チラリと背後を振り返った。しかし、頼もしい黒い影はどこにも無かった。戻れば殺される事だけは間違いないように思えた。
行く当ても無く何日も森の中を彷徨っていると、ふと獣の咆哮が重低音となって俺の耳に届いた。明らかに怒っているようだった。木に登り、音源を目指すことにした。
数分もかからずに辿り着いたそこでは、大猪と、人間数人が争っていた。龍の鱗のように、とまではいかないが鈍く輝く棒の様な物―――あれがグルに教わった剣だろう―――を持ち、猪の攻撃を躱しては叩きつけている。剣はグルの牙の様に肉を切り裂き、猪が再び怒りの咆哮をあげた。猪の背中には数本の羽の点いた枝が生えている。あれは”矢”だろうか。
果たして、血を流し過ぎた猪は程なくして倒れた。人間たちは手際よく猪を解体すると、牙や皮、肉を一人が背負っていた大きな皮の袋に詰め込み始めた。あれが鞄か?
俺は、ここで降りるべきなのだろうか。グルが付いて行けと言ったのはきっと彼らの事だろう。しかし、彼らは俺を狩ろうとする敵では無いのだろうか。
そう悩みながらじっと彼らを見つめていると、人間の内一人と目が合った。その人間は弓? に矢をつがえると、こちらに向けて躊躇なく放った。
その矢を掴んで投げ返し、俺は人間たちを狩ることに決めた。人間の狩りのための道具であるという弓矢を俺に使うのであれば、彼らはきっと敵である。
俺は枝を飛び移るようにして彼らの背後の枝に身を潜めると、こちらを見失ったらしい弓矢の人間の首筋にグルの牙を突き立てるべく飛び降りた。
しかし、急所を狙った一撃は躱されてしまった。俺はすぐさま身を屈め、木々の奥に身を隠した。ここで他の人間も異変に気付いたのか、剣を構えて輪になり何事か話し合っている。弓矢の人間が何かを言うと、剣の人間は驚いたようだった。
「……私■は怪し■■のじ■■い。姿を■■て■ ■■いか?」
剣の人間が何かを言った。早口で聞き取れなかった。俺は、一番戦闘能力の低そうな鞄の人間に狙いをつけ、しかし手を出すかどうかを暫く考えた。正面から挑んで人間達に勝てるとは限らないなら、逃げるべきだったかもしれない。
この判断の遅れが、事態を一気に悪い方向へと進ませた。
血の匂いに惹かれた獣がやって来た、大熊だ。一対一ならまだしも、人間に挟まれた状態では非常に分が悪い。しかも、何故か大熊は血の匂いを漂わせる人間達では無く俺に目を付けている。事ここに至って俺は漸く逃げることを決めた。大熊を人間達になすりつけて。
俺は人間達の方へ突っ込み、何か口にしている剣の男を無視して近くの木に飛びつきスルスルと登りきった。俺を追いかけてきた大熊は人間達と鉢合わせ、不意を突かれて動きを止めた人間達に襲い掛かった。
大熊の爪が弓矢の人間を轢き潰す瞬間、いくつかの事が同時に起こった。
まず、俺の身体が強い力で地面に引きずり降ろされた。しかも人間達の中心に。そして、今まさに弓矢の人間を殺そうとしていた大熊の上半身が消し飛んだ。最後に、一瞬だけ黒い影が見えた気がした。
人間達はあっけにとられていたが、鞄の人間だけが逃げ出そうとする俺に気付き、地面に引き倒した。
「離せ!!」
精一杯もがくが明らかに力負けしている。結局、俺はなすすべなく人間達に連れられて森の外へ踏み出した。
「あなたの、お名前は?」
「小僧」
「えーと……」
銛の外で、弓矢の人間は剣の人間と違ってゆっくりと俺に話しかけた。グルには話しかけられたら可能な限り答えろと教わっている。なので睨みつけながらも答えると変な顔をされた。
暴れても無駄なのは剣の人間に殴られて悟った。その上、腕を使えなくされている。
「言葉は、喋れるのね? いつから、森の中に、いるの?」
「生まれた時から」
「……誰に、言葉を、習ったの?」
「グル」
「グルって、誰?」
「グルはグルだ」
弓矢の人間は困ったように頬を掻いた。少し離れた所で剣の人間と鞄の人間がひそひそ話している。
「セリア、続■■ ■に■ ■からに■■ ■いか?」
「■ ■な■ ■■ ■たって、■■ ■■警戒■■解■■いと」
鞄の人間と弓矢の人間が早口で何事かを喋っている。所々しか分からない。
連れられて歩いているとやがて石の塊のような何かが見えた。恐らく、あれは”城壁”だろう。
「そ■ ■ ■■する■」
「とり■ ■ずギ■ド■連■て■■ま■■う」
弓矢の人間と剣の人間が話している。俺は口を開かず、されるがままにしていた。
弓矢の人間が兵士(恐らく)に何事かを話し込んだおかげか、俺は城門を潜ることが出来た。そして、俺は生まれて初めて溢れる程の人間を目にし、森ではありえない程の音の洪水をこの身で受けた。
余りの衝撃で呆然とする俺を引っ張るように人間達は歩を進め、やがて一つの家(仮)の前で立ち止まった。その人間の巣は石で造られ、見上げる程に大きかった。
「ようこそ、私達の、ギルドへ」
弓矢の人間がゆっくりと口を開きながら、木の板を押した。