平等くじ―「おめでとうございます。あなたの幸福は、親友の口座に振り込まれました」
朝のニュースは、明るい音楽と笑顔で始まった。
画面の中でアナウンサーが、満面の笑みで言う。
「新制度『平等くじ』の開始から、ちょうど一カ月になりました。不公平のない社会を目指す、画期的な取り組みです」
テロップには、色とりどりの玉が弾むようなアニメーション。
その下に、小さく注意書きが出ていた。
〈※『平等くじ』は、成功・当選・昇進などの“運”を社会全体で再分配する制度です〉
相川慎也は、トーストをかじりながら、ぼんやりその画面を眺めていた。
パンの焦げ目は最近買ったばかりの高級トースターのおかげで、いつも同じきれいな色だ。
ワイシャツは真新しい。今日は昇進後、初めての部長同行の日だった。
ニュースは、スタジオから街頭インタビューに切り替わる。
「いやあ、助かってますよ。僕が起業に成功した運のおかげで、どこかの誰かの“棚ぼた”は減ったかもしれませんが、みんな平等ってことですよね」
「宝くじが当たった友人がいるんですが、本人は“申し訳ない”って言ってました。どこかで誰かが不幸になってるかもしれないって。でも、制度なんだから仕方ないですよね」
笑顔で語る人たちの背後に、「公平な社会へ」というスローガンのポスターが貼られている。
赤い字で、小さく「運の偏在を防ぎます」とも書いてあった。
慎也は、チャンネルを変えた。
別の番組でも、同じ制度の話をしている。
解説役の教授が、真面目な顔で説明していた。
「従来の社会では、努力ではどうにもならない“運”の偏りが大きな格差を生んでいました。平等くじは、その“運の分配”だけを対象とする制度です。才能や努力は本人のものですが、たまたまの幸運だけは、社会全体でバランスを取る、という思想ですね」
「でも先生、例えば宝くじが当たった人の代わりに、どこかの誰かに不幸が起きるってことですよね?」
「そういう場合もあります。しかし、それは元々誰かに起きるはずだった“偶然”を、少し移し替えているだけです。プラスとマイナスをトータルでゼロに近づけ、過度な格差を抑える。それが制度の目的です」
スタジオがうなずき、拍手が流れた。
慎也は、リモコンをテーブルに置いた。
「……よくわからないな」
小さくつぶやいて、立ち上がる。
時間を見ると、出勤の少し前。
歯を磨いて、スーツに袖を通し、玄関に向かった。
その日までは、ごく普通の朝だった。
昇進したばかりの二十九歳のサラリーマンの、少しだけ運が良い、何の変哲もない一日になるはずだった。
◇
昼前、トラックターミナルの見学を終えた帰り道。
慎也は、部長と一緒に高速道路を走っていた。
会社の営業車の助手席で、次の訪問先の資料をめくる。
「相川、うちの部署で最年少係長ってのは大したもんだぞ」
ハンドルを握る部長が、気分良さそうに笑う。
「いえ、たまたまタイミングが良かっただけです」
「たまたまをつかむのも実力さ。まあ、最近は“運”まで国が調整する時代だけどな」
「平等くじ、ですか」
「そう。俺も給料明細に“運ポイント”の欄が付いたときは笑ったよ。昇進やボーナスの“運の部分”は、毎月自動で精算されるらしい。本人は変わらんが、どこかで誰かの“棚ぼた”が減らされるそうだ」
「……それ、喜んでいいのか微妙ですよね」
「世の中、微妙なことだらけだ」
部長が肩をすくめた、その瞬間だった。
耳をつんざくような金属音。
前方上空で、黒い影がひしゃげる。
高速道路の上にかかる工事用のクレーンが、大きく傾いでいた。
慎也が目を見開く間に、クレーンの先端にぶら下がっていた鉄骨が、ゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって落ちてくる。
「危ない!」
部長がハンドルを切る。
タイヤが悲鳴を上げ、景色が横に流れた。
だが、間に合わなかった。
鉄骨がフロントガラスを粉々に砕き、車体を押しつぶす。
世界がひっくり返り、シートベルトが胸に食い込む感覚と、何かが折れる鈍い音。
視界が白くはじけ、すべてが遠のいていった。
◇
目を覚ましたとき、天井は白かった。
消毒液の匂い。
機械の規則正しい電子音。
「……病院、か」
かすれた声を出すと、カーテンの向こうから看護師が顔を出した。
「あ、意識戻りましたね。気分はどうですか?」
「頭が痛いです……部長は?」
看護師の目が、わずかに揺れた。
その揺れ方で、慎也は答えを理解してしまう。
事故の説明は、簡単だった。
工事現場のミスでクレーンが倒れ、鉄骨が高速道路の上に落下した。
部長は即死。
慎也は、奇跡的に命だけは助かったが、右脚は膝から下を失った。
「命が助かっただけでも、運が良かったですよ」
医者はそう言った。
保険もおりるし、義足で歩けるようになる、と。
しかし数日後、保険会社から届いた通知には、別のことが書いてあった。
〈本事故は『社会的運再分配制度(平等くじ)』の対象事案と認定されました。当社の保険金支払いは、同制度との重複を避けるため大幅に減額されます〉
退院後、会社からは解雇通知が来た。
「業務上の再配置が困難」「人員整理」と、よくある言葉が並んでいたが、最後の一文だけが妙に目に刺さった。
〈なお、当社は平等くじに全面協力しており、当該制度に基づく“運の再分配”により、社内昇進・退職金規定を一部変更しております〉
家賃の支払いが滞っているという通知も届いた。
貯金は、長く入院したせいでほとんど消えていた。
婚約者からは、「ごめんなさい」という短いメッセージだけが来て、それきりだった。
数週間のうちに、慎也は、仕事も、家も、将来の予定も、ほとんどすべてを失った。
そして、通知の端に、小さく見慣れない文字があるのに気づいた。
〈本件に関する詳細は、市役所・幸福再分配課「平等くじ窓口」にお問い合わせください〉
そこに、電話番号とURLが書いてあった。
◇
市役所の新館の一階。
エレベーターを降りると、「幸福再分配課」という案内板が目に入った。
白いカウンター、番号札。
区役所の雰囲気は同じでも、窓口の名前だけが妙に軽い。
番号札を引き、プラスチックの椅子に腰を下ろす。
義足の付け根がむずかゆい。
周囲を見ると、年配の夫婦や、スーツ姿の男たち、学生らしき若者まで、いろいろな人が座っていた。
みな一様に、疲れた顔をしている。
電光掲示板に番号が表示される。
「二十四番の方、三番窓口へどうぞ」
呼ばれて立ち上がる。
杖をつきながら歩き、カウンターにたどり着くと、三番窓口のプレートの下に、小さな札がかかっていた。
〈担当 佐伯〉
丸眼鏡をかけた女性職員が、にこりともせずに言う。
「はい、本日はどういったご用件でしょうか」
慎也は、持ってきた封筒を差し出した。
保険会社からの通知、会社からの解雇通知、家賃滞納の督促。
どれも端に「平等くじ」の印が押されている。
「事故で全部失いました。命の他は、本当に全部です。
通知には、ここに聞けと……これは、平等くじのせいなんですか」
佐伯は、書類を一通り目で追い、端末に何かを打ち込んだ。
「相川慎也さん、ですね」
「はい」
「生年月日……はい、確認できました。少々お待ちください」
彼女は、無表情のまま画面を眺めた。
指先が、キーボードの上を静かに動く。
「……こちらです」
くるりと画面をこちらに向ける。
そこには、見慣れない項目が並んでいた。
〈幸福残高:マイナス23,840〉
〈総取得運ポイント:29,400〉
〈総供出運ポイント:53,240〉
数字の意味はよくわからない。
ただ、赤字で表示されているマイナスの値だけは、嫌でも目に入った。
「これは、何ですか」
「平等くじにおける、相川様の“運の残高”です。
これまでの人生で、偶然の幸運として取得されたポイントがこちら。
今回の事故や、その後の解雇・婚約解消などの不運が、供出分になります」
「待ってください。
じゃあ、俺が部長に気に入られて昇進したのも、恋人と出会えたのも、全部この“取得運”ってやつなんですか」
「恋愛は制度対象外ですが、昇進に関する“偶然の要素”については対象になります。上司との相性やタイミングなどですね。
平等くじは、そうした“偶然の偏り”だけを帳尻合わせする制度です」
「帳尻合わせって……じゃあ、今回の事故も?」
「はい。部長様が亡くなられたことは、制度とは無関係です。あくまで、相川様個人に対して、これまで蓄積された幸運分を精算する必要が生じた結果として、複数の不運がまとめて発生しました」
「まとめて、って……そんな都合よく、事故と解雇と別れ話が一度に起きるわけないでしょう」
「自然な形で発生するよう、調整されています。
元々、解雇の可能性があり、婚約者様が不満を抱いておられた、という下地はあったはずです」
淡々と言われて、口をつぐむしかなかった。
思い当たることは、ないわけではない。
終電続きの生活で、婚約者とのすれ違いは深まっていた。
会社も、景気が良いとは言えなかった。
しかし、それでも。
「それで……俺の幸運は、どこへ行ったんですか」
しばらく沈黙したのち、ようやく絞り出した言葉に、佐伯はすぐ答えた。
「他の方に、配分されました」
「他の……誰ですか」
「お教えできます」
意外なほどあっさりと、佐伯はそう言った。
画面をスクロールし、別の項目を開く。
〈運の受給者:村田悠斗〉
その名前を見た瞬間、慎也の呼吸が一瞬止まった。
「……村田、悠斗?」
「はい。相川様と同年齢、同市内在住。システム的には、マッチング条件が多く、親密度などの指標からも優先度が高かったため、主要受給者と認定されました」
「ちょ、ちょっと待ってください。
村田って、俺の……」
「親友の方ですね」
佐伯は、少しだけ表情を動かした。
驚きでも同情でもなく、単に「情報が一致した」と確認した程度の動き。
「制度上、完全な匿名化も可能ですが、“親しい誰かの幸福に貢献したい”という国民感情を考慮し、ある程度の関連性を優先する設計になっています。
お喜びください。相川様の幸福は、親友の方の成功へと形を変えて生かされています」
お喜びください。
よく冷えた刃物みたいな言葉だ、と慎也は思った。
「……どんな、成功ですか」
「村田悠斗様。数週間前に、起業資金の調達に成功されています。
平等くじにより、投資家との偶然の出会いや、契約機会が優先的に割り当てられました。
また、相川様の事故と同日の午後、村田様は高速道路での渋滞を“偶然”避け、別ルートを選択されています」
「……もし、その渋滞に巻き込まれていたら?」
「大変な事故に遭われていたでしょうね」
佐伯は、書類を整えながら続ける。
「結果として、村田様は無事で、会社設立の準備も順調。
相川様は……残念ながら、不運を一時的に多く負担していただいた形です」
「一時的」
「はい。平等くじは、長期的に見れば全員の平均値を揃えます。
この先、相川様が何らかの幸運を得ることもあるでしょう」
「また、誰かから奪って?」
「“徴収”という言葉をお使いになりましたが、制度上は“再配分”です」
慎也は、手すりを強く握った。
義足と床の間に、きしむような感覚が走る。
「納得……できると思いますか、こんな説明で」
「納得していただく義務は、当課にはございません。
制度は、国民投票と議会承認により決定済みです。
ご不満がある場合は、しかるべき手続きにより意見を表明することは可能ですが、運の再分配結果が変更されることはありません」
淡々とした口調。
言葉の隙間には、何もない。
「せめて……せめて、本人に伝えてください。
村田に。俺の運で助かったんだって」
「制度上、当課から個別の感情的な連絡を行う権限はありません。
ご本人同士でのコミュニケーションは、自由です」
つまり、「勝手にやれ」ということだった。
「最後に一つだけ。
相川様は、過去に“平等くじへの同意”にチェックを入れておられます」
「そんな覚えは」
「就活サイト、クレジットカード申込、各種アプリの利用規約。
“運の再分配制度に関する情報提供に同意します”という項目です。
細かい点は、確認されなかったのでは」
思い出そうとして、思い出せなかった。
スクロールすることに慣れすぎた指が、過去に何百もの規約を素通りしてきたのを、今さら悔やんでも遅い。
「……もう、いいです」
慎也は、番号札を握りしめたまま、窓口を離れた。
カウンターの上に置き去りにしようしたが、佐伯が静かに言った。
「番号札は、お持ち帰りください。またのご利用があるかもしれませんので」
またのご利用。
誰が好き好んで、ここに二度も来るものか。
◇
数日後。
駅前の大型ビジョンに、見慣れた顔が映っていた。
「次世代配送プラットフォームを手がけるスタートアップ、ミライロジスティクス。代表の村田悠斗さんです」
キャスターが笑顔で振り向く。
そこに立っているのは、高校時代からの親友だった。
部活もクラスも一緒で、就活のときに何度も愚痴を言い合った相手。
「いやあ、運が良かっただけですよ」
村田は、照れくさそうに笑っていた。
スーツは慎也よりずっと高そうだ。
画面の下には、「平等くじが生んだ新たな起業家」という文字。
インタビューの最後に、キャスターが質問する。
「平等くじについて、不安や抵抗はありませんでしたか?」
「最初はありました。でも、誰かの不運のおかげで自分が助かってるんだとしたら、その分、社会に還元すればいいと思っています」
立派なことを言いながら、その声色は昔のままだった。
一緒にコンビニのくじを引いて、当たりを取り合ったときと同じ。
画面が変わる。
慎也は、スマホを取り出した。
少しだけ迷ってから、メッセージアプリを開く。
最後にやり取りしたのは、数カ月前。
「今度飲もう」という話のまま、流れていた。
指が震えながら、「久しぶり」と打ち込む。
送信ボタンを押したあと、すぐに既読がついた。
数秒後。
「おー! 生きてたか! ニュース見た? 実はさ……」
村田からの返信は、短文の連続だった。
起業のこと、テレビ出演のこと、資金調達がうまくいったこと。
文章の端々に、興奮がにじんでいる。
しばらくして、慎也はようやく「話したいことがある」と送った。
「いいね。今、ちょうど事務所にいる。来れる?」
足元を見る。
義足で長い距離を歩くのはしんどいが、行けない距離ではない。
「行く」
そう返信して、慎也は立ち上がった。
◇
村田の事務所は、駅から少し歩いた雑居ビルの四階にあった。
エレベーターを降りると、ドアに貼られた会社名のプレートが目に入る。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「よう」
村田が、笑顔で立っていた。
昔と同じ、少し眠そうな目。
ただ、その目の奥にある光だけが、見慣れないものだった。
「久しぶり」
慎也が言うと、村田は目を丸くした。
「おまえ……脚」
「事故で、ちょっとね」
「ニュースで見たやつか。
悪い、俺、あとから知って……連絡しようと思ってたんだけど、バタバタしてて」
言い訳めいた言葉。
責める気力もなかった。
「中、いい?」
「ああ、もちろん」
事務所の中は、予想以上に狭かった。
机が二つと、パソコン。
ホワイトボードには、何かのフロー図。
「まだ社員は俺だけ。
でも、資金はそこそこ集まったから、これからだよ」
村田は、嬉しそうに笑った。
「で、話って?」
慎也は、深く息を吸った。
役所で見た画面。
あの数字。
村田の名前。
「……平等くじのこと、知ってるよな」
「そりゃあ、今の時代、知らない方が無理だろ」
「お前さ、投資家との出会いとか、渋滞を避けたこととか……そういう“運”が、誰かの不運から来てるって、どこまでわかってる?」
村田は、一瞬だけ顔を固くした。
「……なんだよ、それ」
「市役所に行った。
俺の“運の受給者”として、お前の名前が出てきた」
静かな時間が流れた。
外の車の音が、やけに大きく聞こえる。
「……マジで?」
「画面に出てた。
俺の昇進とか、部長に気に入られたのとか、いくつかの偶然の積み重ねで得た“運ポイント”がさ。
今回の事故と、その後の不運でまとめて“徴収”された。
で、その分の幸運が、お前に配分されたって」
村田は、椅子に腰を下ろした。
指先が、机をとんとんと叩く。
「……それって、つまり。
お前の不幸で、俺が助かったってことか」
「そういうことになる」
二人の間にあるのは、学生時代からの時間だけではなかった。
数字になった運のやり取り。
見えない棒グラフ。
村田は、しばらく黙っていた。
やがて、苦笑いのようなものを浮かべる。
「変な話だよな。
でもさ、制度ができる前だって、そういうことは起きてたんじゃないのか?」
「どういう意味だ」
「例えば、お前が試験でちょっと運よく解けた問題。
そのせいで、誰かがギリギリで落ちたかもしれない。
お前が終電に間に合った日に、誰かは乗り遅れて、事故にあったかもしれない。
ただ、それが今は“見える化”されてるだけだろ」
「見える化、ね」
「気持ち悪いのはわかるよ。
でもさ、俺だって怖いんだよ。
この成功が、どこまで俺の実力で、どこからが“誰かの不幸”なのか。
考え始めたら、何もできなくなる」
「だから、考えないようにしてるのか」
「考えたよ。
でもさ、制度に文句言っても仕方ないだろ。
だったら、もらった分だけ、何か返そうって思った。
雇用作って、税金払って、寄付だってするつもりだ」
正論だった。
聞き飽きた理屈でもある。
「じゃあ、俺は何を返せばいい?
脚を? 仕事を? 婚約者を?
それとも、“納得”か?」
声が自然と少し荒くなる。
村田は、目を閉じた。
「……ごめん」
それは、友人としての謝罪だったのか。
制度の受益者としての義務的な言葉だったのか。
慎也には、判別できなかった。
「謝られても、困るよ」
「そうだよな」
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、村田がぽつりと言う。
「一つ、提案がある」
「提案?」
「うちの会社で、働かないか」
意外な言葉だった。
「お前、物流の現場で長くやってきたじゃないか。
現場の感覚わかる人間、うちにはいない。
脚のことだって、リモート中心の仕事を作ればいい。
給料は高くはないけど……何もしないよりマシだろ」
村田の目は、真剣だった。
同情だけではない、計算も混じっている目。
「お前が俺の“運”を受け取ったのが事実なら、その運を使って俺を雇うのも、筋が通るんじゃないかって。
……都合いい考えかもしれないけどさ」
慎也は、何も言えなかった。
ありがたさと、悔しさと、情けなさ。
いろんな感情がごちゃまぜになって、喉に詰まっている。
やがて、かろうじて出てきた言葉は、ひどく小さかった。
「少し……考えさせてくれ」
「もちろん」
帰り際、村田はエレベーター前まで送ってきた。
「また連絡する」
「うん。
……なあ、慎也」
「何だ」
「もし、立場が逆だったら。
お前、どうしてたと思う?」
答えられなかった。
その沈黙が、何よりも答えに近い気がして。
◇
数日後、再び市役所に行った。
目的は、意見書の提出だった。
窓口で、佐伯が淡々と書類を受け取る。
「平等くじ制度に対する、運用停止の要望書ですね。
こちらでお預かりし、所轄部署に回付いたします」
「本当に、意味があるんですか、こういうの」
「統計上の“国民満足度”には反映されます」
それは、意味があると言えるのか。
「……一つ、質問があります」
「どうぞ」
「もし、俺が今後また何か幸運を得た場合、今度は誰かが俺のために不幸になるんですよね」
「制度上は、その可能性があります」
「じゃあ、俺はもう何も当たりたくない」
「お客様のご希望を、システムに完全に反映することはできません。ただ、“運の取得を辞退する意思を表明した”という記録を残すことは可能です」
「それ、やってください」
佐伯は、端末に何かを入力する。
〈運取得辞退フラグ:オン〉
「これで、相川様は今後、“幸運への優先度”が下がります」
「それでいいです」
誰かの不幸の上に立つくらいなら、何もいらない。
そんな、ささやかな抵抗。
窓口を離れようとしたとき、佐伯がふと口を開いた。
「……統計的な話をしてもよろしいでしょうか」
足を止める。
「平等くじ導入後、“自発的運辞退者”の多くは、その後も平均的な生活を送っています。
ただ、“自分の不幸が誰かの幸福を支えている”という意識が強くなり、精神的な負担が増える傾向があります」
「皮肉ですね」
「ええ。
けれど、制度としては“平等”です。
誰かが辞退してもしなくても、全体の平均値は同じところに収束します」
「……俺が何をしても、結局変わらないってことですか」
「そうですね」
あまりにもあっさりとした肯定だった。
「それでも、人は何かを選ばずにはいられません。
制度外のところで、自分の“物語”を作ろうとします」
「物語?」
「はい。
“あのときこうしていれば”“これを選んだ自分は間違っていない”といった、個人の納得のための物語です。
平等くじは、その物語とは無関係に作動します。
ですから、安心してご自分の物語を紡いでいただければと」
「安心、ね」
どこにも安心材料は見当たらなかった。
◇
しばらくして、村田から再びメッセージが来た。
「この前の件、どうする? いつまでも待たせるのも悪いからさ」
慎也は、しばらく画面を見つめていた。
そして、「ごめん、やめておく」とだけ打ち込んだ。
「そっか。
……わかった。お前がそう決めたなら、応援する」
応援。
何を応援されるのか、わからなかった。
その夜、ニュースでまた平等くじの話をしていた。
成功例として、村田の会社が紹介される。
画面の隅に、小さく「運の供出元:複数名」とだけ表示されていた。
◇
数カ月が過ぎた。
慎也は、福祉系の職業訓練を受けていた。
義足の扱いにも慣れ、介護施設での実習が始まる。
収入は少ないが、どんな仕事であれ、誰かの生活に直接関わるものの方が、少なくとも“運の再分配”よりは実感があった。
ある日、訓練センターで休憩しているとき、スマホが震えた。
画面には、役所からの通知アプリのアイコン。
〈平等くじ 結果のお知らせ〉
心臓がどくんと鳴る。
開封する指が、ほんの少し震えた。
〈おめでとうございます。
あなたは今回の平等くじにより、“不幸の受給”から除外されました〉
奇妙な文面だった。
〈理由:主要供出者の死亡に伴う運ポイントの再評価〉
続いて表示された名前を見て、息が止まりそうになった。
〈主要供出者:村田悠斗〉
画面をスクロールする。
〈村田悠斗様は、本日未明、高速道路での多重事故に巻き込まれ、死亡されました〉
あの日、彼が避けたはずの場所。
今度は、そこから逃げられなかったということか。
〈当該事故は、平等くじ制度における“運の収束”によるものと推定されます。
これにより、過去に村田様が取得された運ポイントの一部は無効化され、供出元であった相川様の“運残高”が再評価されました〉
数字が表示される。
〈幸福残高:0〉
ゼロ。
プラスでも、マイナスでもない。
真ん中。
何もない場所。
最後の一文が、とどめのように表示される。
〈これにより、相川様は今後、平等くじにおける“特別な不幸の割り当て”から除外されます。
平等な人生を、お楽しみください〉
スマホを握る手が、汗ばんでいた。
楽しめる要素は、どこにもない。
村田の死を悼む暇もないほど、通知文は事務的だった。
悲しみも、怒りも、何もかも、文字の隙間に置き去りにされている。
数時間後、ニュースが速報を流した。
高速道路の多重事故。
死亡者の中に、若手起業家の名前がある、と。
インタビュー映像が流れる。
「運が良かっただけですよ」と笑っていた、あの日の村田。
テロップには、「平等くじが生んだ成功者の悲劇」とあった。
◇
数日後、慎也は、また市役所を訪れた。
三番窓口。
そこには、相変わらず佐伯がいた。
「またお会いしましたね」
「ええ」
「本日はどういったご用件で」
慎也は、スマホの画面を見せた。
平等くじアプリの通知画面。
「これの、意味を確認しに来ました」
佐伯は、一瞥すると、端末を操作した。
「相川慎也様。
運残高、確かにゼロになっていますね。
今後、特定の誰かの成功や失敗のために、大きく運を取られることはありません」
「じゃあ、普通に、不幸になったり、幸せになったりするってことですか」
「はい。
一般的な、平均的な範囲で」
それは、慰めにはならなかった。
「村田の……死は」
「制度上、説明可能な範囲にあります。
過去に過剰に取得された運を、どこかで精算する必要があった、と」
「俺の運を使ったから、そのツケが来たんですか」
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」
佐伯は、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「平等くじは、すべての偶然を完全に支配しているわけではありません。
ただ、統計的に“そうなりやすい方向”へ、世界を少しだけ傾けているだけです」
「だったら、やめればいいのに」
「制度の是非を判断するのは、私どもの役目ではありません」
いつもの決まり文句。
「……一つだけ、確認させてください」
「どうぞ」
「俺が、将来何かで成功したとき。
それが誰かの不幸の上に成り立ってないって、言い切れますか」
「言い切れません」
はっきりとした否定。
「平等くじがあろうとなかろうと、世界のどこかで誰かが失敗し、誰かが成功します。
制度は、それを少しだけ“計算可能”にしたに過ぎません」
慎也は、静かに息を吐いた。
「……だったら、俺は、もう何も“おめでとう”って言えませんね」
「それでも、人は言いますよ」
佐伯は、意外な言葉を返した。
「おめでとう、と。
ご愁傷様です、と。
おかげさまで、と。
それらは、制度とは関係ない、人間同士のやり取りですから」
「あなたは、誰かに“おめでとう”って言えますか」
「業務中は控えています」
「業務外なら?」
「……なるべく、言うようにしています」
珍しく、佐伯の表情がほんの少しだけ緩んだ。
「こういう仕事をしていると、世界中の運が数字に見えてきます。
誰かの昇進の裏に、誰かの左遷。
誰かの当選の裏に、誰かの落選。
すべては、プラスマイナスゼロに近づいていく。
だからこそ、せめて言葉だけは、計算から外しておきたいのかもしれません」
それは、彼女なりの“物語”なのだろう。
慎也は、窓口から離れかけて、ふと振り返った。
「村田の成功が、俺の不幸のおかげだったこと。
その不幸の精算が、村田の死として戻ってきたこと。
それでも、この世界は“平等”なんですか」
佐伯は、いつもの無表情に戻っていた。
「制度上は、はい。
これで、また少し、社会は平等に近づきました」
その言葉は、あまりにもよく整った台詞だった。
どこかのパンフレットか、FAQから切り取ってきたような。
慎也は、笑うことも泣くこともできず、その場を後にした。
◇
ビルを出ると、空はどんよりと曇っていた。
雨になりそうな気配。
通りの向こう側では、臨時の平等くじ広報車が止まっていた。
若いスタッフがマイクを持ち、通行人にパンフレットを配っている。
「皆さんの“運”を公平に!
平等くじで、不公平ゼロの社会へ!」
その横を、親子連れが通り過ぎる。
子どもが、無邪気に問いかけた。
「ねえママ、平等って、なに?」
「みんな同じ、ってことよ」
母親は、何の疑いもなくそう答える。
子どもは、ふうんと頷いた。
同じ。
ゼロに揃えることが、平等。
慎也は、義足を前に出した。
ひどく普通の一歩。
どこにでもある一歩。
何かを得れば、どこかで誰かが失う。
何かを失えば、どこかで誰かが得る。
そのどちらにも、名前がつくことはほとんどない。
たまたま、今回は名前が見えてしまっただけだ。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面には、新しい通知。
〈友人の命日に、お花を贈りませんか?
“供花くじ”で、あなたのささやかな善意を、誰かに分配します〉
慎也は、通知を無言で削除した。
花も、善意も、運も。
分配され、再配分され、平均値に近づいていく。
それでも、人は誰かに花を贈り、運の良し悪しを語り、泣いたり笑ったりする。
平等くじの画面には映らない場所で。
空から、ぽつり、と冷たいものが落ちてきた。
慎也は、顔を上げた。
曇った空は、どこまでも均一で、どこにも当たりもハズレもなさそうだった。
それでも、雨に打たれて風邪をひく人もいれば、恵みの雨だと喜ぶ人もいるのだろう。
世界は、今日もきっと、平等だ。
誰かの不幸と、誰かの幸福を足して、割り切れる程度には。




