ずるいひと
その日は珍しく、彼女は酒を飲んでいた。彼女はアルコールよりも緑茶だとか烏龍茶を好む人間で、祝いの席などでなければ自ら進んで酒を飲もうとはしない。その彼女が今、缶ビールを片手にぼうっと宙を眺めているではないか。その顔は茹でた蛸のように赤くてくちびるは半開き、そして目がとろんと据わっている。これは酒を飲んだ人間の顔だと言うのは、きっと小さな子どもが見ても分かるだろう。それくらい分かりやすく彼女は酒を飲み――――そして、酔っているのだ。たぶん。彼女が何か言った訳でも無いがなんとなく酔っていると思った。今こうして隣に座っても彼女は何も言わない。反応しない。いつもなら「あらタロウくんどうしたの」だとかなんとか言うのに。彼女はなんにもない宙を眺めているだけで、僕を視界に入れようとしないのだ。
「ねえ」
「………」
「どうして酒なんか飲んでいるの。君はお茶の方が好きでしょう」
「………」
「ハナコちゃん聞こえてないの」
「失恋したのよ」
「えっ」
「終わってしまったの」
ぷるぷると震えるくちびるから聞こえてきた声はとても小さく、とても弱々しかった。途端に彼女の涙から大粒の涙がこぼれだしてきて、止まらなくなった。彼女はそれを誤魔化すように缶ビールにかじりつく。乾燥して荒れたくちびるに血が滲んでも、彼女はそのまま動かなかった。僕は彼女の言ったことばを頭の中で繰り返していた。失恋したのよ。終わってしまったの。だから、酒を飲んでいる?それが理由?そんなことで、普段は好まないアルコールを摂取しているの?酒を飲めば次の日は頭が痛くて困るだとか前に言っていたくせに。僕にはあまりよく分からなかった。それはたぶん僕がコイと言うものを詳しく知らないからだろう。特に知りたいとは思わないし、正直、今はそれより彼女の泣き顔や終わってしまった相手のことに興味があった。ねえ。そう開きかけたくちびるが、途中で止まる。彼女が濡れた瞳をこちらに向けて、眉間にぎゅうっと力を籠めたからだ。
「ハナコちゃんどうしたの、ひどい顔」
「五月蝿いわね。こういう時はハンカチのひとつでも差し出すのが紳士ってものよ」
「シンシ」
「抱き寄せて僕の胸でお泣き、くらい言えないの。あなたってほんとう」
「ハナコちゃん、そうして欲しいの」
そうして欲しいのならするけど。そう言って腕を広げて見せると彼女はキッと僕を睨み付けた。少しだけ距離を詰める。すると、彼女は缶ビールを握った手で僕の横っ面を思いっきり撲った。結構痛かった。殴られたままの状態で視線だけ動かして彼女を見ると、彼女はまたぼろりぼろりと涙をこぼしていた。何なのだろうか。よく分からない。難しい。広げたままの腕を元に戻す。彼女の手で潰れた空の缶ビールを受け取り、彼女の手を離した。細くて白くて小さな指先がタイトスカートの上に落ちる。綺麗に揃えられた指が、しかし力強く拳を握り、震えていた。彼女がどんな顔をしているのか気になったけれど俯いてしまっていて表情は見えない。薄い肩は震えていたけどそれだけじゃあ面白くなかった。なんだ。何なんだ。結局、何にも分かってないじゃないか。潰れた缶ビールの口をべろりと舐めてみる。苦味のある炭酸が舌を刺激した。不味い。
タイトスカートにぽつり、ぽつりと水玉模様が増えていく。彼女が小さく名前を呼んだ。しかしよく聞けばそれは僕の名前じゃあなくて、全然面白くなかった。