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第1話 勇者って、誰のこと?



 ここは、開闢から十数年が経ったばかりの世界。

そんな世界を初代魔王として眷属であるディダイア家のディレイドとティア、ダルクの三人と共に統治しているゼネーバ・ゼレイド。

彼は眷属の魔力を自ら得たが故か、かつて青い瞳が輝いていた両目は深紅に、いや穢らわしい赤に変わってしまった。

されど決して、彼は暴君などではなかった。

王都ツーアルブルクの夜は、紫の灯に縁取られながら静かに沈んでいた。尖塔がいくつも空を刺し、その中心でひときわ高い城が、夜をやさしく照らしている。玉座の間には、磨かれた黒石の床に灯火が揺れて、壁の紋章がゆっくりと呼吸しているように見えた。

玉座にいる魔王ゼネーバ。漆黒の髪は毛先にかけて紫の光を帯び、片手のワイングラスに映る灯が同じ色を深く震わせた。彼の横顔は鋭いのに、どこか余裕がある。笑えば人を安心させる類の、それでいて油断のない笑みが似合っていた。


「やぁ、ティア。なんだ?時は来たか?」


 玉座の段差の下に、白い外套を羽織った少女が立っていた。十七の年頃。細く整った輪郭に、赤く燃えるような両眼がこちらを見ている。預言者ティア・ディダイアの邪眼は光を溜め、放ち、その色は燭台の炎よりも冷たかった。


「えぇ、来ましたとも。名を告げて差し上げましょう」


 空気が縮み、天蓋の布が内側からふくらんだ。静電した光が少しだけきらめく。ティアの赤い双眸は、言葉の重さと同じ深さで、王へと向いた。


「私はかつて預言しました。この世界を救済する勇者が我がゼレイド王族を根絶やしにすると。その者の名はリーユ。辺境の村、リトルノヴァに生まれし十五の少年です。ここ、王都を囲い込む七つの国を巡り、遠くない未来には...王都に至るでしょう」


 広間に沈黙が起きた。近衛が視線で短く言葉を交わす。ゼネーバはグラスを軽く回し、紫の液面を傾けながら、やわらかな声でつぶやいた。


「リーユ。耳に馴染まない名だな。……不思議と、よく熟れた葡萄の香りがする」


「魔王様、少年をワインに喩えるのはおやめください」


「喩えはともかく、名は覚えやすい方が良い。王都の掲示に刻め。筆は読みやすい書き手に任せろ。間違えられて別の者が出てきても困る」


「承知しました」


 ゼネーバは玉座にもたれる姿勢を少し正し、赤い瞳の少女を見た。ティアの眼差しは年齢を置き去りにした静けさを湛えている。声は若く、言の葉だけが年を重ねていた。


「それで、他にわかることはあるか。そいつの背丈、髪の色、どれくらい頑丈か」


「ありません」


「趣味は。嫌いな食べ物は」


「ありません」


「……神託というものは、要点だけを最小限に伝えるのが好きらしい」


 近衛の一人が小さく肩を震わせた。ゼネーバは目元で笑い、グラスを一口。


「まあいい。名が告げられたなら、賽は投げられた。七国の関所へ通達を回せ。勇者と名乗る者が来たら月の国ルナからのみ王都にたどり着けると伝えよ」


「心得ました」


「それと、街道の段差を整えろ。転ぶ者は多い。……勇者が最初に転んでも格好がつかん」


 ティアの邪眼がかすかに明滅した。少女の声は抑えられたまま、それでも胸の奥へ届くように響いた。


「魔王様。滅ぶ身でありながらどうしてそんなに平常心を保てているのですか?必ず彼は来ます」


「来るなら歓迎しよう。大体の良政は道に宿る。道がまっすぐなら、人の心も正直になる」


 ゼネーバはグラスを置き、掌を開いて空気を撫でた。玉座の間にまた静けさが戻る。夜は深いが、どこか朝の匂いも混じっていた。遠いどこかで、細い鐘が鳴った気がする。


 ──これが君の一歩目になるのかな?

二歩目はどうなるのか、楽しませてもらおうかな。




 朝の光が、村の屋根にやわらかく降りていた。牛の鳴く声が遠くで応え、畑の麦が揃って小さく身じろぎする。土の匂いと、焼きたてのパンの香りが、重ならないで順番に鼻をくすぐった。ここはリトルノヴァ。七国に属さず、日の国のさらに南端に、掠れないように細く記されるほどの小さな村だ。


「リーユ! 早く起きなさい! パンが焦げる!」


 戸口から母の声。土間に置いた鍋から白い煙が立ちのぼり、パンが少しだけ焦げ目を深くしている。布団から飛び出した少年が、髪をぼさぼさのまま庭へ駆けた。片足だけ靴を履き、もう片方の足は素足のまま、やや空回りしながらも勢いは止まらない。


「わ、わかってる! 今日は大事な日なんだろ!」


「昨日も“雑草を抜く大事な日”だったでしょ」


「それはそれだ!」


 庭を横切る途中、鶏が道を横切り、リーユは軽くつまづいた。地面に手をついて起き上がる。鶏は首をひねり、彼をじっと見て、それからゆっくりと歩いていった。逃げないのがこの村の鶏の礼儀らしい。


 広場は人でいっぱいだった。掲示板には王都からの布告の写し。筆勢の良い文字で「勇者リーユ」と書かれている。村人は誰もがそれを見上げ、誰もが誰かの顔色をうかがっていた。賑わいの真ん中に、長老が杖を鳴らして現れる。背筋は伸びて、衣は清潔。額に刻まれた皺は多いが、目の奥の光はまだ子どものように好奇心に満ちていた。


「静まれい!」


 声に合わせて杖を地に打つ。杖の先から飴玉が転がり出た。長老は少しだけ間を置き、拾い上げ、咳払いをひとつ。


「これは声帯の友だ。気にするな」


 笑いがやわらかく広がる。リーユは、人垣の端で息を整え、意を決して前に出た。誰かの視線が背中に刺さり、誰かの期待が頬に触れる。喉が少し乾いている。


「えっと……その、本当に俺なんですか? 勇者って」


「お前だ、リーユ」


長老は頷いた。


「王都の預言者が受けた神託だ。名まで告げられた。これより七つの国を巡り、王都に至れ。道は決してまっすぐではないが、まっすぐ歩けば曲がるべきときがわかる」


「待ってくれ! 俺、剣の振り方すら知らないんだぞ!」


「鍬は振れるだろう」


「鍬で魔物は倒せないよ!?」


「畑の石なら割れる」


「石と魔物は違う!」


「そうか...なら難しいな」


 周りから笑いが起こった。村人は一斉に動き出し、誰もが何かを持って来ては、彼の手や背に押しつける。


「剣だ。うちの畑の支柱だが、真っ直ぐで縁起が良い」

「畑の支柱?」

「盾だ。鍋のふた。丈夫で、洗いやすい」

「鍋のふた....」

「鎧だ。去年の冬の上着。厚くて暖かい。夏は暑い」

「上着.....?」

「旅の糧だ。お弁当。おにぎり、卵焼き、漬物、干した魚。非常時には、この石を投げなさい」

「石?」

「石は役に立つ」

「根拠薄いな!なんか深いし!」


 木の棒は手に馴染み、鍋のふたは意外に平らだった。冬服は確かに汗を呼ぶ。リーユは、これが自分にできるだけの装備だと悟る。誰かが笑っている。誰かが心配している。笑いと心配が同じ顔の中で交互に点る。

 子どもたちが足元に集まり、小さな手で彼の裾を引っ張った。目がきらきらしている。


「勇者様、スライムってどうやって倒すの?」


「斬る、らしい」


「そうなんだ!」

「じゃぁさ、じゃぁさ! 宿題ってどうやって倒すの?」


「それは知らない! いや俺も知りたい」


 笑い声がもう一度広がった。長老が壇の上に上がり、杖を胸の前で縦に構える。その仕草は儀式めいているのに、どこか間が抜けている。


「リーユ。旅に出れば転ぶこともある。石は道に必ずあるし、靴は時々裏切る」


 リーユは緊張して背筋を伸ばした。広場は一瞬で静まる。母が人垣の向こうでそっと手を握り、猫がどこからか現れて、壇の端で丸くなる。


「だが──」


 長老は杖を軽く掲げ、声を少しだけ張った。


「転ぶなら、もっと格好よく転べ」


 誰かが吹き出し、誰かが笑いを堪えきれず、やがて広場は大きな笑いに包まれた。母は半分呆れ顔で、半分涙をこらえている。リーユは眉をひそめたまま、しかし口元だけが笑っていた。


「かっこよく転べってったって、どこで格好をつければいいんだ」


「受け身だ。背中を丸める。顎を引く。痛い顔をしない」


「全部難しい」


「練習すればいい」


「練習で転び続けるのは嫌だ」


「んまぁ、その嫌がり方は、格好良いわよ」


「ど、こ、が、だ、よ!」


 笑いの後、母が彼の頬を両手で包み、ゆっくり言った。声はかすかに震えている。


「リーユ。あんたは優しい子だよ。優しさは弱さじゃない。遠くまで届く声だから、周りの弱い人を決して置いていかないで」


「うん。必ず守るさ」


母はリーユの背負う荷物にそっと、白いウサギのぬいぐるみをかける。

 猫が彼の足元に頭を押しつける。村の王だ。リーユは小さく頭を下げ、猫の額を人差し指で撫でた。猫は満足げに目を細める。村人の「いってらっしゃい」が風に乗った。


 荷を背負い、木の棒を杖みたいに突いて、リーユは歩き出した。背中には鍋のふたの丸い頼もしさ。前には、畦道、丘、光。見慣れた景色が、今日に限って見知らぬ顔をしている。


 ──二歩目。ふふ、これから旅の始まりだね! 勇者様。




 村を抜けると道は細くなり、やがて草の背丈が膝に触れた。風が運ぶ匂いが、土から花へ、花から水へと小さく変わっていく。空は広くて、雲は軽い。鳥が音を置いていく。知らない虫が、見知った草に止まっている。


 小川にかかった細い橋は、人ひとりがやっと通れる幅だった。丸太が二本、並べて渡してある。足を置く。丸太がわずかにたわむ。水は透明で、底の石が数えられた。水面が空を写し、その一番浅いところに風が集まって、小さな皺を作る。リーユは息を詰め、足をすすめる。二歩、三歩。片足が滑りかけ、反射的に鍋のふたを持ち直した。体が傾く。長老の声が頭の中で短く鳴った。


 転ぶなら、もっと格好よく転べ。


 顎を引く。背中を丸める。足を開きすぎない。ぎりぎりのところで体勢が戻る。水は少し跳ねただけで、彼は向こう岸に立っていた。橋の向こうで、藪から小さな兎が顔を出す。兎は彼を一瞥して、何の感慨も見せずに草の中に消えた。世界は、彼が渡ったことに特別な意味を与えなかった。彼自身もそんな世界を嫌いではなかった。


 道の先で、風にのって甘い匂いがした。焼いた果物の匂い。人の気配。布を叩く音。遠くで太鼓の音が短く跳ねる。日の国は近いらしい。足取りが少しだけ軽くなった。すぐに重くなった。冬服の中に蒸れた熱が溜まる。額の汗を手の甲で拭う。腰の水袋を傾ける。水は冷たく、喉を一気に下へ落ちた。


 丘の上に出ると、向こうに城壁が見えた。城壁は高くないが、日の光をよく受けて明るく笑っているように見える。門の上に太陽の意匠。旗がいくつも翻り、色とりどりの布が風に踊る。人々の声が塊になって、門の外へ溢れていた。

あれがミッシェルか、とリーユは思う。胸が少しだけしびれる。村より少し大きな町をいくつか知っているが、光の密度が違う。光の粒がそこで濃く集まり、跳ね、また集まっている。ここでは喜びも悲しみも、よりはっきりと形を持つのだろう。




 門の前は、人と香りと音で満ちていた。太鼓の連打、笛の高音、何かを売る声、笑い声。揚げ菓子の甘い匂いと、焼いた肉の脂の匂いが層になって鼻をくすぐる。紙花の飾りが風に揺れて、光を小さな鱗みたいに反射していた。


 屋台の裏手で、積み上げた木箱がゆっくりと傾いた。大人が上で布を直している。下では小さな子が、落ちた紙花を拾って歩いている。木箱は大人の肩の高さほど。角が鋭い。倒れはじめた木箱の影が、子の足元に重なった。


 リーユの体は、考えるより早く走っていた。木の棒を手から離し、鍋のふたを腕に抱える。肩の荷が揺れる。冬服の裾がはためく。

足元の砂が散り、二歩で距離を詰める。その子の肩口へ腕を差し入れ、体を入れ替える。木箱の角が背の冬服をかすめ、空気がひとつ鳴った。

とっさに受け身をとる。顎を引き、背中を丸め、体を横へ回す。その子の身体は腕の内にある。砂が頬に触れ、足首に鈍い痛みが走る。体が地面に落ちつくまで、痛みは遠くで灯り、すぐ近くで大きくなった。

 子供たちは驚いた顔で彼を見ている。大人が慌てて木箱を起こした。周囲の人が一斉に集まり、口々に何かを言う。


「大丈夫か!」

「お兄さん! 怪我してない?」

「今の見たか!」

「チョー速かったぞ!」


 子は両手で紙花を握りしめ、震えながらも声を出した。


「あ、あの、ありがとう...!」


 リーユは上体を起こそうとしたが左足首が抗議する。息をひとつ短く吸う。痛みは小さな刃のように鋭く、しかし切り傷のように深くはない。

歩ける。ちゃんと歩ける。自分に言い聞かせる。周りの視線が一気に集まり、温度が上がった。褒められると、身体のどこを置いていいのかわからなくなる。鍋のふたをぎこちなく持ち直し、木の棒を拾いに目を向ける。そのときだった。

 人混みが自然と割れ、陽の光が筋になって差しこんだ。その真ん中に、赤いリボンがひらりと揺れている。二房の髪は明るい色で、光をよく受ける。顔は晴れていて、目元はしっかりしている。笑うと、その笑いが周りを引き連れていく。彼女はゆっくりと歩き、人々は左右に道を作る。誰もが彼女を見て、誰もがその肩に視線を柔らかく置いた。


「私は日の国ミッシェルの王女、ヴィオラよ」


 声は澄んで、よくとおる。彼女はリーユの前で足を止め、自然に腰を落とし、目の高さを合わせた。視線には好奇心が見え、その奥に感謝が見えた。


「ようこそ、勇者様」


 人々が一斉に拍手した。手のひらが重なり合う音は、太鼓の音に混ざって上へのぼった。

太陽の意匠が門の上で輝く。紙花がどこからともなく追加で舞い、光がそれに吸い込まれていく。

リーユは、鍋のふたを胸の前で落ち着かずに抱え直し、左足をかばいながら立ち上がった。足首の痛みはまだそこにいる。彼は無理に笑って、少しだけ首を傾けた。


「俺は、リーユ。リトルノヴァから来た勇者? うん、たぶん、勇者。今は足が少し痛いかな...はは」


 笑いが起きた。やわらかい笑いだった。揶揄ではない。場の空気を丸くする笑い。ヴィオラの目が細められる。彼女は頷き、軽く手をひらいてみせた。


「それは大変。まずは座って。祭りの席を用意します。やはり、勇者様の席は、いちばん陽当たりがいい場所に...」


「うーん、陽当たりがいいと、暑い」


「では、風の通り道に」


「風が強すぎると、紙皿が飛ぶ」


「では、陽と風の間に」


「...それは難しくないか?」


「難しいことをうまくするのが、王女の仕事です」


 返す言葉に拍手がもう一度広がった。屋台の主が笑って彩りのよい果物を差し出した。子どもがさっき握りしめていた紙花を彼の鍋のふたにそっと結びつける。鍋のふたは少しだけ勇者の持ち物らしく見えた。木の棒も支柱ではなく杖のように。


「いや、見えるか! 武器にもなんねぇよ!」


 人垣の向こうで太鼓が鳴り、群衆が揺れた。陽の国の祭りは、彼を包み込みながら、同じようにいつもどおり進んでいく。

彼が来たからといって、世界は変わらない。それでも、世界は彼を少しだけ見た。それで充分だった。


 ──これで三歩目。あはは、リーユって面白いね。これからも僕を楽しませてね。

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