第1話 狐居村のセキワンさん
時は戻り、衣笠藩の城下より僅かに外れた小さな農村から話は始まる。
野干ヶ森と呼ばれる広大で深い深い森から少し外れにある、茅葺の屋根がポツポツ立ち並ぶ小さな農村、名を狐居村といった。
その狐居村の数ある畑の中の一つに百姓に交じって、一人風変わりな男が農作業に精を出していた。
この男、名を煤瓦壮健と言う。
年齢は二十の半ばを過ぎた頃。身分は一応侍らしく、左に一本、柄の頭に根付の鈴を結んだ打刀を差している。
格好こそ農民の仕事着とは違い、小袖に袴を履いてはいるのだが、ところどころ解れが目立ち、みすぼらしさでは彼らに引けを取らない。
髷も結っておらず、伸びっぱなしの長い髪の毛は馬の尾のように後ろに一つで束ねている。
そして、何より目を引くのが着物の袖から覗くはずの右腕だ。
彼は肩口から先の右腕を失っており、体を動かす度にそこには何も無いと知らしめるように袖がなびくのだ。
そのせいか彼の周りの者たちは彼のことを隻腕と呼んだ。
「セキワンさん、無理はせんで下さいよ」
「なに、心配御無用。そらっ!」
ソウケンは鍬を左手一本で振り上げ地面に落とした。
鍬の先端が見事に土に埋まり、それを掘り起こす。
「もう一丁……っと、っと、っとぉおおお?」
勢い良く振り上げた反動で、ソウケンは体勢を崩し、盛大に尻餅をついてしまった。
「ありゃぁ。せっかく起こした土を尻で固めちまってぇ」
同じ畑に立つ農夫の男が苦言を漏らす。
「アハハハ! まったくセキワンさんはぁ。それで本当にお侍なのかねぇ」
カラカラと笑う農夫の女房からも、若干毒気を孕んだ言葉が飛ぶ。
彼らがセキワン、隻腕と呼ぶその声色の中には少量の嘲笑が見て取れるが、ソウケンは一切それを気にする素振りはない。
「いやぁ、実に面目無い」
ソウケンは、恥ずかしそうに尻についた土を払いながら立ち上がる。
農夫の女房が言った通り、この男、身分は侍なれど、仕官先も無し、禄も無ければ、農民に交じり畑仕事で、わずかばかりの金子稼いでいた。
再び鍬を構えんとした矢先、遠くからソウケンを呼ぶ声がした。
「おーい、セキワン殿ぉお!そこは、もう良いです!! 此方を頼まれてくれないかー!?」
声をかけたのはこの村を納める名主のセッカイだ。
「セキワンさん、ここはもういいから。セッカイ様の所に行ってくだせぇ」
名主の用だ。小作人である自分達がソウケンを引き留める訳にもいかず、さらに言えば侍の面倒なんていう厄介事から逃げ出すために、彼らはソウケンを快く送り出した。
「そ、そうか? それは、かたじけない。この始末は後日させてもらおう。では、これにて御免」
彼らよりも身分の高い侍でありながら、ソウケンは丁寧に百姓夫婦に頭を下げて、その場を後にした。
ソウケンが名主であるセッカイの元へ駆けつけると、すでに用事は準備されていた。
「仕事中に申し訳ないですなぁ。セキワン殿には、いつも通りこいつをお願いしたいんですが宜しいですか……?」
そう言ってセッカイが指し示したのは、中身が空っぽの竹で編んだ背負い籠であった。ソウケンはこれを見て地主が何を頼もうとしているのかすぐに察しが付いた。
セッカイは祟りを恐れ、村人の入りたがらない野干ヶ森へ薬草を摘んでほしいと頼んでいるのだ。
「ええ。構いませんよ」
「いやぁ、実に助かります。野干の薬草は良く効くと町でも評判でしてな。薬師にもまだかまだかと薬草の納品をせっつかれてまして。あはははは」
「そうでござるか。ならば、気合を入れて取り組まんとな」
さっそくソウケンは籠を左手に背負うと森へと続く道に歩を進めた。
◇◇◇
森の奥へと続く細い細い道は、木々の緑に今にもかき消されそうなほど頼りない。
しかし、ソウケンは慣れた様子で道を進んで行く。
それもそのはず。しばらく進めば、森の裾ではあるが、ぽつんと一軒の寂れた木造の屋敷が現れる。
かつて、この野干ヶ森に魅入られた一人の僧が建てた家。
今はここにソウケンが暮らしているのだ。
ソウケンは我が家に立ち寄ることなく、さらに森の奥へと分け入っていく。
春の芽吹きを感じつつ森の中を半刻ほど歩き続けていると、木々の先の藪がガサガサと音を立てた。
「おや?」
立ち止まり、藪を見つめれば、一匹の大きな狐が姿を現した。その毛並みは収穫前の稲のように美しく尾はふわりと丸い。
「コン!!」
狐はソウケンに気がついている様子で、ぴょん、ぴょんと飛び跳ねる。
「はははは。上手上手」
狐が得意げに飛び跳ねる様子にソウケンは手を叩いて喜んだ。
しばらくソウケンは狐の遊戯に付き合っていたが、狐の方が先に飽きたのか、くるりと身をひるがえすと森の奥へと消えて行った。
「おや? もうしまいか……」
残念そうに呟くと、狐が消えた先から「ケェ……ン」と鳴き声が一つ響く。
「ははは。案内してくれるのか? それとも私を化かすつもりか?」
そう言いつつも、ソウケンは狐の鳴き声のする方へと歩き出した。
姿は見えないものの、時折、狐は道を案内するように鳴いた。
いつもであれば、ここまで深く森の中へと入ることは無い。
未だ踏み入れたことのない森を進み続けると、いつしか狐の鳴き声はどこかへと消えてしまっていた。
「これは、悪戯狐に遊ばれてしまったかな?」
呑気に一人ごちる。それでも来た道を引き返すことなく、さらに草木を掻き分け奥へ奥へと入って行った。
すると突如森が開け、滾々《こんこん》と清水の湧く泉のほとりへと出た。
「おお、これはこれは……」
泉の周りには、お目当ての薬草が群生しているではないか。
ソウケンは、森の奥に向かって左手だけで手を合わせる。
「疑ってすまなんだ。お前は稲荷神の使いだったのかな?」
目を閉じ、狐に礼を言うと、さっそく背負った籠を地面に下し、薬草の前にしゃがみ込む。
「……さて、と」
なるべく若い葉は残すように意識して薬草となる葉を一枚一枚不器用な手際で茎から千切って採っていく。
半刻ほど黙々と作業を続ければ籠の中が薬草の葉でいっぱいになった。
「やれやれ、こんなものか?」
慣れないしゃがみ仕事で腰が痛むらしく、立ち上がると背中を大きく反らした。
一息つくため竹筒で出来た水筒を手に取るが中身は空になっており、ソウケンは泉まで歩くと、そのまま手で水を掬い口に含む。
「うむ。うまい」
帰りのために水筒に水をいっぱい入れ、籠に入った青々とした薬草を満足げに眺める。
その時だ。
近くの藪がガサリと揺れた。ソウケンは再び狐がやってきたのかと、相好を崩し、葉が揺れる藪を見つめた。
しかし、そこから現れたのはソウケンの想像した者ではなかった。




