第2話:メイドの微笑みとレイピアの棘
王宮の使用人区画は、思ったよりも静かだった。
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無音というわけではない。石の床を擦るスリッパの音、食器が触れ合う微かな金属音、風に揺れるカーテンのため息のような音——それでも、孤独がじわじわと沁み込むような静けさだった。
金で飾られた牢獄か否かに関わらず、ここは檻だ。
...そして俺は、飼い慣らされようとしている犬にすぎない。
「まだキョロキョロしてますか?お行儀が悪いですね」
背後から声がした。
鋭く、挑発的な調子。
振り返ると、黒髪のメイドが立っていた。
十九歳くらいか。シルヴィアーヌより少し年上に見える。
黒髪は美しく編まれ、背中まで優雅に流れている。月明かりの下の雪のように白い肌。清潔で整ったメイド服に包まれた高身長のスレンダーな体躯——だが、その表情は柔らかさとは無縁だった。
「わたしの名前はエリスと申します」
淡々とした口調と何の感情もないいうな表情でそう名乗ったメイドが俺に向かってスカートの裾を持ち上げながら優雅なお辞儀をした。
すぐに覚えることになる。
彼女は一歩近づき、胸の下で腕を組みながら、まるで泥に転んだ王子でも見るような目で俺を見下ろしてきた。
「...エリスか」
と、俺も感情を押し殺して言った。
「肌が異様に黒い割には物覚えがいいですね、召使いくん」
「その呼び方はやめろ」
「ふうん?」
エリスは顎に指を当てて、いたずらっぽく言う。
「じゃあ『靴磨きのオバシ』って呼びますか?」
無言で睨む俺。
エリスはしゃがみこみ、すぐそばに来た。ラベンダーと冷気が混ざった香水の香りが鼻先をかすめる。
「可笑しいったらないですよね~」
と、彼女は囁くように言った。
「この宮殿に来る男たちは、金だの栄光だの、せめてノミのいないベッドくらいは夢見るものです。でも貴方は、魔術によって身体の自由を奪われながら連れてこられたかと思えば、その首を斬り落としそうになったお嬢様の靴を磨く羽目になったのですから」
口元が歪むメイドは続く。
「さぞ誇らしいでしょうねー?」
沸々と殺意を抑えるように歯を食いしばる。
「...望んでここに来たわけじゃない」
「もちろんそうですよね~」
彼女は蔑むような声色で言いながら頷いた。
「禁じられた総督の屋敷で開かずの間をこじ開けるために炎魔法を使おうとしたら失敗して捕まったんでしょー?何か調べようとしたのかもしれないけど、それでも反逆罪ですよ。シルヴィアーヌ様に鴨の丸焼きみたいにされなかっただけ、運が良かったと思いなさい」
声のトーンが変わった。哀れみを含んだ、しかし意地の悪いものへと。
「でも……哀しいですよね~。大の男が、少女の足元に跪くなんて......。誇りはどこへ行ったのでしょうか? 貴方の国では、そんな風に自分より若い女の子の前に跪くんですか?」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「神の前以外では跪かない主義だ!」
「まぁ~」
と彼女は甘く微笑んだ。
「じゃあ、お祈りでも始めたらどう?」
そう言って立ち上がり、エプロンの埃を払うような仕草をした。
「稽古中に床に血をこぼさないように気をつけてね、召使いくん。シルヴィアーヌ様の靴、ピカピカに仕上げたばかりなんですから、ふふふ~」
そして、クスリと笑いながら去っていった。
……彼女の言葉の棘が、思った以上に痛かった......
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その朝、次に:
「着替えさせなさい」
と、シルヴィアーヌは振り返りもせずに言った。
声は冷たく、命令口調そのものだった。
「かしこまりました、シルヴィアーヌ様」
とエリスが生真面目なシリアス顔で答える。
抗議する暇もなく、エリスが俺の腕を掴んだー!
細い指だが、意外なほど強い。
「こちらへどうぞ、召使くん。そんな蛮族みたいな服、さっさと脱ぎましょうねー」
案内された部屋は、狭くて薄暗く、古いリネンと杉の香りがわずかに漂っていた。
そこには、折りたたまれた服の束が整然と置かれていた。薄いクリーム色のチュニックにはファルケンハイン家の紋章。黒いズボン、革手袋、磨かれたベルト......
胸が重くなった。
エリスがチュニックを持ち上げる。
「腕を上げて」
「自分で着られる」
「聞いてません」
感情の籠ってない目で冷たく言い放ったエリス。
「命令は命令よ」
しぶしぶ従う。
チュニックを頭から被せられ、肩の位置を整えられる。
日差しと灰と血に晒されてきた肌に、柔らかな布が馴染まない。エリスは優雅に動きながら、袖口を直し、手袋を指一本ずつ丁寧にはめていく。
......その時だった。
彼女の白い手が、俺の前腕をなぞるように滑り、顔の横まで届いた。
「本当に……珍しいですね」
彼女はうっとりとしたような声で言った。
「まるで黒曜石を彫ったみたいな肌。滑らかで、深くて……ああ、ぴったりな言葉がありますね...」
また、あの歪んだ笑み!
「灯りを全部消したら、貴方の姿はわたし達の視界から消えちゃうんじゃない~? 闇に溶けて、音もなく——まるで影みたい。...やっぱり本当に使えますね、召使いくんは~。セラフィーヌ様が『良い猟犬になる』って言ってたの、納得ですね~」
歯を食いしばる。
「...もう一度言ってみろ」
「あら、~怖い怖い~」
彼女はくすくすと口元を隠しながら笑い、慇懃無礼にまたも頭を下げてきた。
「でも、これで準備完了。やっと人前に出せる見た目になりましたね、黒い召使くん~。まるで、貴族の鎖に繋がれた黒炎みたい」
一歩近づき、耳元に囁く。
「恥をかかせないであげてね。……後始末は、わたしの仕事になるんですから」
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午後・試合の中庭:
...模擬試合が行われる予定の中庭は、思ったよりも冷えていた。
柱の隙間から淡い光が差し込み、白い石畳を照らしている。
風が吹き抜け、シルヴィアーヌの赤い上着をはためかせる。
彼女は円形の中央に立ち、輝くレイピアを手にしていた。
この借り物の制服は、胸元が窮屈で動きにくい。
手にするのは、刃を潰した訓練用の剣。魔法も炎も未だ使えない俺...。あるのは、筋肉と意志のみ。
俺が炎の魔法に目覚めるのは、まだまだだから.......
「構えなさい」
彼女はすでに構えていた。
「....」
どうやって攻撃を仕掛けられるか迷っていた。
その隙に、彼女が踏み込む――!
「はあ――!」
ぐさー!
レイピアが俺の太ももを打つ!
「くっ!?」
防御が間に合わず、体勢が崩れる。
「遅いわ」
またも——!
キ―――ン!
今度はなんとか受けた。
だが、次の一撃が脇腹に響く!
ぐちゅー!
俺の反撃は重く、荒く、届かない。
キーンコーンカーンコーン―――!!
「ふふふ~」
彼女は踊るように避けた。
「動きが乱暴すぎて重いの。優雅さがないわね」
「優雅さなんて、勝つのに必要かー?」
「勝つには、全部が必要よ。そしてお前には——何も持っていない無能の下僕よー」
また——!
ぐさ―――!!
「はぁーはぁ......、くそ!」
何度斬られたか、もうわからない。
肩、肘、脛。汗が視界を曇らせ、痛みが全身を走る。
叫びたい。叩き返したい。
...だが、胸に刻まれた封印が冷たく脈打つ。
そして——、またも彼女が踏み込む!
「これでも受けなさいー!」
速すぎる――!
だが今回は、彼女の踵が、ほんのわずかに滑った。
ズ―――!
俺は前に出た。想定より近い距離。
「んー!」
剣を振り上げた!
カキ―――ン!
彼女のレイピアとぶつかり合い、甲高い音を響かせる。
……初めて、俺は踏みとどまった。
「-!?」
シルヴィアーヌは半歩、後ろへ。
だが、それで十分だった。
氷のような瞳が細められる。
「ふーん...」
俺はというと、ただただそこに立ち、息を切らし、手にした剣を震わせながら、裂けた唇から血を垂らしていただけ......
彼女は手袋を直すと、
「初心者にしては運がいいわね」
と冷たく言った。
しかし、初めて——俺を見る目が変わった様子だー!
道具としてでもなく。
哀れな存在でもなく。
危険なものとしてー!
あるいは——それ以上の何かとして......