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3 神鳴

 あれから三ヶ月。

 季節は冬になった。秋薔薇の季節はとうに終わり、薔薇の枝は葉を落とし剪定されるのを待っている。

 レイルは毎晩ルーナの部屋へ訪れて、この部屋で眠り起き執務に向かう。

 いや、夜だけでは無い。昼間も顔を出して昼食を共にしたりお茶を飲んだり、……求められることすらある。

 そして日中である今も、居室の長椅子の肘掛けに背を預け座面に脚を上げ、とても寛いだ状態で持ち込んだ書類を読んでいる。レイルは持ち込める仕事はこの部屋ですることが多い。

 ……大きなお世話だろうが、家族の元へは行っているのだろうか。

 朝食と(貴賓との晩餐や夜会がなければ)夕食はほぼこの部屋でルーナと食べる。昼間、ここに来ない間に行っているとしても僅かな時間なのではないだろうか。彼は王で、仕事は山ほどあるのだから。


「ルーナ? どうした?」

「いえ、何も……」


 考え込んでしまいレース編みをしていた手が止まっていた。再開したが再び「ルーナ」と名を呼ばれる。視線を上げれば、レイルは長椅子に座り直して此方を見ていた。


「なんですか?」

「こっちに来い」


 にっこりと笑って招かれる。


「書類はいいのですか?」

「ああ、終わった。お前に仕事をサボると怒られるからな。だから来い」


 二人の間には約束がある。“仕事第一”である。

 なにしろルーナがサフィラス来て最初の一週間ほぼこの部屋に籠っていたのだ。ルーナが悪く言われるのはいい。だが王の悪評になっては困る。ただでさえ側室など外聞のいいものではないのだから。

 ルーナは立ち上がり移動して、レイルの隣に座ろうとしたが、あっさりと腕を引かれレイルの脚の間に座らされ、後ろから抱き込まれた。


「陛下、あの」

「ん? 何か期待したか? 残念だが今日はこの後まだ執務に戻らないといけないんだ。悪いな」

「きた、期待なんてしてません! あ、やぁっ!」


 真っ赤になった項に強く吸い付かれた。


「お前は本当に可愛いな。毎夜、まあ、夜だけでは無いが楽しみでならない」

「今夜も……?」

「なんだ? 嫌か?」

「……三ヶ月以上ですよ?」

「飽きたのか? 俺は全く足りないのだが」

「そうではなくてですね!」

「あ、そういえば……無いな」

「なんですか?」


 ルーナは赤い顔で身を捩る。レイルは真剣な顔をしていた。


「月の障りだ。ほぼ毎晩抱いてるんだ、無いだろう? もしかして、子」


 ばふんと長椅子に置かれていたクッションが押し当てられた。


「な、なんて事を言うんですか!」


 クッションを避ければさっきよりも、というよりこれ以上無いというくらい真っ赤な顔でルーナが怒っていた。


「なんて事ってなんだ。大事な事だろう。侍医に診せて……」

「や! 違! 子供なんていません!」

「わからないだろう。いるのなら、大事にして控えなければならないし」

「いません! もういや! 陛下なんて嫌いです!」


 立ち上がるルーナを慌てて引き寄せ今度は前から抱き締めた。


「嫌いってなんだ! 俺は正しいことしか言っていないだろう!」

「女性はデリケートなんです! ちょっとした環境の変化で狂ったりするんです!」


 ルーナは離してと言わんばかりにレイルの胸を押し返す。


「それは知っている。だが、あれだけしているんだ。可能性は」

「いやああ! もう黙って下さい!」


 今度はレイルの口を両手で覆い塞いだ。もう涙目になっている。レイルは怪訝な顔をして、ルーナの手を外した。


「ちょっと落ち着け。俺は何か変な事を言ったのか? !? おい! なんで泣くんだ! 泣くな!」


 ルーナははらはらと涙を流し始めた。


「俺が悪かった!」


 だから泣き止めと慌てて涙を拭う。


「……と 思います……」

「ん? なんだ?」


 レイルが泣くなと頭を撫でるとルーナはポツリと話始めた。


「子供は出来ないと思います……確かに今回は長いですけど……もともと不順で……子供は出来にくいだろうと……それもあって、巫女に……」

「……ああ、そうか……それは悪かった」


 子供が出来にくい女性は駒にすらなれない。ルーナはそう思っているようだ。だが、ルーナの父はそうではなく、嫁ぎ先でルーナ自身が辛い思いをするのを懸念したのではないだろうか。とてもルーナを大事にしていた。よく側室として差し出してくれたと思う。


「でも、だから丁度良かったんです」

「うん?」

「サフィラスとルベウスの王族同士は元々子供が出来ないとの説もありますし……陛下の子供を生めるのは王妃様だけです。側室になった身で言えることではありませんが、少しでも王妃様に不愉快な思いをさせずに済みます。王妃様にも伝えて下さって結構です」


 ルーナは涙を溜めながら微笑んだ。


「馬鹿。なんで笑うんだ。俺はそんな笑顔を見たいんじゃない」


 ルーナの腰と首に腕を回しもう一度ぎゅうと抱き締める。


「陛下も、もしお子様が欲しいのでしたら私では……」

「俺が欲しいのはルーナだ。世継ぎはもういる。お前がいればいい」

「陛下……」

「名前で呼べ」

「……レイル、様」


 唇が触れる。いつものように優しい触れ合いが熱く濃いものに変わっていく。いつの間にか長椅子に押し倒されていた。肌に触れる唇も、大きな手もとても気持ちが良くて。……でも何か……忘れて……


「執務!」


 ルーナはぐっとレイルの身体を押し退けた。


「……お前…この状況で……」


 レイルは半分以上素肌の曝された身体に如何にもがっかりとした様子で顔を埋めた。


「だ、だってまた戻るって……」


 スカートも太股まで捲られている。本当にいつの間にだ。


「ああ、言ったけどな……もう急に熱でも出たことにしておけばいい」

「やっ! ダメ! お仕事第一です!」


 するりと腿を撫でられてぴくりと身体が反応してしまう。にやりとレイルが笑った。


「ルーナ、お前の身体は正直だな」

「駄目です! 陛下の評判を落としたくありません!」


 近付く端整な顔をルーナは押し返す。はあ、と溜め息が聞こえて顔が離れた。


「お前はそれだけの美しさがありながら真面目過ぎて傾国の美女にはなれんな」

「なりたくありません! お仕事行ってください!」

「じゃあ、口付けして『いってらっしゃい』と言ってくれ」

「……『いってらっしゃい』だと帰って来ないといけないんですよ?」

「帰ってくるさ」

「……陛下の帰るところはここでは無いですよ」

「本当にムカつくな。やはりこのまま抱くぞ」

「きゃああ! いや! やめて下さい!」

「だったら口付けだ」


 ルーナは眉を顰めてレイルを睨むが、顔は真っ赤で瞳は潤んでいるので可愛いだけでしかない。レイルの首に細い腕が絡み弱い力で引き寄せられる。ふわりと掠るくらいに唇が触れた。


「い、いってらっしゃい……」


 赤い顔で瞳を逸らす。普段どれだけの事をしていると思っているのか。レイルは口許を上げてルーナに覆い被さった。


「あ、ぁん……あ…ふ…あ、やっ!」


 深く口腔を侵し、首筋と鎖骨に徴を付けた。


「行ってくる」


 ちゅっともう一度口付けて身体を離した。


「あ、陛下!」

「ん? なんだ?」

「あの……いってらっしゃい……」


 ルーナは俯く。王妃の元へ行っているのかなどルーナが言うことでは無いだろう。側室の元にこれだけ来ているのだ、彼ならば上手く時間の調整を付けているはずだ。ルーナは言いたいことを飲み込んだ。



「ルーナ様、服を整えましょう」


 レイルの居なくなった部屋で女官長の声がかかる。ルーナが着ている服は背中に小さなボタンが連なっていて自分では着るのも脱ぐのも難しい。それが殆ど外されてしまっている。

 ルーナは「お願いします」と後ろを向いた。そうして、つい、ふぅと溜め息を吐いてしまった。


「お疲れなら休まれますか?」

「いえ! 平気です」

「ではどうされました?」


 ボタンを留め終わると髪を梳いてくれる。女官長は優しい。幼い頃から仕えてくれていたようにとても親切に手厚く相対してくれる。


「……私、上手く陛下に時間を促す事が出来なくて」

「いえ、拝見する限りよく制御しております」

「あれで、ですか?」

「はい」

「……では王妃様とのご結婚の際はそれこそ一ヶ月くらい部屋に籠ったりしたのですか……?」

「いえ。全く」

「はい?」

「王妃様が第一子を身籠るまでは排卵時期を見計らって同衾しておりましたが、それ以後は月に一、二度程度。朝まで一緒ということもありませんでした」

「まさか、そんな……」

「真でございます」

「では、あの他の女性と?」

「ご婚姻後はございません。ルーナ様以外には随分と淡泊な方です。ですから正直私共も驚いております」


 最初の一週間は昼も夜もなく抱かれた。今も夜はほぼ毎晩、しかも一度で終わったことなど片手で足りる。それは訪れる時間が遅くなってルーナが眠いと言うときだ。時間さえ許せば何時でも求められる。勿論それだけではなくて、あまり部屋から出たがらないルーナを散歩に連れ出したり、ただ抱き締めて話をするだけの時もある。王としての仕事が終わらなければ駄目だと言ったので、それは守ってくれているようだが。

 女性に対してとても優しくて情熱的な人なのだと思っていたのだけれど。


「………陛下は王妃様とのお時間を取られていますよね?」

「ルーナ様がいらしてからありません」


 恐る恐る訊ねれば懸念していた返事。ルーナが来てから三ヶ月、ルーナは家族の時間を奪っていたのだ。レイルがルベウスへ出立してからは半年近くもたっているだろう。


「……王妃様は……」

「何も仰いません」

「王子殿下と姫君は……」

「時折、執務室に顔を見にいらしています」


 帰城したとき、とても


「睦まじいご家族に見えたのですが……」

「はい。陛下と妃殿下は先程申した関係ですが、仲が悪いわけではありません。陛下も妃殿下を家族として大切にされておりましたし微笑ましいご一家です」


 足元が崩れそうだ。


「私、……すみません……ごめんなさい……」

「ルーナ様が気に病む必要はございません。陛下の望んだ事です」

「でも!」

「ルーナ様、私は貴女様を傷付けるつもりで言ったのではありません。陛下に誰よりも愛されていると申し上げているのです」

「でも、それが!」

「いいのです。王妃の務めは王と共に国を支え世継ぎを成す事。側室は王の求めに応じ、王を癒すことです。このままでいいのです」

「でも……」

「寵姫に溺れ国を傾けるようでは困りますが、貴女様はそれを自ら許しません。陛下もとても満たされた表情をなさいます。充分です」


 でもそれでは王妃様は?

 王子殿下や姫君は?

 これまで優しかった夫や父がいなくなって

 寂しくないわけがない。

 自分は何をしているのか。



 風が変わる。

 蒼穹に黒い雲が混じり始める。

 生暖かかった風は急に冷たくなり、遠雷の低いうなり声が響き始めている。

 湿り気を帯びた冷たい風は、雨の匂いを運んできていた。



「ルーナ? どうした? 今日は嫌か?」


 レイルはいつものようにルーナを寝台に縫い付けて訊ねた。いつもはもっと熱い吐息を漏らし身体をくねらせというのに今夜は反応が薄すぎる。


「昼間の事でまだ怒っているのか?」

「……少しお話ししてもいいですか?」


 レイルは「いいぞ」と言ってルーナを引き起こすと自らが開けさせた寝衣まで一度戻してくれた。そして横抱きにして脚にのせるとヘッドボードに背を預けた。


「あの、この格好で?」

「問題あるか? で、何の話だ?」


 口角を上げてルーナの髪をするりするりと玩ぶ。

 時々優しくされて寂しくなる事がある。

 レイルは自分一人だけの男性ではない。正妃がいるのだ。妃だけでなく、他の女性とも関係があったはずで、その女性達にも同じ様に触れるのかと思うと寂しくなるのだ。

 ルーナはぎゅうとレイルに抱きついた。


「ルーナ? 本当にどうしたんだ?」


 レイルもルーナの薄い肩を抱き寄せ髪を梳いた。


「甘えてるんです。ダメですか?」

「いいや? いくらでもすればいい」


 頭と額に口付けが落ちる。本当は彼にこうされるのは自分であってはならないのだ。


「陛下」

「名前」

「……レイル様」

「呼び捨てでいいぞ。なんだ?」

「レイル様、私といて幸せですか?」

「ああ。とても幸せだ。四六時中一緒に居たいが肝心のルーナがそれを許してくれないんだ」

「お仕事の出来ない男の人は駄目ですよ」

「ほらな。お前にそう言われたら仕事に行くしかない」

「ん……」


 話をしている間にも瞼に、頬に、鼻先にと唇が触れる。音をたてて唇にも触れた。


「ルーナ、愛してる」


 澄んだ蒼い優しい双眸に覗き込まれルーナは柳眉を下げた。


「……どうしたんだ?」


 レイルが頬を包む。


「愛の言葉は王妃様に……」

「誰かに何か言われたのか?」

「いいえ。ただ、ずっと独り占めしているのが申し訳なくて」

「俺が望んだんだ。愛する女と一緒にいたいと」

「王妃様のことも愛していらっしゃるでしょう?」

「いいや? あれとは政略だ。王と王妃というだけだ。俺はお前にしか愛していると言ったことがない」


 ルーナは驚いてレイルを見上げた。「本当だ」と言って唇を塞ぐ。ルーナが嚥下しきれなかった唾液を舐めとりもう一度「愛している」と伝えてくれた。


「お前は? ルーナは俺を愛しているか?」

「……内緒です……」

「狡いぞ、ルーナ」


 ルーナはレイルの首にすがり付く。


「……私、どうしたらいいのかわからなくて……」

「うん?」

「私の所為で誰かが不幸になるかもしれなくて」

「俺は幸せだ。ルーナ、寵姫は王の為だけに生きればいい。お前は俺だけのものだ。俺を癒していればそれでいい」

「でも」

「知っているか? 王はルベウスの王女を溺愛して人目には触れさせないように閉じ込めていると専らの噂だぞ」

「……うそ……」


 人前に出ないのはルーナがそうしているだけだ。それがそんな言われなき噂になっていたなんて。


「すみません」

「違う。間違いじゃないんだ。俺も俺が付き添えないときはこの部屋から出したくないんだ。俺だけ見ていればいいと思っている」


 強制じゃ無いからなと頬に触れる。


「だからお前が気に病む必要はない。ルーナは俺のただ一人の愛する女だ。今のまま俺を癒してくれ」

「癒せていますか?」

「ああ。とても。……だが、そうだな」


 歯切れの悪い言葉にルーナはレイルを見上げた。頬を撫で髪を耳にかけられる。


「もっと笑顔が見られればもっと癒される」


 優しい優しい蒼い瞳。

 そんなふうに見つめないで。

 自分が好きになっていい人ではないのに。


「ルーナ、笑ってくれ」


 ルーナはぎこちない笑みを浮かべた。レイルがふっと鼻で笑う。


「可愛いが、違うな。それでも癒される。ずっと傍にいてくれ」

「赦されますか?」


 そんな幸せなことが。


「誰が咎めると言うんだ。俺が王だ。俺が赦す」


 暗い部屋が強い光で照らされる。次いで雷轟が空気を震わせた。

 ばらばらと音を立てて雨が降り出した。


神鳴(かみなり)……神様が怒っています」

「俺達は神の子だ。祝福しているの間違いだろう」


 レイルは右腕でルーナの頭を支え口付けをしながらその肢体を寝台へと沈めた。



 ああ、また……

 苗床に肥料が撒かれ、(いばら)が伸びる。



 *****



 王族の庭に薔薇が咲き誇る。

 色を競う様に咲く薔薇が濃厚な香りを漂わせていた。

 レイルはそこにルーナを連れ出した。


「素晴らしいですね」

「園丁自慢の薔薇庭園だからな。気に入った花があれば部屋に飾らせるぞ」

「ふふ。嬉しいですけれど、もうお部屋は花だらけです」


 レイルはよく贈り物を持ってくる。それは宝石であったり、ドレスであったり。ルーナは社交の場に出るつもりは無いので断ったら、それが日常用の服と花や菓子などに変わった。


「笑ったな」

「え?」

「ルーナの笑顔は滅多に見られない。特に最近はな」


 近くにあった赤い薔薇を手折り、棘をとるとルーナの髪に挿す。


「似合うが、青があればいいのにな」

「赤でいいです」

「ルーナ、俺だって赤い薔薇がどんな意味を持っているか知っているぞ」

「わ、私は知りません!」

「ルーナ お前は本当に可愛いな」


 ふいっと後ろを向くルーナを 二本の腕が絡み取り抱き締める。


「嘘を言う唇は塞いでしまおうか」


 顎を掬い上げられやや強引に後ろ向かされ、触れる、というところで、どんっと小さな衝撃がレイルの腰に当たった。


「お父様!」


 可愛らしい少女の声。姿は見えないが、レイルを父とよぶ少女は一人しかいない。ルーナは慌てて身体を離そうとしたが、レイルはルーナを離そうとはしなかった。肩にあった手が腰に回っただけだ。


「アリッサ!? どうしたんだ?」

「お父様が見えたので走ってきました!」


 父を見上げアリッサはにこにこと微笑む。ルーナは腰に回った手を外そうとしたが益々きつく拘束されてしまった。


「一人か?」

「向こうにお母様とお兄様がいます!」


 戦慄が走る。早くここから離れなければ!


「陛下!」


 離してと目で訴えてみても聞き入れる気はないようだ。


「ルーナ様?」


 可愛らしい声で小首を傾げアリッサはルーナを見上げた。どくんと心臓が跳ねる。


「は、はい」

「お身体はもう大丈夫なのですか?」

「え?」

「ルーナ様はお身体が弱いのでしょう? ルベウスはとても寒いところなのでサフィラスで身体を休めているのだと聞きました。大切なルベウスの王女様だからお父様が付いているのでしょう?」


 そんなふうに聞いていたのかと僅かに安堵する。ルーナは震えそうな声をなんとか普通に絞り出した。


「ありがとうございます。もう大丈夫です」

「本当ですか? 良かった!」


 アリッサは純心な笑顔をルーナに向ける。心が痛む。こんなにも純粋な子を自分は……。


「お父様、いつ一緒にお食事ができますか?」

「そのうちな」

「そのうち……?」


 アリッサの顔が暗く沈む。昼間、ルーナの処に来ないときは家族と共に食事を摂っていると思っていたがそれすら違うのだろうか……。


「アリッサ」


 澄んだ女性の声。金の髪の女性と少年。ルーナの心臓が早鐘を打った。それでもレイルが離さないのでルーナはそのまま膝を折り頭を下げた。


「ルーナ様、お止めください。陛下お邪魔して申し訳ありません。アリッサ、行きますよ」

「王妃様!!」


 ルーナは慌てて声を上げた。


「声をかける無礼をお許しください! 邪魔なのは私です! 私はもう部屋へ下がりますので、どうかご家族で!」

「ルーナ!?」


 レイルの非難めいた声は聞こえない振りをした。


「陛下、残ったお時間はご家族でお過ごしください。私は大丈夫です。下がります」


 強引に身体を引き剥がし、ルーナは一礼すると背を向けたが、腕を捕られた。


「供もなく帰せるわけが無いだろう!」

「部屋の場所くらいわかります。平気です」

「そういう問題じゃ無い!」

「では、僕がお送りします」

「クラウス?」

「父上は母上とアリッサと散歩でもしていてください。僕もルーナ様をお送りしたら直ぐに戻りますので。行きましょう、ルーナ様」

「すみません。お願いします」


 レイル以外なら誰でも良かった。アリッサはもうレイルの手を取り行こうと促している。レイルの視線を感じるがルーナは振り返らずにクラウスの後に続いた。



「殿下。此処までで平気です。お戻りください」


 庭園から回廊に入ったところでルーナはクラウスに言った。クラウスは振り返りにこりと笑った。レイルによく似た笑顔だ。


「まさか。こんなことろで一人にしては父に叱られます」

「道順は分かりますから」

「ルーナ様、王の大切な女性を一人には出来ないと言っているのです」


 クラウスは確かまだ九つだ。随分としっかりしている。それにこの言い方は。


「僕はもう妹ほど幼くは無いので父と貴女の関係も知っています。赤い薔薇も“あなたを愛しています”ですし」


 ルーナは慌てて髪に挿された薔薇を取ろうとした。


「駄目です。父に咎められますよ。今日の事はお許しください。妹も寂しがっていたので」

「申し訳ありません」


 ルーナの脚が止まる。クラウスも脚をとめて振り返るとルーナの前まで戻った。


「ご心配なく。僕は咎める気は全くありません。……僕とかわらない……小さな手ですね」


 クラウスはルーナの手を引くと歩き出した。


「父は母を愛していない、それだけです。家族として大切にはしてくれるので大丈夫です」

「殿下」

「側室を迎えると聞いたときには驚きましたが、貴女を見て納得しました。僕も貴女ほど美しい人を見たことがありませんから」


 美しくなどない。自分は女という欲に溺れた醜い魔女だ。


「父が貴女を見るように母を見たことはありません。父のあんな甘い幸せそうな顔は初めて見ました。だからいいんです」

「すみません……」

「僕はいいと言っているのですが」

「すみません……私を恨んで下さい」

「……そんな辛そうな顔をする人を恨むなんて無理です。王をお願いします」


 なんてまっすぐで優しい……

 私はこんな子供まで裏切って……

 本当に何をしているのだろうか


「すみません……」

「泣かないで下さい。僕が父に叱られます」

「すみません」

「アリッサにはまだ療養に時間がかかると言っておきます」

「でもそれでは」

「僕も妹もたまに執務室に押し掛けているので大丈夫ですよ。父も邪険にしませんから」

「王妃様は」

「母は女性として負けたのです。仕方がないでしょう」

「殿下!」

「ルーナ様、貴女はあれほど王に愛されていながら王妃の領域を侵そうとはしない慎ましい女性です。それで充分です。けれど、もっと寵姫としての自覚を持った方がよろしいかと存じます。着きました」


 部屋に入り考える。

 王妃の左の薬指には当然だが、金無垢の指環が填められていた。レイルと初めて出会った時には彼の左の薬指にも同じものが填められていた。けれど、それ以後彼の指に填められているのを見たことが無い。自分と会う時にだけ外しているのだろうが、それでも。

 それでも自分は何をしているというのか。

 神に祝福されたのは王妃の彼女でしかないのに。

 覚悟をしてきたつもりだった。

 罵られ嫌われると。なのにどうして王妃も王子も姫も!

 夫を父を奪うような女に優しくなどしないで!!


 *****


 無言で食事を口に運ぶ。端整な顔に不機嫌という言葉をこれでもかというほど滲ませて。レイルがルーナに対してこういった態度を取るのは初めてだった。昼間の事を怒っているというのは分かる。でもルーナの行動は間違ってはいないはずだ。王妃と側室、優先されるべきは王妃で、しかもあそこは王族の庭。部外者はルーナなのだから。

 ルーナの事が気に入らないというのなら、此処に来なくてもいいのに。このままでは一緒にいるだけで気詰まりする。なのにどうして一緒にいようとするのだろうか。


「ルーナ」

「……はい……」

「俺といるのが嫌か」

「……今は嫌です」

「俺を怒らせているのはお前自身だ」

「私は間違っていません。ご家族を大事になさって下さい」

「ルーナ! 彼処に別の者がいたならともかく俺達だけだった。妃を立てる必要はない。誰に遠慮が必要だったんだ!」

「御家族皆様です!」

「そもそも寵姫とは妃以上に愛されているからその立場にいるんだ! お前が引く理由が何処にある!」

「道徳的な問題です」

「ルーナ!」

「陛下、せめてお食事は王妃様や殿下方と一緒に」


 レイルの言葉を遮るように言えば、鋭く睨まれた。彼に嫌われるのは本当は嫌だ。それでも退いてはいけない。ルーナは視線を外さなかった。


「私が王妃様の立場なら辛いです」

「俺と妃にあるのは愛情ではなく義務だ」

「……それでもです。国王一家は睦まじい家族だと聞いております。私が来るまでは都合がつけばご一緒していたのでしょう」


 アリッサのあの様子はそういう事を物語っていた。今までは家族で食事を共にしていたのだ。


「………お前は何とも思わないのか。俺が他の女のもとへ行ってもどうということはないんだな?」

「私は貴方の妻ではありません」

「わかった。暫く此処へは来ない。それでいいな?」

「はい」


 もうそれで良かった。これまでが異常だったのだ。もともと冷めた夫婦、家族であったのならともかく、温かな家族を突然壊したのは自分。

 レイルは一目見ただけで自分を欲しいと言った。彼はそういう男なのだと思った。欲しいものを欲しいと言って、すぐ飽きてしまうような。それでも自分は彼を好きだと思ってしまったから。すぐに飽きられるだろうからと側室になることを選んだ。それほどに彼のものにして欲しかった。でも彼は、数か月も経つというのに未だ自分に固執する。勿論嬉しい。それは間違いようもない。だが、恐い。

 自分は罪を犯している。

 レイルの愛が深いほど怖くて怖くて仕方がなくなって来てしまった。

 戦争は終焉となり間もなく同盟が結ばれる。元来レイルもルベウスの王も戦いを望んでいない。彼の治世に於いては戦争を起こすことはもうないだろう。父もルーナがサフィサスに来る前に戦争はしないと約束してくれた。自分の質としての役割は終わろうとしている。

 愛はもう充分貰った。いっそ捨ててくれればいい。

 ルーナは怖い顔で自分を見下ろすレイルをまっすぐに見上げた。レイルは視線を外さないルーナを睨み背を向け部屋を出て行った。



 *****



 夜、妃の元に来るなどどれくらいぶりなのだろうか。


「陛下。漸く戻ってきて下さったのですね」

「待っていたのか?」

「はい。勿論です」


 身体を摺り寄せて、そう言って欲しいのはこの目の前の女では無くて。


「陛下」


 縋るように抱き着く身体を抱き止めてやりたいと思うのもこの女では無い。

 レイルが抱き止めるでもなく立ち尽くしたままいれば、妃は濃艷な笑みでレイルを見上げた。


「陛下。愛しています」


 その言葉も

 欲を求める仕草も

 全て 全て 全て


 望む相手はルーナだ!!


 レイルは縋り付く妃の肩を掴み、その身体を引き剥がした。


「すまん。俺はもうお前を抱けん」

「へい、か?」

「王妃は生涯お前だ。王位もクラウスに継がせる。王妃と国母の地位は与えてやる。だからそれで我慢してくれ」

「陛下……」

「お前は王妃として申し分ない。よくやってくれている。王太子も産んでくれた。だが、すまん。俺にとって女はルーナだけなんだ。元々 政略だ。お前も俺を心からは愛していないだろう」


 王妃として遜色ないアレクシアに誠実に接していたつもりだ。ただ、それはいつも王としてだった。アレクシアに“レイル”を晒したことは無かった。自分が素のままでいられるのは一人でいられる時だけだった。だからアレクシアと朝まで床を共にしたことが無かったのだ。そんなことにすらルーナと過ごすようになってから気付いた。

 そして今、自分はルーナに素を晒し自然に甘えているのだと気が付いた。

 疲れれば膝枕をしてもらい、嫌なことがあればあの身体を抱きしめる。すると彼女は「大丈夫です」と何も言っていないのに腕を廻して背を撫でてくれる。仕事に行きたくないと言えば、「ダメです」と可愛らしく怒った後で「頑張ればきっといいことがありますよ」と笑ってくれる。そして頑張った褒美はルーナ自身だと勝手に決めた。それほどにルーナを欲し、依存している。

 自分に余裕が出来れば、人にも優しくなれる。これまで一線を置いていた廷臣達が話し掛けやすくなりましたと、色々話を持ち掛け、良案を提示してくれるようになった。

 彼女の存在はもう自分にとって欠かせないものなのだ。


「すまん」


 ともう一度諭すように言えば妃は黙って身を引いた。



 *****



 寝付けなくて暗闇で考える。

 一人で眠るのは随分と久しぶりだ。正確にはレイルが城にいるというのに一人で眠るのは初めて、だ。レイルは泊まりの視察等もあり、留守の事がある。そんな時は当然一人寝になる。夜遅くなることもあるので、その時は知らせが来て一人で寝るが朝になるとレイルに抱かれて目覚める。どちらも寝るときに寂しいと感じていたが、今夜はその比では無い。自分が言い出した事なのにいざそれを実感すると涙が出そうになる。だがこれが正しい事なのだ。そう言いきかせているが、手は空いた右側のシーツを撫でた。

 不意に暗がりに人の気配を感じた。扉が開く気配さえなかったのに。


「誰!?」


 声を上げれば、暗がりに立つものから馴染んだ声が聞こえた。


「この部屋に入れる男は一人しかいないだろう」

「……陛下? どうなさったのですか?」

「どう? 抱きに来たに決まっているだろう」


 半身を起こせば、ぎしりとわずかな音をたてレイルが寝台に乗った。頬に伸びた右手の指がルーナの唇をゆっくりとなぞる。


「でも、暫くは……」

「ルーナ、お前は俺の寵姫だ。寵姫の務めは何だ?」

「……陛下を受け入れることです……」


 額が付くほどに顔を近付けられ、答えれば、軽く唇が触れた。


「そうだ。本来寵姫に拒否権はない。良くできたな」

「陛下」

「二人の時に陛下と呼ぶな。俺にも名前がある」

「でも……」

「命令だ」

「……レイル様……」

「っ! ルーナ、ルーナ…ルーナ! 愛している! 何故お前が妃でないんだ!!」


 レイルはルーナの腰と肩に廻した逞しい腕でぎゅうぎゅうと彼女を抱きしめる。はあ、と息を吐き、今度は呟いた。


「ルーナ……好きだ。愛している」

「レイル様……」

「ルーナお前は? お前は俺のことが好きか?」

「……内緒です……」

「狡い女だ。だが、好きだ」

「レイル様、それはお妃様に……」

「妃とは話をつけた。王妃と国母の地位があればいいそうだ。だから俺の愛はお前だけのものだ」

「まさか、そんな……」


 王妃はいつもルーナに気遣いを見せれくれる。けれど気付いているのだ。彼女は言葉に出さないだけで嫉妬している。同じ人を愛しているのだから分かってしまった。王妃はレイルを愛している。


「公式の場でだけ王と王妃、睦まじい素振りをすればいいそうだ」

「そんな……」

「体面もあるのでな、そう言ってくれて助かった。ルーナ、俺はもうお前だけのものだ」


 熱の籠った熱い吐息が耳に掛かる。


「ルーナ、愛している」


 その甘い呟きに抗えず

 また罪を犯し続ける。

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