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1 出逢

 それは五百年昔の物語。

 サフィラスとルベウス、争いを続ける両国。

 その時戦局は武力を誇るサフィラスに傾きつつあった。


 結果の見えつつある中で、サフィラス王レイルはそれでも休戦講話に応じた。場所は国境の城塞などではなく、敵国であるルベウス王城。戦役で負傷したルベウス王が遠征出来ないために、わざわざ出向いた。

 そして優勢でありながらレイルは休戦条件を自国の利に繋げなかった。


「条件は休戦ではなく終戦になるようルベウスの重鎮を王が説得することだ」

「それではせっかくの我が国の優勢が!」

「自国の利ばかり求めるから争いになるのだろう!」


 蒼髪蒼瞳の精悍な顔立ちの青年期のレイル王は不平を溢す自国の廷臣を一刀両断し、自らより年上のルベウス王と真正面から向き合う。


「此方の条件はもう仕掛けてくるなというだけだ。俺は戦役を終わりにしたい。互いに自国の平和を守っていくだけでは済まないか? ルベウス王は何を望んで戦っていた?」

「我々も望んだものは平和だ。サフィラス王の恩情有り難く受け取りたい。賠償は少しではあるが提示したいと思う」

「ではそれは慎んで受け取ろう」


 サフィラス王とルベウス王は握手をしてその日の会談を終えた。


 *****


「流石に肩が凝るな」


 レイルは肩を回しながら一人夕刻の庭を歩いていた。

 少し城内を歩いてもいいだろうかと言えば、案内されたのが此処、王専用の庭だ。王の居室のある棟からしか入れない庭ならば安全だろうとの配慮だった。ならば、一人で歩きたいと供も断った。


「赤い薔薇か」


 ルベウスは大陸の北側にある為寒さの厳しい地だ。真夏であるはずの今も過ごしやすいといえる気候で、サフィラスでは春に見られる薔薇の花が未だに咲いていた。


「聞いていたのと随分違うな」


 独り言ちて、考える。レイルは王位を継いでまだ三年しか経っておらず、ルベウス王とまともに対話をしたのは今回が初めてだった。もっと冷酷な独裁者だと聞いていたが、話してみれば人道的な人柄が窺えた。


「何だろうな、この差は……」


 ふと、辺りを見回して自分が庭の随分奥まで来てしまった事に気付く。整えられた庭と言うよりは、木々の生い茂る森のような処を歩いている。余り時間をかけては迷惑にも心配をかけることにもなるので帰るかと踵を返そうとして、小さな水音が耳に入った。泉でもあるのかと思い留まってそちらに足を向ける。ピンクの蔓薔薇が咲き茂っているところに来ると、妙な違和感を感じた。


(何だ? 妙な感じがするな)


 空気が此処だけ張り詰めているような感じだ。けれどレイルは構わず足を進めた。蔓薔薇の垣根を通る際にぴっと棘が手に当った。見れば血が僅かに流れているが、掠り傷だと気にしなかった。

 その先には、やはり泉があり、そして其処には薄衣一枚で水浴びをする女性の後ろ姿があった。

 レイルは咄嗟に気配を消し、大きな樹の陰に隠れた。

 偶然とは言え、女性のあの姿を見るのはまずい。気付かれる前に戻ろうと思ったところで、パシャンっと大きな水音が聞こえた。まさか転んだのか、水は腰の深さまであったはずと振り返る。と、丁度水面から女性が立ち上がった。


 レイルはその姿に眼を奪われた。


 銀の髪に銀の瞳。

 濡れた髪と白い肌を滴る透明な雫。

 物憂げに伏せられた長い睫毛に薄く開いた薔薇色の唇。

 透けこそしていないが衣が肌に張り付いて、その華奢でいながら女性らしさを匂わせる身体つきが扇情的に写し出されていた。


 綺麗だ―――と瞬時に心を奪われた。


「誰!?」


 パシャンっと女性はもう一度首から下を水に沈め叫んだ。

 まずい、とレイルは再度気配を消し樹に隠れる。女性はレイルのいる方を見ているが、はっきりとした気配が掴めずに不審そうな顔をしている。身体を沈めたまま、岸に近付くと、置いてあった拭き布を手に取り水から上がった。

 身体を布で覆い、注意深くレイルの方を見て後退る。このまま黙っていれば、気のせいだと帰ってくれるだろう。

 だが、そうなれば、もう二度と会えない。

 レイルは気配を消したまま静かに移動した。女性の行くであろう方向へ先回りする。


 女性はくるりと向きを代えた途端、ドンと何かにぶつかった。


「きゃあ!?」


 女性は悲鳴を上げて後退る。


「すまん!! 何もしないから落ち着いてくれ!」


 女性がぶつかった何か…レイルは両手を上げた。

 女性の怯えた銀の双眸が自分の姿を映している。何故かそれだけで心が震えるほどに嬉しい。


「……貴方は?」


 女性は距離を取りつつレイルに訊ねる。


「サフィラス王 レイルという。君は?」

「……ルーナ…、神殿の巫女です……」

「ルーナ。本当に申し訳ない。その、覗くつもりは無かったんだ」


 これは本当だ。後ろ姿だけ見たときは戻ろうとしたのだから。だが、今はとても眼が離せるものではなかった。

 布を纏った為に身体の線こそ分からないが、白く細い艶かしい脚が覗く。銀の耀くような髪からぱたぱたと雫が垂れ布に染みを作る。頬を伝わる雫すら美しく見えた。


「結界があったはずですが……?」

「結界?  確かにここに辿り着くまでに妙な感じがしたが、あれか?」

「薔薇が遮って王以外はここには入れないはずなのに……」

「薔薇…ああ、手を切られたあれだな」


 レイルは血の滲む甲を見た。


「怪我を……っくしゅん!!」

「風邪を引くぞ!」


 レイルは一気に距離を詰めてルーナを腕に捕らえた。


「きゃあああ!! 何をするんです!」

「いや、寒そうなので」

「貴方がいなくなれば着替えます!!」

「すまん。本当は触れる理由が欲しかったんだ」


 レイルは益々強くルーナを抱き締めた。ルーナの濡れた衣と髪がレイル自身も湿らすが構わない。とにかく抱きしめ腕に捕らえたかった。


「離して!!」


 ルーナは身動ぎして抵抗するがそれでも離さない。離せなかった。


「ルーナ、結婚はしているのか」

「!? 何を言っているのです! 離して!!」

「答えてくれたら離す」

「巫女は未婚が決まりです! 答えました! 離して下さい!」


 ルーナは窮屈な腕の中で懸命にレイルの胸を押し返すがびくともしない。


「まだだ……王のものなのか」

「王と私は血縁です!」


 王の庭に居たということは王のものである可能性が高い。レイルはルーナの否定の言葉に心から安堵した。そして言う。


「ならば、俺の妻になってくれ」


 ルーナは驚いて抵抗を止めた。銀の双眸を大きく見開いてレイルを見上げている。

 レイルはにっこりと微笑んだ。

 ルーナは一瞬頬を染めたが、すぐに表情を硬く変えレイルを押し返そうとする。それでも全く緩まない拘束に半ば自棄になり抵抗を止めた。ふうっと息を吐いた後、鋭い視線をレクスに向けた。


「御冗談を。巫女とは神に身を捧げたものですよ。ましてや休戦の話があるとはいえ敵国の者を。お離し下さい!」

「休戦の話か。それを理由にしよう。休戦の条件としてルーナを貰い受ける。俺はどうしようもなくルーナが欲しい」

「……私が何も知らないとお思いで? サフィラス王。貴方は妃も、またその方との間に王子と姫もいらっしゃるはずです」

「離縁してもいい」

「馬鹿なことを。出来もしないことを仰るより、しなければならないことがございましょう。お離しください」

「ルーナ。俺は本気だ。ルベウス王に了承を得て貰いに来る」


 片腕でルーナの細腰を抱いたまま、もう片方の手で頤を掬う。ルーナが警戒するより早く、その柔らかな唇を奪った。

 数分の間で何度も見た驚きに見開かれた銀の双眸。口付けをしているというのに視線が絡んでいる。レイルは蒼い双眸を細めた。

 触れるだけでちゅっと音を立てて一度唇を離すが、呆然としているルーナを見て堪らずにもう一度唇を塞いだ。


「んっ!……っぅ、んん!」


 口付けがこんなにも甘く蕩けるような、先を誘う欲を持つものとは知らなかった。もっとと心が望む。


「つっ!」


 その欲に従って舌を忍ばせようとしたら流石に唇を噛まれた。舌で唇を舐めれば鉄の味が乗る。


「激しいな」


 レイルがくすりと笑えば、ルーナは涙目で彼を睨み、弛んだ拘束を見逃さずに距離を取った。


「信じられません……! 王がこんな非道な真似を……」

「非道? 俺のものだと予約をしただけだ。愛しいと思った女に触れたいと思うのは男の当然の欲だろう」


 けれど、レイルはその欲を初めて知ったのだが。


「こちらの意志も確かめずにすることではありません!」

「それはそうだな。俺もこんな無理やりするようなことは初めてだ。ルーナが可愛いのが悪い。それに勿論責任はとる。だから触れた」

「なっ!? 話になりません!」


 踵を返し走り出すルーナの後ろ姿にレイルは声を掛ける。


「ルーナ! 俺は本気だぞ!」


 ルーナは一度振り返ったが、そのまま走り去った。

 レイルは手の甲の傷を見て「不幸中の幸いか」と呟いた。


 *****


 その夜、レイルは自ら申し出てルベウス王と二人で内密の会談を得た。


「前言を撤回して済まないが、休戦の条件として一つ譲り承けたいものが出来た」

「それは」

「神殿の巫女だ」


 その言葉にルベウス王の顔色が変わる。


「サフィラス王よ、禁域に入られたのか。結界があったはずだが」

「ルーナにも言われたが、入れた。すまない。禁域を侵すつもりはなかった」

「いや、入れるはずもなかったのだが……」


 土の精霊に命じて巫女が禊をする清めの泉の周りに薔薇の垣根を作らせた。王以外の侵入を阻むものなのだが……彼も王かと頭の隅でルベウスの王は考えた。


「それで、どうだろうか? ルーナを貰えないか?」

「何故、ルーナを? 慰み者にでもするつもりか!」


 ルベウス王の心火を見て、レイルは自分が言い方を間違えたことを知り素直に謝罪する。


「申し訳ない。俺は言葉を間違えたようだ。ルーナを妻として迎えたい。生涯大事にするので妻に欲しい」


 レイルはまっすぐにルベウス王を見た。澄んだ蒼い双眸はその意思が嘘でないことを語っていた。


「……そもそもルーナはルベウス王とはどんな血縁関係なのだろうか? 遠縁の者なのかと思ったのだが」


 そんなことも知らずに欲しいと言っているのかとルベウス王は僅かに呆れ、安堵する。慰み者にするという意思は本当に無いようだ。


「……娘、第一王女だ」

「娘!? しかも第一王女が巫女となっているのか?」

「こちらにはこちらの事情がある。断ったらどうなさるつもりだ? 報復に戦争を続けるか」


 レイルは驚いた様にルベウス王を見て、顎に指をかけると視線を下方に向けた。考えるようにしてから視線を戻した。


「……申し訳ない。俺は随分と手順を間違えた。まずは戦役のことだが、そんなつもりは毛頭ない。もう戦争は終わりだ。俺はただルーナが欲しいだけで先走ってしまった……。王女ならば正式に国を通し国王として婚姻を申し込まなければならないな」


 目の前の自分とは一回りも年が下の青年は自らの態度を真摯に謝りこれからのことを思案している。報告ではもっと野蛮で愚蒙だと聞いていたが。確かに尊大ではあるが、それは王族故であり、野蛮や愚蒙とは程遠い。物事の道理と手順も踏まえている。


「サフィラス王よ。ルーナは巫女。結婚は出来ん」

「何故だ? 還俗すれば可能だろう。それ以外にも理由があるならそれを訊かねばこちらも引けん」


 レイルの決然とした様子にルベウス王は溜息して話し出した。


「ルベウス王族は神の子として胸に金の徴を持って生まれてくる」


 レイルは知っていると頷く。


「ルーナの左胸には銀の徴があるのだ」

「銀? 何か意味が?」

「意味は“王の花嫁”だ」

「それでは!」


 ルベウスにはまだ十代半ばの王子が二人いる。彼らか、それとも目の前の王が……。


「ルーナは真に我が娘。流石に父娘、姉弟でそういう関係になるほどの畜生にはなれん。だから巫女にした」

「……では生涯閉じ込めておくつもりか」

「そうだ。ルーナも了承している」

「他の者に嫁いではならないという決まりが?」

「……いや、特には無いようだが……“王の花嫁”という以上何か意味がある。むやみに外に出すことは出来んのだ」

「ルベウス王、俺も王だ」


 レイルは視線を逸らさずにルベウス王を見据えた。


「俺に嫁いでも“王の花嫁”だ」


 決然と言うレイルをルベウス王も真っ直ぐに見て言った。


「サフィラス王に嫁ぐことは出来んだろう。貴殿は既に妃を持つ身だ」

「離縁する」

「離縁してどうする? ルーナを正妃に据えるか? 貴殿とてサフィラスとルベウスの血の問題を知っておろう」


 サフィラスとルベウスの王族の血が交わることは無いという風説。つまりそれが真実であればルーナはレイルに嫁いでも子供を授かることが無いということだ。


「王太子は既にいる。子が出来ずとも問題ない」

「では、離縁出来たときに今一度申し込むが良かろう」


 離縁など出来るわけがないと考え、ルベウス王は溜息交じりに答えた。

レイルは現在二八、今の妃は十八の時に迎え入れ王子と王女を生しているのだ。レイルも言うように王子は正式に王太子の地位も得ている。国母となる女性と簡単には離縁など出来ないはずだ。


「わかった。国に帰って直ぐに手配しよう。口頭約束だが違える事が無いよう頼む」

「その必要はございません」


 人払いのされた部屋に女性の凛としながら耳に心地よい声がした。


「「ルーナ!」」


 銀の姿を目にして驚く声を上げるルベウス王と、喜色の声を上げるレイル。ルーナはレイルを一瞥し、父であるルベウス王の前に進む。


「無礼をお許し下さい、陛下」

「無礼などでは無い。どうしたんだ?」

 

 ルーナは父の気遣いにふわりと微笑んだ。


「ルーナ!」


 突然大きな声をかけられて、ルーナとルベウス王はレイルを振り返った。


「……なんでしょう?」

「俺にも微笑んで欲しい」


 憮然と告げるレイルにルーナは二の句が上げられない。代わりに訊ねたのは父王だ。


「サフィラス王、それほどルーナを望むか」

「ああ。欲しい。俺は誰かを欲したことは初めてだ。直ぐに妃とは離縁して……」

「必要ありません」

「ルーナ?」


 ルーナはぴしゃりと言って再び父に向き合う。


「私は休戦の為、質、側室としてサフィラスに参ります」

「側室などにしたいのではない!!」


 ルーナの提案に異義を唱えたのは父王ではなくレイルだった。

 睨むようにしてルーナを見ている。ルーナは一度瞳を閉じるとレイルに向き直った。


「お世継ぎを生んだ正妃を離縁するなど、国を乱したいのですか。女一人の為に国を傾けるような愚王に嫁ぐ気は御座いません」


 絶句するレイルを置いてルーナは王に礼を取り告げる。


「陛下。元々姫とは駒。神殿で祈りを捧げるより役に立つでしょう。どうぞお使いください」

「ルーナ……」


 明らかな心配を顔に浮かべるのは、王ではなく父としてだ。ルーナは心配要りませんともう一度微笑んだ。そしてレイルへと向き直る。


「サフィラス王。休戦の条件として、僅かな金銭を受けとるか、私を受けとるか。ご決断を。但し、貴方の治世に於いてこれ以後決してルベウスに進攻する事が無きよう、そしてルベウス王と協力し終戦、同盟へと導く事をお約束下さい」


 銀の双眸は真っ直ぐにレイルを射抜く。

 その姿は巫女であり、生粋の王女だった。

 窓から射し込む月明かりに耀く銀の髪、光を纏ったその華奢な肢体は神々しく、侵しがたい月の女神が其処に居た。



 *****



 隣国からの帰城の際、王レイルは馬車から先に降りると一人の女性をエスコートして降ろした。

 王が側室として連れ帰った女性、ルベウスの王女ルーナに一斉に好奇の視線が注がれる。予想していたことだ。ルーナは王女として怯まなかった。けれどその視線の中に何か不穏なものを感じそちらを見れば。

 黒髪黒目の三十代半ば位の綺麗な顔をした男が自分を見て意味ありげに口角を上げた。

 恐い。感じたのは恐怖だった。


「父上! お帰りなさい」

「お父様!!」


 少年の声と少女の声に我に返り、視線を戻した。金の髪にレイルと同じ蒼い瞳の少年と金髪に琥珀色の瞳の少女、サフィラスの王子と王女だ。レイルは自分の子供達の頭を大きな手で撫でた。


「クラウス、アリッサ、皆を困らせたりしなかったか?」

「していません!」

「陛下。お帰りなさいませ。御無事のお帰りお待ちしておりました」


 涼やかな声。王女と同じ金髪に琥珀の瞳。王妃だ。ルーナは腰を折り頭を下げた。


「ルーナ、顔を上げてくれ。紹介も出来ない」


 レイルの声にルーナは躊躇いながらも顔を上げた。レイルの腕がルーナの肩を抱き寄せた。ルーナは驚いたがレイルは気にする様子もなく王妃にルーナを紹介する。


「アレクシア。書簡で知らせたな、彼女がルーナだ」

「はい。ようこそいらっしゃいました。ルベウスの姫君」


 王妃の方も気に留める様子もなくルーナに挨拶する。夫が自分以外の女の肩を抱いているというのに顔色一つ変えない。彼女は紛れもなく“王妃”なのだ。ルーナは改めて深々と頭を下げた。


「初めまして。ルーナと申します」

「そんなに畏まらないでくださいませ。これから陛下を支える者同士、仲良く致しましょう」

「はい。ありがとうございます。これからよろしくお願い致します」


 二人が挨拶を終えると、レイルはルーナの肩を抱いたまま一人の女性に声を掛けた。


「女官長、部屋の用意は出来ているか?」

「はい。仰せの通りに」

「よし、では行くか」

「あ、あの、陛下。こちらの女官長様に案内して頂きますので」

「いや、俺も部屋を確認したいからな」

「ですが……」

「いいから、行くぞ」


 躊躇うルーナの肩を引き寄せ歩き出す。

 ルーナは背に視線を感じていた。暫く振りに会った夫婦でもあれが普通の対応なのだろうか。妻に触れもしなかった。それどころか碌に言葉も交わしていない。仲が悪いようには見えない。子供達は父を慕っているように見えたし、王妃も夫の帰城を喜ぶ声音だったが。王と王妃の対応だと言われても、触れ合いを好むような彼がするには随分と寂しいものだ。


「お父様……行ってしまいました……」

「母上、あの方はどなたですか?」

「隣国ルベウスの姫君、大切なお客様ですよ」

「大切な? それでお父様がごあんないをしているのですか?」

「ええ。そうです」

「とても綺麗な方ですね」

「…………」


 息子と娘の問いに答え王妃はレイルとルーナの後ろ姿を見送った。


 *****


 白と金、薄桃色で統一された豪奢な部屋をレイルは隅々まで確認した。


「よし、注文通りだな。どうだ、ルーナ? 他に必要な物はあるか? 気に入らないものがあれば取り替えるぞ」

「いえ、充分すぎるほどです」


 本当に充分すぎる程だ。部屋の広さも、置かれた調度類の豪華さも、衣裳部屋に並べられた何処で調べたのかルーナのサイズに合ったドレスの数々も。側室の部屋でこうなら、王妃の部屋はどうなっているのだろうか。


「腹は減っていないか?」

「いえ?」

「そうか。では、女官長、支度を頼む」

「畏まりました。ルーナ様此方へ」

「はい。……あの、何の支度でしょう?」

「床入りでございます」


 女官長に促され付いていこうとして訊ねれば、思いもよらない言葉が返って来て脚が止まってしまった。


「と、とこ……あ、あの ! やっぱりお腹が空きました!」

「ルーナ?」

「あ、すみません……その……」

「いや、いい。女官長、用意してくれ」

「はい」


 文句も言わず下がる女官達を見送って、ルーナはもう一度「すみません」と呟く。「気にしなくていい」とこめかみに口付けが落ちた。ルーナの肩がびくりと上がる。

 ルーナが側室になると発言してから諸々の講和や協議を終え、今日帰国するまで一月(ひとつき)が経っている。

 ルベウスにいる間レイルはルーナに会うことが叶わなかった。ルーナが神殿から出てこなかったのだ。帰国の途の間もルーナに待って欲しいと言われ結局レイルはルーナに触れていない。我慢の限界というところだ。

 ルーナの方はまさか帰城したその日の内に床入りとは思っていなかった。何故なら、レイルがサフィラスを出てからは二ヶ月近くが経っているのだ。まずは正妃を優先し、落ち着いた頃に自分ととなると思っていたのだが。


「あの、今夜……ですか?」

「正しくは食事の後準備出来次第だ。薄暗い時刻にはなるだろうがな」

「……王妃様は……」

「さっき挨拶しただろう」


 そういう事を言っているのではないのだが……今度は頬に口付けられる。長い指がルーナの唇をなぞった。


「ルベウスにいる間も道中も随分我慢したんだぞ」


 確かにルーナを覗き込む蒼い双眸は熱を孕んでいる。ルーナは怖くなって瞳を閉じた。それを了承と取ったのか、直ぐに唇が重なった。


「…っあ、」


 味見するように啄ばむような口付けを幾度もし、唇を軽く噛んだり舐めたりする。背筋がぞくぞくとして腰が抜けそうだ。瞳をぎゅっと閉じて、無意識に手は縋るようにレイルの服を強く握っていた。長く続く表面だけの触れ合いなのにどこか濃厚でルーナの呼吸が乱れ、唇が空気を求めてうっすらと開くとレイルは慣れた動作で更に深く口付けた。


「ふ、あぁ、……ん……あ」


 水音と共に口腔内を蹂躙される。舌を絡められ、吸われ、舐められ、もうルーナはレイルの服を掴むだけで精一杯だった。

 唾液を送り込まれる。どうすることも出来ずにいると「飲むんだ」と言われる。こくんと飲み込めば、飲みきれなかったものを舐めとられ「よくできた」と微笑まれた。


「ルーナ、可愛いな。何も知らないんだな」

「……は、ぁ…だって……」

「そんな顔で煽るな。待てなくなる」


 乱れた呼吸、潤む瞳で見上げれば、切なげに眉を顰められる。

 もう一度唇に触れて、力の入らない身体を横抱きにされた。運ばれたのは食事の支度の調ったテーブル。いつの間にと顔が熱る。見られていたのかと思うと居たたまれず、レイルの首にしがみついた。


「どうした? 寝台に運んで欲しいのか?」

「違います!」


 ルーナは真っ赤な顔で否定して身体を引いた。


 結局食事は余り喉を通らなくて、自分が希望して用意して貰ったのにと申し訳なく思っていると、レイルが「特別だぞ」と殆ど食べた。


 食事を終え、少し休憩した後でそれぞれ支度の為に部屋を出る。

 レイルは女官長の後ろを俯いて歩くルーナを見て、口角を上げた。

 側室になると自ら言ったあの日、彼女は何処までも毅然として美しかった。

 だが、今その姿は全く無い。初めての事に怯え戸惑うどうしようもなく可愛い女性の姿だ。

 どちらも直に自分のものとなる。女性を抱くときにこのような高揚感など感じた事が無い。処理と義務だった。想いを寄せる相手というものはこんなにも違うものなのかとレイルは顔を綻ばせた。


 レイルが支度を終えて戻ってもルーナはまだ寝所に居なかった。女性の支度というのは時間がかかると諦めて寝台に腰を下ろす。

 本来、側室相手には手順など不要だ。抱きたいときに抱けばいい。だが、ルーナに対しては出来る限り正妃と同じ扱いをしてやりたかった。ただでさえ、神に愛を誓い祝福されることが赦されない立場なのだ。せめて自分の出来ることはして大切にしたい。だからこの部屋も王妃と同等域で用意させ、女官にも正妃同様に扱うよう申し付けた。その辺りは女官長がしっかりやってくれるだろう。


 ルベウスにいた頃の事を反芻する。

 幾度かルベウスの王と二人で話をした。その時にこんなことを訊かれた。


 ――― 何故 戦場で神剣をただの剣として使うのか  ―――


 それならば自分こそも訊きたいことがあった。


「先に神の力を使わなくなったのはそちらだろう。神導力を使えばそんな怪我もしなかったはず。人として戦うものに神の力を揮えるわけがない」


 ルベウス王は驚いた顔をしていた。


「だから此方こそ訊きたい。何故、神の力を使わなくなった?」

「……ルーナに言われたのだ」

「ルーナ?」


 そうだとルベウス王は頷いて続けた。


「時を経れば神の血は薄れ、力も弱まる。何時までも神の力で民を掌握出来るものではない。人を治めるのは人に慕われ、人を導ける強く心の温かな人だ。神の力を人に行使する限り畏怖され、戦いはなくならないだろう、と」


 今度はレイルが驚く番だった。


「迷ったが、ルーナの言う通りにしてみた。そして今に至る結果となった。貴殿がルーナと同じように考えていたとは驚いた」

「いや、俺はそこまで考えていない」


 ただ、人の力しか持たぬ者に神の力を使う気になれないだけで、理由など考えた事もなかった。


 戦争を終わらせたのはルーナだったのだ。

 彼女は何処までも清らかで美しい。

 王女の毅然さと巫女の清麗さ、さらに乙女の初々しさを併せ持つ。

 益々欲しくなった。

 そして そんな彼女を正妃に迎えられなかったこの状況を悔やんだ。

 彼女は自分にとっても国にとっても比類なき王妃になれただろうと。


 部屋に飾られた早咲きの秋薔薇がはらりと花弁を落とした。

薔薇の棘の花言葉が「不幸中の幸い」です。

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