冬、しんしんと-1
街が白い。
師走も真っ只中、珍しくこの街にも、雪が続いている。
歩く人々は足早に皆、帰り道を急いでいるみたいだ。
僕は、静かな絶望と共に自分の気持ちに気づいたあの日から、小杉と酒を飲んでいない。
時折、電話がかかってくる度に、小さな嘘をついて、小杉の誘いを何度か、かわし続けていた。
それからは、プツリと小杉からの誘いの電話も、ふいに姿を見せることも、無くなっていた。
(今夜は、かなり寒いな)
会社を出ると、外はもう真っ暗で。
けど、雪あかりで、ぼぅっと白くほの明るい。
その明かりの中、その人はいた。
「那津さん」
コツコツとヒールの音を立てて、彼女が僕に近づいてくる。
何故だか、僕はその音から逃げ出したくなる。
その衝動を堪えるのに必死だった。
「雅美ちゃん…」
「お久しぶりです」
僕が覚えている彼女は、夏の日の、青空の様な人だった。
けど、今、目の前に立って笑みを浮かべている雅美ちゃんは、キン、と張り詰めた冬の様な空気をまとっている。
「那津さん、少し付き合って貰えますか?」
ーー 少し、ライトを落とした店の中。
僕は彼女と並んで、久しぶりにバーボンウィスキーを口にしている。
一枚板のカウンター、あの頃は、三人で肩を並べて飲んだ事もある。
軽口を叩く小杉と、それに気の利いた言葉を返す彼女。
小気味良いテンポで、けど、しっくりとしている二人の距離感が僕は、好きだった。
本当に。
けど、今は、少しだけ、それが苦しい。
「この店、初めて久君が連れて来てくれたんです」
「そうなんだ」
「朝まで飲んで、始発で帰りました」
「朝まで…凄いな、二人とも、酒強いもんね」
ふっと、笑って、雅美ちゃんがウィスキーを口に含む。
それを、ゆっくりと舌で転がして、コクリと飲み下した。
「…私、久君に振られました」
正直、僕は、小杉から別れるかも知れないと聞いた時に、そうは言っても、そんな事にはならないだろうと思っていた。
いや、タカをくくっていたんだ。
「最初は、私、彼の都合のいい女やってたんですよ?その事に嫌気が差して、もう会わないって言ったら、久君から付き合おうって…あの時、嬉しかったぁ」
「そんな風には見えなかったよ、小杉は雅美ちゃんの事、大切にしてたから」
「そうですよね…だから、私、彼と一緒になりたかったんです。きっと彼も私となら上手くやれるって、そう思ってくれるって…」
強気な彼女らしく、笑いながら話続ける。
「けど、彼は…それは、考えられないって、その気持ちが重いって言われちゃいました」
無理に笑って、その笑い声が端から乾いて行く。
ふいに、彼女は思い詰めた横顔を見せて、そして僕を真っ正面から見つめた。
「彼、新しい彼女いるみたいですよ」
雅美ちゃんが、何を言っているのか、一瞬、意味を把握できなかった。
「え…」
「私の、友達が他の店で、別の人と楽しそうにしてるの見かけたそうです」
「でも、雅美ちゃんと小杉は…」
「別れる前に、彼の家に行った時に、部屋が綺麗になってたんです…あの人、掃除が壊滅的に苦手だったのに」
この歳になるまで、深く誰かと付き合った事がない僕にも分かる。
小杉は、雅美ちゃんとは違う女性を家に入れていたんだと言う事が。
「私、最後の方は二股かけられてたのかも」
小杉が、雅美ちゃんじゃない誰かと付き合っている。
何故だかそれがショックだった。
「女にだらしないって知ってたけど、まさかこんな終わり方するなんて、思いもしなかったなぁ」
涙を見せる事のない雅美ちゃんが、余計に悲しい。
それからは、僕らは何も言葉を交わさずに、ただ飲み続けていたーー
時計の針が天辺を回る頃、僕らは店を出て、雪の止んだ歩道を、歩いていた。
吐く息が白い。
今夜は、何杯飲んでも心地いい酔いは、とうとう、最後まで訪れてはくれなかった。
「ここでイイです、ありがとう那津さん」
タクシーを拾うと言う彼女を、通りまで送って行った。
ひらりと手を上げ、タクシーに乗り込む前に彼女は振り向き、僕に、こう言ったんだ。
「私…あの人に振られた時に、那津さんのせいかと思ってた、けど違って、少しほっとしてます、だって、オトコのせいで振られたなんて、一生立ち直れないもの」
僕は、雅美ちゃんの最後に見せた、切り込む様に挑む眼を忘れる事を、きっと出来ないだろう。
彼女は、僕の気持ちに、気づいていのかも知れない。
小杉の事を、真剣に愛していたからこそ。
走り去るタクシーを見送りながら、もう二度と彼女と会う事は無いのだろうと、ふと、思った。
さよなら、夏の空の様な、鮮やかな女。
彼女は、これからも、背筋を伸ばし、髪をきりりと結い上げ、歩いて行くんだろう。
何処にも行き場のない、僕など忘れて。
僕は、二人を見ているのが本当に好きだったんだよ。
ーー小杉の『新しい彼女』は、一体どんな人なのだろう。
僕は、この先も、ずっと小杉の『飲み友達』で、いられるのかな。
そのポジションだけは、失いたくない。
浅ましいと思い、苦笑いが浮かぶ。
けど、僕の絶望的な想いは、この先も届く事はないのだ。
せめて、その場所だけは空けておいて欲しい。
そう思うと、急に、小杉の声が聞きたくなる。
少しだけ回って来た酔いの勢いに任せて、初めて、僕から小杉に連絡を入れる。
あの男は、電話に出てくれるだろうか。
コールが一回、二回…
今すぐ切ってしまいたい。
三回、四回。
今、誰と一緒にいるんだろう。
…新しい彼女とだろうか。
こんな真夜中だ、もしかして眠っているのかも知れない。
諦めて切ろうとした時だ。
『もしもし』
小杉の声がした。
「…横井だけど」
『うん』
素っ気ない、小杉の声が痛い。
衝動に駆られて、電話なんかするんじゃなかったと、一瞬、後悔した。
『…あんた今、どこ?』
「会社の近くのバーを出た所だ」
小杉の声の後ろでは、ガヤガヤと沢山の人の声が、聞こえている。
何処かの店にいるんだろう。
「すまない、こんな時間に、またー」
『今から、来れば』
「けど…」
『【グランブルー】にいるから』
そう言って、電話が、切れた。
(まるで、僕が来ない訳が無いって態度だな)
ここから行けば、店までは、車で10分もあれば着ける。
変わらない態度でいる、小杉の傍若無人さが逆に嬉しかった。
タクシーを捕まえて、夜の街を急ぐ。
雪、続いてますね、と言う運転手の言葉にもいつもより、上手く返せる。
現金なものだ、小杉と久しぶりに会うと言うだけで、心が弾んでくるんだ。