2 秘事
壮麗な扉が開かれる。女官長の「お連れしました」の言葉の後でルーナは部屋に入る。彼女は薄い光沢のある寝衣一枚という儚い格好で俯き佇んだ。
銀の美しい髪はさらりと下ろされ燭台の灯りで輝いている。頬を染め頼りなげに俯く顔は、やはり堪らなく可愛らしかった。
待ちきれずに自ら脚を運び抱きしめたその身体は華奢で力加減を間違えたら折れてしまいそうだ。小さな悲鳴が上がったが、迷わずそのまま抱き上げた。
「そんなに緊張するな」
小さな音をさせて額に口付けるとびくりと身体が跳ねた。初心な反応に心が躍る。どれだけ彼女を可愛がってやろうかと。
寝台に降ろして自分も横に座ると彼女の頬に手を伸ばした。白く梳けるような肌は薄桃色に染まっている。薔薇色の形の良い唇に指を這わせれば彼女はぎゅうと瞳を閉じた。
「ルーナ。怖がらなくていい。……優しくする。お前を傷つけるような事はしない」
「は、はい。……よろしくお願いしま、んぅ!?」
最後まで待たずに唇を重ねた。唇を離して顔を覗けばルーナは戸惑いに瞳を揺らす。自分は優しく笑ったつもりだが浅ましさが隠せたとは言い切れない。何度も唇を重ね、ゆるく食み舐める。
実際に甘い味がするわけではないが、彼女の唇を表現するとどうしても『甘い』という言葉になる。
耐えるように瞑られた瞳も服を握り締める細い指も堪らなく愛おしい。
僅かに開いた唇から舌を忍ばせれば、びくりと肩が跳ねた。口腔を蹂躙し縮こまる舌を絡め取る。
ルーナは返すどころかついて来るのすら追いつかないようだ。
先程も思ったが、どう見ても初めてだ。巫女であったのだから当然ではあるが。
「……っん、あ……ぁっ」
漏れる甘い声に理性が焼き切れそうだが耐える。
彼女を征服したいという狂気じみた思いも勿論あるが壊したいとは思わないし、それ以上に彼女を大切に幸せにしたかった。
不思議だった。女性に対してそんなふうに思ったことなど無い。傷つけたくない。辛い思いをさせて嫌われたくもない。ならば優しくするほかにない、またそうすることで自分に溺れてくれることを望む。
「……ルーナ……」
口付けの合間に名を呟いてその甘い香りのする柔らかな身体を豪奢な寝台に押し倒した。
額に、頬に、耳に、首に、鎖骨にと口付けを落としていく。
ルーナの身体は小さく震えているが抵抗する様子はない。瞳をきつく瞑り、敷布を関節が白くなるほどに握って、それでもこちらの求めに応じるつもりでいるようだ。彼女の健気さにまた煽られる。
口付けとともに寝衣の上から体の線をなぞるように這わせていた手が胸のあたりにくると一際大きく身体を震えさせた。
「…い、いや………」
聞えた拒絶の声に手を止めた。
「ルーナ?」
「あっ…いえ……平気です……続けて、下さい……」
声を掛けられ、はっとした様にこちらを見てもう一度受け入れるべく眉根を寄せて耐えるように瞳を閉じた。
怖くないわけがないだろう。
レイルはルーナを愛してるがルーナはそうでは無いのだ。休戦の為自ら犠牲になったようなものなのだから。
「ルーナ、怖くない。大丈夫だ」
「はい。すみません…大丈夫、です……」
瞳を潤ませ、それでも懸命に応えようとする姿にどうしようもなく唆られて、こちらも我慢など出来そうもなかった。
それでも何とか自分を落ち着けて、少しでも彼女の気がほぐれるように努める。
「ルーナ」
耳元で呟けばふるりと身体を震わせる。もう一度優しく唇を重ね、手は優しく頬や頭を撫で、指通りの良い髪を梳いた。
「ルーナ。好きだ」
さらりとした髪をひと房掬い上げてそこにも口付けた。びくりと身体を震わせてルーナは瞳を見開いた。
「どうした?」
「……すき…?…」
「ああ、好きだ。もしかして言っていなかったか?」
「………」
ルーナは答えず視線を外した。どうやら言葉にはしていなかったらしい。
「ルーナ……愛している」
「ぁ……」
もう一度耳元で愛を囁けば吐息を漏らしたのでそのまま耳朶を食んだ。
「あっ!」
「感じやすいな。可愛い」
「…やめて下さい……」
「無茶を言うな」
額の髪を掻きあげて口付けるとまたも身体が強張った。
「そう、緊張するな。お前を故意に傷つけることはしない」
落ち着けと言うように更に頬や髪を撫で続けた。
「ルーナ、愛している」
「もう…もう、大丈夫です…から、それ以上言わないで……」
ルーナは両の手で赤くなった顔を覆ってしまった。反応がいちいち可愛らしい。彼女だからだろうか。
「ルーナ、それでは口付けも出来ない。手を外してくれ」
おずおずと手を除け、覗いた顔は未だ赤く涙目だった。本当に可愛い。狂おしいという意味を初めて解した。
「ルーナ、これからお前を抱くのは俺だ。生涯愛すると、大事にすると約束する。怖がらず受け入れてくれ」
「はい……お待たせして、すみませんでした……。お願いします……」
またも耐えるように敷布を強く握る手を、掬い上げて口付ける。
「敷布を掴むくらいなら俺に縋れ」
「え…でも、それでは……」
「爪痕が付くくらいなんでもない。耐えられないなら咬みついてもいいぞ」
「か、咬みつく!?」
「ああ。ルーナなら赦す。なるべく痛みが無いようにはしてやりたいが、それでも初めては痛いだろうからな。傷つけないとは言ったが今日は赦してほしい。だから代わりに俺を傷つけてもいい」
「傷つけるなんて……」
ルーナはまさかと首を振る。
「我慢するなという事だ」
これ以上の返事は聞かずに口付ける。ルーナの両腕は自分の首に廻してやった。こうすると口付けを強請られているようで気分が好い。
「…ん…あ、ぁんっ……」
甘い嬌声。
端々で身体が強張ることがあったが、名前を呼んで大丈夫だと優しく頬や頭を撫でれば徐々に強張りを解す。
聞いていた通り彼女の心臓の上には銀の徴があった。“王の花嫁”…もう自分の花嫁だとその上に所有の赤い徴を付けた。
時間を掛けて丹念に体中愛撫して、彼女と繋がった時には歓喜すら覚えた。
初めての痛みを耐える彼女を気遣って繋がっている時間自体は短めにしたが
彼女の身体に自分を刻みこんだ。
行為が終わればルーナは意識を手離していた。
目元に浮かぶ雫を舐めとり、汗で張り付いた前髪を除けて額に口付けた。
そして。
「ルーナ 愛している」
意識のない彼女の耳に再度愛の言葉を吹き込んだ。
*****
光を感じる。もう朝なのだと思ったけれど身体も瞼も重くて瞳を開ける気になれない。何よりも自分を包むような温もりが傍にあってとても心地よい。
ルーナは傍にある温もりにすり寄った。
「……ステラ……?」
昨夜はステラと一緒に寝ただろうか? でもおかしい。ステラが抱きついてくることがあっても抱きしめられるというのは変だ。ステラは自分よりも小さいのだから。
「ステラって誰だ」
「!?」
聞こえてきた低い声に一気に意識が覚醒した。開いた瞳に飛び込んできたのはこちらを見つめる蒼い双眸の端正な顔。しかも距離が近い。
誰?と訊いてしまいそうになって慌てて口元を押えた。
(誰?じゃない! 陛下です、レイル陛下!…)
「ステラって誰なんだ?」
もう一度尋ねる声がする。その声も態度も憮然としていた。
「…ステラは妹巫女です。今年十歳になるのですが怖がりな子で、時々一緒に寝ることがあったんです」
「ああ、妹みたいなものか」
レイルは、それならまあいいか、と呟いて額に唇を落として微笑んだ。
「おはよう、ルーナ」
「おはようございます、陛下」
「身体は平気か?」
「……から、だ……?」
覚束ない昨夜の記憶が徐々に蘇りルーナの顔は瞬時に赤くなる。それどころか今も自分は素肌のまま、またレイルも素肌でぴたりと寄り添っている。レイルの左腕で腕枕をされている格好だが、その手がルーナの肩を抱いているので逃げたくても逃げられない。
「ぅ……あ……」
あわあわと言葉にならないまま口を動かしているとレイルはくすりと笑って、その唇にちゅっと音をたてて口付けた。
「昨夜はよく頑張ったな」
「あ……あれでいい、のですか?」
「ああ。すごく可愛かった。お前さえよければ今からもう一度したい」
「え、ええ!? 今って、だって……もう朝……」
「まだ起きるには早い時間だ。どうだ?」
「……どうって…その……」
『陛下の思し召しのままに振る舞われますよう』―――床入りの前に女官長に言われた言葉だ。側室として受け入れるべきなのだろう。
「聞いているのはお前の気持ちだ。身体が辛かったり、嫌なら断っていいんだぞ」
身体は正直気怠いし全身が筋肉痛のように重い。受け入れたところは痛いようなむず痒い様なおかしな違和感がある。それを辛いと言うのなら辛いのだろう。
嫌かと言われれば……
その言い方は狡いと思う。乱暴に好きなように貪られてでもいれば躊躇わず嫌だと言うくらいに身体は疲れている。
でも、昨夜の行為はどこまでも優しかった。
正直怖かった。レイルが、ではなく、倫理に反するその行為が。そんなルーナの強張りを解くように時間をかけて抱いてくれてのが嫌でもわかった。決して強引な事はしなかった。時々我慢する様に眉が寄せられていたのにも気付いた。
言葉でも、可愛い、大切にする、大丈夫だと呟いて。
そしてその中に「愛してる」との言葉もあって。
もうそれ以上言わないで と願ったくらいだ。
好きにさせないで ――― と。
「ルーナ?」
柔らかく微笑んで答えを問う狡い人。
初めて目にしたときから心を奪われた。
本当は休戦の条件の側室など建前だ。
ルーナはレイルのものになりたかったのだ。
けれど、レイルは既に妻子がいる。叶わぬ想い、叶ってはならない想いなのだ。
それでも彼も自分を欲してくれた。
女性に慣れたような彼なら直ぐに飽きられるだろうと思った。
だから、サフィラスに着くまでは触れさせなかった。
ルベウスにいる間に飽きられたら“終戦の為”という言い訳すらなくなってしまうから。
罪を犯す以上はなにかしら人の為にならなければと思う。
できることなら飽きられてしまう前に両国の関係を同盟へと繋げたい。
両王はそれを望んでいるが双方の国の重鎮たちはなかなかそれに応じないかもしれない。けれど、両国の王族の(側室とはいえ)婚姻が成ったとなれば話は随分と変わってくる。
それを使命としてルーナは罪を犯すことにした。
妻子ある人に恋慕するなど罪。
口付けを受け入れるのも恐かった。
せめて国の為と言い訳が欲しかったのだ。
彼が求めてくれている間は彼は自分の言葉に耳を傾けてくれるはず。自分も両国の同盟の為に役にたつであろう、と思いたかった。
だから―――……彼が求めてくれるのなら受け入れてもいいでしょうか。
ルーナは誰とは知らず赦しを請うた。そして
「陛下のお好きなように……」
ルーナはレイルの首にほっそりとした腕を絡め、耳元で呟いた。
*****
「もうだめです」と懇願しても、「身体は駄目と言っていないぞ、もう一度だ」と意識があるうちは行為を続けられた。
何度目のもう一度なのか、強引なのに行為自体は何処までも優しくて、つい絆され流されてしまった。
意識を失くして、目覚めればいつもレイルはルーナの髪を撫でて微笑んでいた。
国王のレイルは当然執務があって「すぐ戻る。寝ていろ」と口付けて部屋出て行く。ルーナが寝ているうちに持ち込んだ書類を片付けている様子も窺えた。
一体いつ寝ているのだろうか。
そうしてそれから八日目の朝。
ルーナは寝台から出られずにいた。不必要と思われるほど大きな寝台のヘッドボードにクッションを幾つも並べそこに背を預けて半身を起こし、レイルと女官長の遣り取りを見守っていた。
「陛下。ものには限度というのもがございます。いつまで政務をおろそかになさるおつもりですか!」
「最低限はやっていた!」
「本当の最低限でございましたね! それで!? ルーナ様のことはどう思っていらっしゃるのです!? 起き上がれない程にするなど!」
女官長の硬く重い声に、国の最高権力者たるレイルは些かたじろいた。
「いや……それは俺もちょっとやり過ぎたと思っている」
歯切れの悪い言葉に女官長の眉が上がる。
「ちょっと? 王家の長い歴史の中でご寵姫を寝所に七日間も軟禁するなんて聞いたこともございません!」
「軟禁は言い過ぎだろう! だいたいそんなことで王家の歴史を紐解くな!」
「全く陛下がこうも箍を外すとは思いませんでした。少しは女性を労う心をお持ちくださいませ! でなければこれからの共寝はこちらの指示に従ってもらいます」
「いや! わかった! そんなことまで指図されたくない! 自重する。悪かった」
「謝罪はルーナ様にして下さいませ」
「ルーナ、無理をさせて悪かった!」
レイルは頭を下げる。一国の主がこうも簡単に頭を下げてもいいものだろうか。
「いえ、あの……側室の務めですよね……私は……」
「いいえ! 務めの範疇を超えております。甘やかしてはいけません!」
女官長の剣幕に押されルーナも「はい!」と答えてしまった。
「さあ、話が終われば陛下は執務室にお早くいらっしゃって下さい。お仕事が溜まっているそうですよ。ルーナ様は今日はゆっくりとお休み下さい。何か欲しいのもはございますか?」
「あ、では……これから私がどう過ごしたらいいのかご指導ください……」
ルーナは妃ではない。仕事は王を受け入れることであり、国政にかかわることはない。与えられた部屋だけで過ごせと言われればそうするしかないのだ。
「好きなように過ごしていい。正妃と同等でいい」
「陛下。それはいけません。立場と礼儀というものがございます。……女官長様、ご指導を」
「わかりました。ですが、今日は休息を」
「そうだ。ルーナ、今日は休め。それに本当に妃と一緒でいいんだ」
レイルの手がルーナの頬に伸びるが、女官長の手でぴしゃりと払い落とされた。
「今日は触れてはなりません!」
「あのなあ! 俺は王でルーナの主人だぞ!」
「王ならば仕事を! 主人ならば寵姫に対して労いを! ルーナ様のいじらしさをすこしは学んだらどうですか」
「っく…お前には口では勝てん。ルーナ、すまん。昼に戻って来る」
「いいえ! 本日の執務が終了するまで部屋には入れません!」
「王を締め出すのか!?」
さすがに抗議しようとするレイルの耳にくすくすと柔らかな笑い声が届いた。
「ルーナ?」
「ふふ……。陛下、私は平気ですから、お仕事きちんとして下さいね?」
微笑むルーナの姿にレイルも和む。女官長に止める隙も与えぬ素早さでレイルはルーナの唇を奪う。
「漸くお前の笑顔が見れた。今日は休め。行ってくる」
ちゅっともう一度唇を重ねると、呆れ顔の女官長をしり目にレイルは部屋を出て行った。
「ルーナ様、男というものは甘やかすばかりでは図に乗りますよ」
額に手を置く女官長に「甘やかしてはいませんが」と返せば。
「七日間もいいようにされて何を言いますか。断ることも大事ですよ」
「いいように…って……。側室とはそういうものなのでしょう? 思し召しのままにと言われましたし……」
「従順すぎます。表向き立場はご寵姫ですが、陛下は妃と同等でいいと仰いました。断ることも許されます。それにものには限度というものがあるのですから」
「それは、そうですね……執務に支障が出るようではいけませんね……でも、まさか私も、こんなにとは……王妃様は上手に制御されているのですね……見習わなければ……」
「何もわかっていらっしゃらないのですね」
「え?」
「なんでもございません。今日はとにかく休息日です」
と溜息交じりに諭され、休むようにと優しく掛布を胸に掛けられた。
*****
肌理の細かい白く柔らかな肌。
甘い花のような香り。
とめどなく聞かせてくれる甘やかな嬌声。
楚々とした彼女が乱れる姿は秀逸だ。
あれだけ肌を重ねても、触れる度に恥らう姿は本当に可愛らしい。
十年連れ添う妻もいる、妻以外とも寝たことはある。だが、好いた女性との行為はこんなにも違うものだろうか。
他の女性と一晩に何度もしたことはない。王妃でさえ抱き締めて眠ったことも、朝を共に迎えたこともない。
ルーナだけだ。
何度求めても、昇りつめても、またすぐに欲しくなる。
一時も離したくない。
少しおかしいのではと自分でも思う位だ。
惜しむらくは彼女の心が未だに自分にないことだ。
国の為にレイルの側室になったルーナ。
あとどれぐらい可愛がれば「好きだ」と言ってくれるだろうか。
まずは身体だけでも落としてしまわなければと思いつつも、溺れてしまったのは自分の方かも知れなかった。
二ヶ月の長期外交、更に帰国後一週間執務を怠った付けは思いの外大きかった。
堪りきった執務が徹夜したところで終わるわけでもなく一旦区切りとし、結局ルーナのいる寝所に戻ったのは日付も変わろうかという時間だった。女官にもう眠っていると言われたので音を立てないように静かに部屋に入り紗幕を捲れば、確かにそこにはすやすやと心地よさそうに眠る愛しい女の姿。
大きな寝台なので真ん中で寝ていても全く問題が無いのだが、右半分側に寝ていた。
この一週間左側にレイル、右側にルーナが寝ていることが多かったからだろう。
離れて寝ているのではない。レイルの左腕にルーナを乗せ右腕で柔らかな肢体を囲むように寝ていることが多かった。
ここまで気持ち良さそうに寝ていると流石に起こすのは忍びない。静かに寝台に滑り込んだ。
そっと華奢な身体を抱き寄せる。昨日までの疲れがたまっているのか起きる様子は見られない。
胸に抱いて彼女の甘い香りを思う存分吸い込む。
堪えきれずに薄く開いた薔薇色の唇にゆっくり自分のそれを寄せる。甘く柔らかい感触に触れるだけの口付けを繰り返した。
流石に違和感に気付いたのかルーナの身体が僅かに揺れた。
「……れ…い…へいか?……」
拙く呟いてすりっと頬を摺り寄せてきた。力を込めて抱きしめてしまいたいのを必死に耐えた。
この一週間離さずいた甲斐があった。初めての朝、レイルを妹巫女と間違えたルーナはもういない。
意識が無くとも自分を抱く者が“レイル”だと思い込むほどに侵透している。
「ルーナ、好きだ。……愛している」
もう一度唇に触れる。
「愛している」
「ん……」
再度呟くとふいにルーナの長い睫毛が震えた。ぼんやりとしてはいるが銀色の瞳が顕わになった。
「……しい…………」
彼女は視線を彷徨わせレイルを見つけると華なりと微笑んで再び瞳を閉じ、静かな寝息をたてる。
鼓動が早い。心臓を鷲掴みにされたかと思った。
彼女は何と言った?
「うれしい」そう言ったか?
「愛している」と聞こえて「嬉しい」と微笑んだ。
そう、だよな?
自惚れてもいいのではないか。
好きでもない相手に「愛している」と言われ「嬉しい」とは答えないと。
「ルーナ、俺のことが好きか?」
「……」
返事はない。そのかわりに身体を密着させてきた。聞えるのは小さな寝息。
穏やかな寝顔は幸せそうに見える。
幸せだと思っていて欲しい。
華奢な身体を腕の中に閉じ込めて、額に口付けを落す。
「おやすみ ルーナ」
朝起きた時に彼女は今の出来事を覚えているだろうか。
覚えているのなら、もう一度心から自分も告げる。
だから、彼女の心を聞かせて欲しい。
「好き」だと。
その甘く柔らかな声で聞かせて欲しい。
腕だけでなく脚も絡めて抱きしめる。
全身で彼女の温もりを感じ、彼女の呼吸に自分の呼吸を合わせるようにして眠りについた。
*****
目の前に飛び込んできた端正な顔に声を上げそうになり、慌てて声を呑みこんだ。
サフィラスに来て一週間が過ぎた。けれどルーナがレイルの寝顔を見たのは初めてだった。一週間、いつも目を覚ますとレイルはルーナの髪を梳きながら優しく微笑んで「おはよう」と言ってくれた。本当にいつ寝ているのだろうかと心配になったほどだ。
その彼が、今朝はまだ微睡の中に居る。
彼は美しく整った顔をしていてその長躯と威厳が相まってとても男らしく凛々しい。けれど眠っているとひどくあどけない。
「……かわいい……」
ふとそんな感想が漏れてしまう。二人も子供のいる男性に“かわいい”はどうかと思うが、そう思ってしまったのだから仕方がない。彼は普段から女性を抱いて眠る人なのだろうか、雁字搦めというように抱きしめられている。なんとか自分の腕を引っ張り出して彼の蒼髪に手を伸ばす。自分とは違う少し硬い髪。彼はいつもルーナの髪を梳くように撫でているが、なんとなく気分が分かったような気がする。可愛がりたい、のかもしれない。
「お疲れ、ですよね……」
いつ寝所に来たのか気付かなかった。
そもそも来るとも思っていなかった。一週間も傍に居てくれたのだ。そろそろ家族の元に帰らねばならないだろう。それが自然なのだから。だから待っている必要もなかったのだが、それでも十一時頃までは起きていた。やはり来ないと確信し、更には昼間休んだとはいえ体はまだ疲れていたのか睡魔に誘われ眠ってしまった。つまりレイルが来たのはその後だ。
なにかいい夢を見ていた様な気がする。心が温かく感じる。
「陛下もいい夢を見ているといいのですけれど」
寝顔は穏やかだ。
請われはしたが政略で側室になった。けれど彼はとても優しくしてくれる。妃と同じ様に振る舞っていいとさえ言ってくれた。
レイルの事が好きだ。
だから幸せだ、と言える。そして、寂しいとも思ってしまう。
彼には家族がいるのだ。
分を弁えなければならない。
彼はすぐに、王妃の元に戻るだろう。それでいい。それが自然。
言い聞かせているのに。
王妃様が羨ましい、と思う浅ましい自分。
髪を撫でていた手が頬に伸び、輪郭を撫でて、指先で唇をなぞった。
「ふふ……柔らかい……」
彼はとても鍛えられた身体をしていてどこも硬い。でもここだけは柔らかい。何度この唇に口付けられただろうか。たった一週間だというのに口付けられるのが当たり前になってしまった。
そして身体も。
彼に与えられる熱はとても幸せだ。彼が求めてくれる間だけ分け与えてもらってもいいだろうか。
それ以上は……自分からは望まないと約束するから。
閉じた紗幕の向こうに光を感じる。きっと今日もいい天気なのだろう。
せっかく早く目が覚めたのだ。支度を整えてレイルを起こしてみたい。
レイルを起こさないように慎重に静かに身を起こす。腕も脚も絡まっているので大変だったがなんとか成功した。
と思ったその時、世界は反転した。
「きゃあ!?」
驚ろきに見開いた瞳の前にあるのは蒼色の双眸を意地悪く細めた端正な顔。ルーナは起き上がろうとしていた寝台に押し倒されていた。
「おはよう、ルーナ。いい朝だな」
「え? ええ……はい」
返事をした唇が先程まで触れていたそれに塞がれる。
「……んっ……」
「中途半端な煽り方はしないでくれ。お前の唇の方が余程柔らかい」
「!? 起きていたんですか!?」
「さあな」
「や……ん…だ、め……」
抵抗しようにも両腕を拘束されて深く口付けられて力が抜けてしまう。
「陛下は執務が……ぁっ……」
「一回で終わりにする」
「や……うそ……」
「ん? 一回じゃ足りないか?」
「ちが! ちが、んぅ!」
これ以上の抵抗は認めないと言うように唇を塞がれて、身体を這う手に結局思考を閉ざされた。
*****
「昨夜のことを覚えているか?」
気怠さの残る朝食の席でレイルにそう聞かれた。食事の支度が整うとレイルが給仕はいいと言ってくれたので部屋には二人きりだ。
「あ、すみません。寝入ってしまっていて、陛下が来られたのも気付きませんでした……」
「そうか。それならいい」
「あの、私、何かしましたか?」
「いや? 寝ぼけて可愛らしくすり寄って来たくらいだ」
「え!? じゃあ寝苦しい思いをさせてしまったんですね……すみません」
「ははっ! 寝苦しいわけがあるか。ルーナを抱き寄せたのは俺だ。お前は抱き心地がいいからな」
「陛下と違って無駄なお肉が付いていますから」
むうっと口を尖らせるとレイルは弾けるように笑った。
「胸の膨らみなら無駄じゃないだろう。他に何処に肉が付いているんだ? そんなに華奢なのにぎすぎすしてないし本当に柔らかくてお前の身体は不思議だ」
「もう! 恥ずかしいことを言わないで下さい!」
ぷいっと横を向くルーナにレイルはくつくつと笑う。
「あの、陛下?」
「うん?」
楽しそうに笑うレイルに声をかけると優しげな視線を向けてくれる。心臓がとくんと跳ねる、そして同時に寂しくもなる。ルーナは自分を「馬鹿」と罵って、レイルに言った。
「私、もう十分です。今日は王妃様の元へいらして平気ですよ」
「……どういう意味だ?」
何故かレイルの声が低く怖くなった。自分はおかしな事を言っただろうか。元敵国へ一人来た王女の自分を気遣ってついていてくれたのだと思ったのだけれど。指図するなということだろうか?
「いえ、もう一週間も一緒にいて頂きました。女官長様も良くして下さいますし、陛下がこれ以上時間を割かなくとも平気です」
「お前は俺がいなくてもいいんだな」
「え? ええ、はい……」
「ムカつくな……」
小さく呟かれた声にルーナは首を傾げた。
「陛下?……!いたっ!!」
ピシッとおでこを弾かれた。反射的に痛いと言ってしまったが実際はそれほどでもない。
「何をするんですか!」
「自分だけかとムカついたんだ」
結局自分だけが会いたいと傍にいたいと思っているだけで、ルーナの心は自分に無かった。まだまだだな、レイルはと息を吐く。
「なんです?」
「いや。いい。なんでもない。悪かった」
身を乗り出して弾いた額に口付ける。そうして耳元に唇を寄せた。
「ルーナ……さっきの一回じゃとても足りない。今日はなるべく早く来るから、そのつもりでいてくれ」
来なくても平気と言ったのに低く艶のある声で夜の務めを乞われ、ルーナは赤くなって言葉を失くしてしまった。
彼の愛は甘くそして心地よい。
それはルーナの中に降り積もり苗床となる。
ルーナの罪を罰する棘を育てる苗床。
いつかそれが大きく育ってしまえばルーナを刺す棘となるだろう。
構わない。
罪は罰せられなければ。
けれどその類が彼とその家族に及ばぬように。
せめて自らの分を弁えていなければ。
そう決めてルーナは罪に溺れていくのだ。




