4 恋情
サフィラス城に入ったその日から時折その視線を感じた。
値踏みするようなじっとりとした視線。おそらくそれはあの黒髪黒目の男だと思う。
どうして自分をそんな目で見るのだろうか。
ある時レイルが散歩に連れ出してくれた際にその男の姿を見てかけて、誰なのか訊いてみると、前王の宰相だと教えてくれた。今は宰相の任を解き、国務に僅かに携わる程度だと言う。
「好みの男か」と憮然として訊かれ、驚いて「失礼ですけれどなんとなく怖いのです」と答えた。レイルは「俺も嫌いだ」と言った。
何故かわからないが小さい頃から嫌いだった。城から追い出してもいいのだが、前王の宰相であり特に罷免とする理由も無い為出来ないでいると言う。
部屋から出る時は基本レイルが傍に居るので、それほど恐れないで済むが、彼のいないところでは絶対に会いたくない人物だと思ってしまった。
*****
サフィラスの夏はルベウスに比べると随分と暑い。それでも湿気は少ないので過ごし憎いと言うほどではない。
薔薇は熱に弱い。花を咲かせるよりも摘蕾して養分を蓄えたほうが秋に綺麗な花が咲く。中庭では秋に向けての薔薇の剪定が行われていた。
「ルーナ様、今日は少しお勉強して頂きたいことがあります」
ある朝、レイルが執務に向かった後女官長に言われ、テーブルを挟み対面で座った。
「貴女様は寵姫の務めを果たすつもりがおありですか?」
「え!? あの、ええ!?」
夜はほぼ毎晩務めを果たしていると思っているが。あれでは駄目なのだろうか。何をどう変えたらいいのかと、赤くなりつつ視線を彷徨わせれば「そうではありません」とぴしゃりと言われた。
「夜のお勤めは充分です。その点は良く頑張っていらっしゃいます」
「……はい……」
「ルーナ様、寵姫の務めは“王を癒すこと”です。陛下が最近ルーナ様の笑顔を見たことが無いと仰っていました。王にそのようなことを言わせてどうするのです。寵姫が王に対して配慮することでございます!」
本当に癒すべき側が気遣われてどうするというのか。ルーナは項垂れた。
「申し訳ありません」
「ルーナ様、貴女は寵姫という地位を軽んじすぎています。もっと陛下の寵愛を一身に受ける者として胸を張ったら如何でしょう」
「そんな……」
「王妃は王に並び、国と民の為にあるもの。故に体面を保つためその地位にふさわしい女性が選ばれます。王の愛はそこにない事が常です。妃の前でも王の仮面が外せません。仮面を外せるのは心を許した愛する女の前だけ。レイル陛下にとっては貴女ですよ、ルーナ様。わたくしはルーナ様の前で見せる陛下のあのような寛いだ様子、幸せそうな様子を今まで見たことがありません。体面を支えるのが妃、内面を支えるのが寵姫です。もし、貴女が初めから妃であったなら、両面を支えられる妃であったでしょう。残念ですが出会うのが遅うございました。王という地位は孤独で疲れるものです。その癒しを愛する相手に求めるのは当然の事。相手が王妃であれば勿論一番ですが、なかなかうまくいかないから寵姫という地位があるのです。萎縮する必要はございません」
「……はい」
「肩で風を切れとは申しませんが、もっと胸を張っていいのですよ」
「はい……」
「ルーナ様」
「はい」
「貴女は元巫女ということですから、寵姫というものを背徳的なものと考えてしまうようですが、寵姫も幸せになっていいのですよ」
視線を上げればいつもは見られない柔和な笑顔の女官長がいた。
「陛下を幸せにできるのは貴女だけです。陛下を幸せにして、同じだけ貴女も幸せになるのです。自由に身動きの取れない王の為、好きになった相手と幸せになるために寵姫という地位があるのです。わたくしが赦します」
「女官長様」
涙腺が緩む。自分を赦すと言ってくれる人がいる。
「泣かないで下さいませ。わたくしが陛下に叱られます」
「ふ、ふふ…。クラウス殿下にも以前同じことを」
「笑うのも陛下の前でにして下さい。やっかまれます」
「まさか」
「冗談ではございません。クラウス殿下と手を繋いで歩いたのにもいい顔をなさいませんでした。「俺とは人前では絶対にしない」と言って」
繋ぐというよりは引かれて歩いたのだけれど。それに、レイルは一緒に歩くとき手を繋ぐというより腰を抱こうとするのだ。人目のある城内では嫌だと言った。それは人前では王妃だけに許される行為だろうから。
「ルーナ様、陛下がルーナ様にご執着なのはもう城内知らぬ者はおりません。いいのです。我慢はなさらずに甘えなさい。いいえ。甘えてあげて下さい。喜びます」
「けれど」
「では女官長として寵姫に命令です。甘えなさい!」
「……はい」
ルーナは顔を覆って涙を隠した。
夕刻、居室の外がさわさわと音をたて始める。いつもは彼が部屋に入って来るのを待つが、今日は自分から脚を向けてみた。扉から顔を覗かせると控えの間でレイルは女官長に剣帯や外套を外させていた。ルーナを見て「どうした」と微笑み声をかける。
「お…おかえりなさい……」
視線も合わせず告げてぱたんと扉を閉めたら、途端にまた扉が開かれた。驚いて固まってしまったら扉を開けた本人レイルは殊更いい笑顔でルーナを抱き竦めた。肩口に顔を埋め耳に掛かる髪を避けて応える。
「ただいま。ルーナ」
「やっ……耳元で言わないで……」
「ルーナ、もう一度言ってくれ」
「おかえりなさい……?」
ルーナは今まで訪れるレイルに「お疲れ様です」という出迎えしかしていない。それは帰った人を出迎える挨拶ではなく、労いの言葉だけれど、それが変わっただけでこんなに嬉しそうにすることなのだろうか。
「おかえりなさい。レイル様」
もう一度言ってみたら、ふわりと身体が浮いた。
「きゃあ!?」
「食事は一時間後でいい」
レクスが女官に告げれば、彼女達はわかりましたと扉を閉める。
「陛下!?」
「レイルだろう、ルーナ」
レイルはルーナを抱いたまま歩き続ける。行く先にあるのは寝所だ。
「レイル様! せめて身体を清めてから!」
「駄目だ。あんなに可愛い出迎えをされたら離せない。漸く帰ってきてもいいのだと許された」
「……いつも待っていましたけど……」
「待っていたのか!?」
「……待って、いました……。あの、今日は朝以来なので……会いたかったです」
自分で言った事なのに、顔が熱い。恥ずかしい。
「もう、いや!」
ルーナは顔が見えないようにレイルにしがみ付く。
「………」
レイルは何も言わない。恐る恐るその顔を見れば。
「……レイル様、顔が赤いです……」
レイルが顔を赤く染めている。そんな彼は初めて見た。
「お前が可愛い事を言うからだろう!」
「んぅ!」
レイルは怒ったように言ってルーナ唇を塞いだ。ルーナが息が続かないと胸を叩くと漸く解放する。そしてとても満足げな笑みを浮かべた。
「一年で漸く“おかえり”。あとどれだけ待てばと思ったが“待っていた”と“会いたかった”も聞けた」
「……レイル様」
「何だ?」
何でも言えというようにレイルは微笑む。今なら金塊が欲しいと言っても用意してくれそうだ。……今で無くても用意してくれそうだが……。でもそんなことではなくて。
「さっき、女官長がしていた剣帯を外したりするの、私がやったら駄目ですか?」
レイルは大きく瞳を見開いた。
「なんだ、今日は? なんの褒美なんだ? いいに決まっている! ああもう、何でもいい! もう待てない!」
レイルは再び歩き始める。
「や! 待って下さい! 夏なんですよ! 先に身体を」
「ルーナならいい。気にしない。今更だろう」
「私は気にします!」
「一緒に入るならいいぞ。どうする?」
「……一緒に入るだけですよ?」
「俺は好きな女を前にして聖人君子にはなれん」
レイルはどこまでもにこにこと笑顔だ。本当にこんな事で喜んでくれるのだろうか。でも、お風呂はゆっくりと入りたい。
「……レイル様、私の事を本当に愛しているなら……お風呂では我慢して……?」
「~~~!お前は本当に狡いな! いいだろう。その代わり寝所では覚悟しろ」
ルーナはレイルをじっと見つめた後で、怪訝な顔をする彼の首に縋り付く。
「とっくに覚悟しています。たくさん愛して下さいね。きゃあ!?」
突然身体が降下してルーナは悲鳴を上げた。レイルはルーナを抱いたまま床に膝をつき「俺を殺す気なのか……」と呟いた。
次の日から執務後のレイルの剣帯や装飾品外しはルーナの仕事になった。慣れないうちはぎこちなく時間がかかるのをレイルは愛おしげに見つめ、終われば「ありがとう」と口付けを落とす。それを見た女官長に「わたくし共にもそのくらい感謝して下さいませ」と言われる事になる。
*****
定例夜会があり部屋に戻るのが遅くなったその日、いつもは出迎えてくれるルーナの姿がなかった。もう寝てしまったのかと静かに寝所に入っても、ルーナの気配はなく、寝台は空だった。ルーナがいない。跳ねる鼓動を押さえ女官を呼ぼうとしたところで温かい部屋の空気に夜の冷気が微かに混じって来るのに気付いた。庭に続く大きな窓が少し開いている。
もう夜は大分寒くなって来たというのにルーナは薄い寝衣一枚という姿で空を見上げていた。寝台から毛布を乱暴に取るとそちらに歩を進めた。
窓から外に出ると、青黒い夜の色が身体を包んだ。
「寒くないのか」
自分の身体で覆う様に腕の中にルーナを捉えて毛布にくるまれば、心地の良い暖かさに包まれる。
「もう寒くありません」
彼女の躰に絡みつくような腕にそっと手を添えて、背中を彼に預けるとルーナは幸せそうに笑った。
「お出迎えしなくてすみませんでした。お帰りなさい」
「ただいま。何をしていたんだ」
「星を見ていました」
毛布の中から華奢な左腕が伸びて、白い手が天上を指さした。導かれるようにレイルも夜空を見上げる。そこには色々な光彩で散りばめられた星々が瞬いていた。冬の空は空気が澄みきっていて星が幾分近くに見えるような気がする。
ひらひらとルーナの白い手が揺れた。
「どうした?」
「こうすると星に手が届きそうですよね」
星々を見上げて白い息を吐きながらルーナが微笑む。レイルはその手を自分の左手で捕えた。
「手が届いたら困る。お前は月の化身のようだ。連れて行かれそうで怖い」
「……異国の物語の様ですね」
月の世界で罪を犯した美しい姫が贖罪の為に地上に堕とされる。美しい姫を娶ろうと貴族や王が求婚したが、月の世界の姫はそれに応えることはできず。本当は姫も王のことが好きだったのだが、求愛に応えないことこそが罪を許される方法だった。罪を許された姫はある満月の夜に月の使者の迎えで泣く泣く王と別れて月に帰る。
「お前もそうなんじゃないか。俺の前から消えてしまうんじゃないかとどうしようもなく不安になる」
「……レイル様。今夜の月は銀色ですね」
「ああ。お前の色だ」
「銀の月が私だとしたら、月光に照らされて月を守るように傍にある夜空の蒼色がレイル様です。黒い闇から月を守ってくれているようです。今の私と一緒です。いつも包まれています」
くすぐったそうに笑うルーナにつられレイルの表情も和らいだ。
「誰にも連れて行かれないようにずっと隠しておきたい」
天に伸ばされた左手。それを捕らえた左手。
重なった左手には両者とも指環がない。
「ルーナ、指環を作らないか?」
「要りません。レイル様がいてくれますもの」
揃いの指環は夫婦の誓いの証。ルーナは一生持つことがあってはならない。
「では何か違うものを考える」
「要りません。代わりに愛していると言ってください」
「愛している。ルーナ、愛している。お前だけだ」
「嬉しいです」
「ルーナ、お前は?」
「内緒です」
「言葉に出来ないのなら口付けをくれ」
「レイル様がして?」
ルーナは後ろを向いて唇を差し出した。
「どんどん狡い女になるな」
レイルは唇を重ねながら呟いた。
数日後、ルーナの耳には深い蒼色の石の耳飾りが飾られ、レイルの耳には月の色のような銀の石の飾りが付けられた。
色は違えど互いの色で作られたそれは、間違いなく誓いの証だと人々に囁かれたのだった。
*****
その夜、ルーナは一目で高級品とわかる豪奢な淡い水色のドレスに身を包まれていた。
ドレスの色こそ水色ではあるが、銀糸と濃い蒼色のビジューで刺繍が施され手間隙かけられたそれは、充分に王の愛を匂わせていた。
「素晴らしく美しいが、青で無いのが残念だな」
サフィラス城での夜会に深い青色のドレスを身に付けることが許されるのは王妃だけという決まりがある。例え寵姫であろうが身に付けることは許されない。
「本当に変じゃないですか? 私、夜会は数年ぶりで……」
「変なものか。美しすぎて会場に出したくない。何度も言うが俺以外とは踊るなよ」
「はい。陛下と踊ったら戻っていいのですよね」
「そうだ、と言いたいが、ルベウスの大使と挨拶が終わったらだな」
サフィラスとルベウスの同盟が正式に成立し、今日はルベウスの大使が挨拶に来る歓迎の夜会が開かれる。今までルーナは夜会には出席せずに来たが、流石に今日は側室ではあるがサフィラス王に嫁いだルベウスの王女として出席せざるをえない。
「……俺の隣に立たせたいがそうはいかんし、本当に不本意だ」
「陛下。私は平気です。公式の場でくらい王妃様に陛下をお返ししなければ」
レイルは深い溜め息を吐く。
「女官長、頼んだぞ」
「はい。畏まりました」
夜会の間は王は王妃と共に在らねばならない。ルーナを社交の場で一人にすれば邪な男達に声を掛けられるに決まっている。他の男の手など絶対に触れさせたくない。王の寵姫とある程度は牽制になっているだろうが、“寵姫”という存在であるが故に邪な目で見られる。それが心配でたまらなかった。
会場がざわつく。
「あの美しい女性は誰だ」
「馬鹿。あの方がルーナ様だ」
「なるほど、あの美しさなら寵愛も頷ける」
「随分とお若いようだな。十代半ばに見えるが」
「今年二十歳だそうだ」
「あまり見ていると睨まれるぞ」
こそこそと囁かれる噂話の内容はルーナの耳には届かないが、自分が見られているのはわかる。王の側室が初めて公の場に出たのだ。注目されても当然だが、居たたまれない。ルベウスの王女として、王の寵姫として背筋こそ伸ばしていたが、早くその場から去りたかった。
ざわりと一際ざわめきが大きくなり、主賓が会場に入った。ルベウスの大使だ。自分の知っている者だろうかと姿を見てルーナは満面の笑みを浮かべた。大使の二人もにっこりと笑いルーナに歩み寄る。
「姉上!」
「驚きました。貴方達が来てくれるなんて!」
ルベウスの大使はルーナの弟王子達だった。
「姉上にお会いしたくて。お元気でしたか?」
「はい! 貴方達は?」
「勿論、ご覧の通りです」
「お父様とお母様は?」
「元気です。僕らと父と母、どちらが姉上に会いに行くか喧嘩して僕らが勝ちました」
「まあ!」
やがて王と王妃の来場が知らされる。大使の二人は玉座の前で待たねばならない。
「後でゆっくりお話出来ますか?」
「そのつもりで来ています」
王と王妃が連れだって会場に姿を現す。王妃は濃い青色のドレスを身に纏い王に右手をエスコートされていた。王妃にのみ許された青い色。王と王妃の左手には揃いの金の指環。王と大使の挨拶の後の二人のダンスはとても馴染んだものだった。間違えようもなく二人は十年余り連れ添った夫婦なのだ。
王妃とのダンスを終えた王レイルは、そのまま脚を寵姫ルーナに向け正面に立つと手を差し出す。ルーナは微笑んでその手をとると貴賓客と混じってではあったが初めて王と踊った。
「俺には見せないような嬉しそうな顔をする」
「え?」
「弟達に」
「……やきもち?」
「そうだ」
憮然と答えるレイルにルーナはくすりと笑う。
―――貴方こそ私に見せない王の顔をする。
「私は陛下のものですよ。でも弟達は家族ですから。あの、陛下も二人の時は私のものですけれど、御家族はまた別のものでしょう?」
「俺はお前だけのものになりたい」
「きゃあ!?」
曲が終わる寸前、レイルはルーナの腰を強く抱き寄せ互いの唇を触れさせた。一瞬の事ではあったが王妃にもしたことのない行為に会場が大きく響めいた。
真っ赤になって硬直する王の寵姫と、それを見て意地悪くそして可愛いとばかりに目を細める王。王の愛がどこにあるかを一目瞭然にした。
夜会という社交の場を利用してルーナに近付こうと思っていた男達は、紛れもない王の溺愛ぶりを見て、ルーナをダンスに誘うことを諦めた。間違いなく不興を買うことになると悟ったのだ。
ダンスが終われば王は女官長に寵姫を預け、また王妃の元に戻った。こちらでも不仲には見えない様子で歓談し、客の挨拶に応えている。それでも王が時折寵姫の事を視界に収めその様子を伺っているのは見る者が見れば直ぐに分かることだった。
王にとって王妃は『王妃』という役で大切にはしているようだが、『女性』として想っているのは寵姫だけなのだと人々は囁いていた。
レイルは王妃を伴い貴族達の挨拶に応えていた。目の端にルーナの姿を捕らえながら。ダンスの終わった彼女の元には直ぐに弟達が寄り、楽しげに会話をしている。
彼女が妃であれば自分も其処にいて、あの笑顔を横で見れたはずだ。そして彼女をちらちらと疚しい目で見る男達を往なせたはずなのに。今自分の腕を取り貴族らの挨拶に応える女は彼女であった筈なのに。
その思いに固い蓋をしてレイルは愛想笑いを浮かべ続けた。
王妃はレイルが気付かない程一瞬昏い顔をする。
それを一人だけ見咎めた黒髪の男はニヤリと口元を上げた。
夜会が終わり、いつものようにルーナの部屋に戻れば久しぶりに人前に出て疲れたようでルーナは既に眠っていた。寝台の縁に座り規則正しい寝息をたてるルーナを見つめた。頬に掛かる髪を除けてやればふっと口が笑みの形になった。
本当に可愛くて狡い女だと思う。
此方がどれほど愛していると囁いても同じ言葉を返してくれたことは無い。
態度では十分に伝わってくるというのに言葉にはしてくれない。それは彼女のけじめのようだった。
神に仕える身であった彼女は妻子ある男に愛されることを不義と思い常に躊躇い怯えている。
ある時を境に以前はあれほど「王妃の元へ」と言っていたのが言わなくなり、躊躇いつつも甘えてくるようになり、それがまた愛おしく益々離せなくなった。
誓いの指環を贈れない彼女に色違いの耳飾りを付けさせた。彼女は自分のものであり、自分は彼女のものだという証。指環は王としての時にしか填めないが、耳飾りは外したことが無い。
これほどまでに自分が執着しているのに彼女はまったくその素振りをみせないのに苛つく。
先程の夜会でも自分は幾度となく彼女を見ていたというのに彼女は一度も視線をくれなかった。弟達と歓談し、彼らが挨拶に訪れるサフィラスの貴族の相手をしだしたところで女官長に伴われて会場を後にした。そのときすらレイルに挨拶が無かった。間違いではない。レイルの傍らには王妃がいたのだから。ルーナは決して王妃の領域を侵そうとしない。寵姫としての領分を出ようとしない。それどころか寵姫の立場を狭めるほどに静かに毎日を過ごしている。もどかしい。
何故アレクシアと婚姻する前にルーナに出逢えなかったのか。
何故政略で結婚などしてしまったのか。
何故彼女を正妃に出来ないのか。
考えても無駄な事だ。自分が間違えただけなのだから。
眠る彼女の顔の脇に右手を付き、左手で頬を包むとそっと口付ける。
ふっと彼女の瞳が開いた。
「……おはよう。眠り姫」
「……おうじ、さま?」
「王だ」
「……もっと早く生まれて来れば良かった……」
夢現なのか彼女は涙を一筋流した。
頬に触れている左手の指環が填まっていた辺りをルーナの細い指がなぞった。彼女は態度で言葉で表さないだけで気にはしているのだ。もしかしたら夜会でレイルを見なかったのも、レイルを見れば妃も一緒に目に入るからかも知れなかった。レイルは切なげに眉を寄せルーナのその手を捕ると口付けた。
彼女は二十歳になったばかりで自分は二十九になった。
レイルが婚姻を結んだのは十八。そのときルーナは九つだ。出逢っていても婚姻とはならなかった。だが、出逢えていれば自分は彼女が大人になるのを待ったと思う。幼い少女相手に何をと思われるだろうがそうなったはずだ。
例えば戦争をしていなければ、隣国の王子と王女として出逢えていたのではないだろうか。
「ルーナ、歳など関係ない。出逢えていれば俺はお前を妻にした」
「……次の世では先に見つけて……」
「ああ、ああ! 必ず! 必ず見つけてみせる!」
寝ぼけているのだと分かっている。正気ならばルーナはこんなことは絶対に口にしない。だが、だからこそ真実だ。レイルはルーナの折れそうに細い肢体を掻き抱いた。
月のない夜。
外では選定された薔薇の枝が黒い風に吹かれ春の訪れを待ち、眠っている。
王妃が悪夢に魘されていることをまだ誰も知らなかった。