表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【短編】おかしな男は今日も絶好調~それに喧嘩を売ったクレーマーと、店長の悲劇~

作者: 百門一新

 その店長は、店内の中央に立ち尽くしていた。


 開かれた入口からは、外の熱風が勢いよく吹き込んできている。


(たった小一時間の間に、何があったんだ……)


 しかしながら、彼は同時にこの現場を見た際に〝あの奴による、いつもの珍事件〟であると、厄介な部下を思い出してもいた。


 店長の白髪交じりの髪がかかった額とこめかみに、一つ、二つと、徐々に青筋が立っていく。


 彼はすぐに、例の新人社員を見つけてもいた。


 店長の様子と対照的に、例の彼は、あっけからんとした表情だ。

 立派にやりとげましたよと言わんばかりに胸を張って応えた様子が、店長のこめかみに青筋を立てさせた原因でもある。


 彼は意気揚々と店長のもとに駆け寄ると、話し出した。


 彼の報告に聞き入るのは店長と、副店長。そして一人の社員と、彼らを少し遠巻きに眺めているパートやアルバイト、そして地元の一般客たちだった。



 商店街の一角にあるマシロスーパーは、地元住民に愛される食品店である。


 商店街で一番の面積を誇るお店でもあった。

 生活雑貨や衣料も取り扱い、品揃えは価格と共に地元のお客様第一にと考えられている。


 以前『真城食品館』であった時代に店員だった店長は、店を丸ごと大手業者に買収された際も残った。


 当時、彼の年齢は三十五歳だった。


 元オーナーと幹部社員らは、資金不足と赤字といった理由もあって『真城食品館』から手を引く際、まだ若い彼に「頑張れ」と言った。


 若さ、経験、技術があった彼は「任せてください」と熱い気持ちで答えた。そして「店長」となったのだ――。


 あれから、十二年が過ぎようとしている。


 彼は急な豪雨で戸惑う部下や従業員たちを迷いなく引っ張れる男で、信頼は厚く、そして自身も店への愛から素晴らしいくらいに動いた。


 すべての業務のうち、一つでも彼に勝てるような部下はいなかった。忙しい部署に加勢に入りてきぱきと問題を解消し、業務を進行させる。そんな〝店長〟を、店に従事する誰もが憧れの眼差しで見つめていた。


 もちろん、それは店の常連客もそうである。


 都会方面へ仕事を探しに行く若者が多いため、アルバイト生はころころと顔触れが変わる。当時、店長と同期だった社員たちも、買収した大手企業の本部へと年々と引き上げられていったが、店長は『この地元に貢献し、店を見守り続けたい』と丁寧に断り、マシロスーパーの店長となったのだ。


 アルバイトの一部以外は、全体的に年齢層も高い。

 ――という中で、マシロスーパーには現在、最年少の三十一歳の新米正社員がいる。


 今年、本部採用だった新人が、マシロスーパーへと回されてきたのだ。


 だが、この新人が一癖あった。


 平日の、何もイベントがない日に外出の予定を入れていた店長は、その日の夜明け前、いつもの時間に店の鍵を開けながら、憂鬱な面持ちだった。


 店に入ってあとも、ときどき胃のあたりを押さえ「ぐう」と呻る。


 そんな店長の声が、静まり返った店内に響き渡った。


「店長、大丈夫っすか?」


 六年も一緒に過ごしてきた三十代のワタベ副店長が、眉を顰める。


 去年、彼は籍を入れて所帯を持っていたが、相変わらずの童顔でうかがってくる表情は到底三十代には見えない。アルバイトやパートの男女にも人気がある要因には、気さくな性格と、警戒心を抱かせない容姿のためでもあるだろう。


「ああ、今日のことを考えると胃がきりきりと痛んでね……」

「あははは、大丈夫ですって。今日は各部署に古株のパートだって置いていますし、大きな特売日でもないし。きっとお客もそんなに来ないでしょう。それに、彼も年明けに来てからもう半年もいるんです、お留守番くらいは、できますって」

「そうだろうか……」

「ええ、そうですよ。店長は、心配しすぎです」


 ワタベ副店長は笑った。嫌味のない、さらりとした笑みだ。


「まあ確かにな」


 店長は自信を持とうとしたが、かれに応えるべく浮かべた表情は、なんとも乾いた笑みだった。


 午前十時から十一時までの間は、お客様の姿だって少ない。


 問題はないだろう。そう、開店作業を進めながら二人はもう一度確認し合った。


「会議は小一時間で終わるから、十一時までには戻れるだろう」

「分かりました。バイヤーの件は俺が話をつけて、できるだけ早めに戻れるようにします」


 うむ、と店長は頼もしく思いながら頷く。


「タナモト君は……有休中だからなあ。わざわざ呼ぶわけにもいかないし……」

「初めての新婚旅行と言っていましたからね。ああ、あと、ニシノには町内会議に行ってもらうことになってます。今回はタナモトの代わりに出席することを先方にも確認済みです」


 嫌な時に他の社員の行事も重なってしまったものだ。


 楽天的なタナベ副店長の他、店長や彼に続く店にとってなくてはならない社員、タナモトもニシノも同じ心境だ。


「……あのぉ、大丈夫ですかね?


 明け方に出勤して来たニシノは、眼鏡越しに弱気な目をそろりと持ち上げて、開口一番にそう縁起でもない心配事を尋ねてきた。タナモトからメールで「心配しています」という返事まで返ってきたという。


 開店前になると、パートとアルバイトがタイムカードを押して業務準備に入った。


 そうして彼らより三十分遅れてやって来たのは――この店の勤務歴半年、店長たちの心配のもとである、新米正社員のテルヒコだ。


 テルヒコは三十代に入っているとは思えない、むしろ二十歳そこそこといった面持ちで「えっへん」と自信満々にこう宣言した。


「任せてくださいよ。みんなの教えは、しっかり頭に入っていますからねっ。それに僕は、とっても利口なんです」


 ――だから、それが心配なんだって。


 ワタベ副店長が彼に「心強いよ、よろしくな」と笑顔で言って握手しているかたらで、店長とニシノはぐっと息を止めていた。


 何かあったらすぐ連絡するように、とニシノが言った。


 店長は注意事項を念入りに確認したあげく、再三に繰り返す。


「いいか、何度も言っているように、分からないことは専門家に任せるべきだ」

「はい! それも頭にしっかり入れています!」

「うむ、よろしい」


 調子のいい敬礼姿勢がなんとも店長の胃をきりきりと痛めてきたが、とにもかくにも店長はテルヒコに続ける。


「たとえば惣菜関係であればパートのイトウチーフ、といったようにな。店の仕事が多い分だけ必要な知識も多く、深くなっていく。だからこそ、細かく業務を分けているわけだ。分かるな?」

「分かっています! 了解です! 僕、お喋りは好きですけど、数字とか専門用語とかはよく分からないし、頭が痛くなるので、きちんと専門家に意見をうかがおうと思います! うふふ、チームワークっていいなぁ」


 テルヒコの口癖があとに続いた。


 店長は苦い表情を浮かべた。お前を中心にここ半年はチームワークが増しているな、と言いたかった。


 そんな店長の心境を察してくれたのか、各パートのチーフや頼りがいのある経験豊富なアルバイト生の「何かあれば彼を助けますから」という励ましを受け、店長はようやく胃の痛みを消し去り午前十時の会議へ向けて店を出た。


   ※※※


 店長が戻ってきたのは、十一時前。

 その数分違いで、ワタベ副店長とニシノが入口から入ってきた。


 きょとんとして「おや」と立ち止まるワタベ副店長の隣で、「まさか」と息を呑んだニシノが眼鏡を指先で押し上げる。


 そうして――留守番を任されていた正社員であるテルヒコは、意気揚々と、数十分前の出来事を語り出したのだ。


   ※※※


 店長を見送ったあと、ワタベ副店長とニシノも出てしまうと、テルヒコは見回りがてらぷらぷらと店内を歩いた。


 朝食は食べていたが、美味しい匂いに「ぐう」と腹が鳴った。恥ずかしげもなく「おや」といって自身の真っ平な腹を見下ろしたテルヒコに苦笑し、派遣バイトのおばさんが試食のハンバーグをやった。


 開店して一時間ばかりしか経っていない店内には、客の姿があまりなかった。


 テルヒコは、楽しげに笑いあいながらゆっくりと仕事をするパートや、アルバイト生の姿が見られるこの時間が一番好きだ。


 彼はいつも通り、レジのアルバイト生と、今ハマっているゲームの話をした。

 そのあと鮮魚コーナーで魚を観賞しつつ、くねくねと触覚を伸ばして外の様子を窺うアサリをつっつき、そこから小さな水柱が出るのを眺めた。


 一つ一つの商品棚をチェックしながら、商品を補充するそれぞれのアルバイト生とのお喋りを楽しみ、帰りに購入するお菓子をぼんやりと考える。


 菓子パンコーナーでは、この時間だと業者が新しく持ってきたパンを並べている。

 テルヒコがいつものように話しかけると、「賞味期限が今日までだから」とパンのお裾分けを袋いっぱいにもらった。彼はそのお返しに、控室のテーブルからくすねてきたチョコレートをプレゼントした。ワタベ副店長が持ってきた、ピーナッツの美味しいチョコ菓子だ。


「うーん、いい気分だからみんなにもあげよう」


 テルヒコはピンと思い付くと、店内のメンバーに「パンをもらったんだ。どうぞ」と配り回った。


 ちょうど、飲料部門の子が紙パックのジュースに値引きシールを貼っていた。昨夜この作業までできなかったらしい。


「すみませんテルヒコさん……」

「どうして謝るんだ? 名案を思い付いたぞ、素敵なタイミングだ、ありがとう!」


 感謝された彼はぽかんと口を開けたが、テルヒコは値引きシールがついたジュースの一つを持って、レジで購入した。


「ふふっ、テルヒコさんったら。業務中の個人的な買い物は禁止されていますよ」

「いーのいーの、僕が飲むわけではないし。きっとさ、これは営業みたいなもんだよ。防犯ビデオでバレても、怒られない自信あるもん」

「見直しますかねぇ」

「何も問題が起こらなければ見直さないよ。ん、対応ありがとね」

「いえいえ、お客様もまだ落ち着いている時間ですから」


 テルヒコは購入したジュースを抱えて走った。


「まだ帰っていないといいけど。いや、彼、仕事早いもんな」


 やっさほいさと自分の走行音を口にして走っていくテルヒコを、パートのおばさんたちもくすくす笑いながら見送っていく。みんなテルヒコがどれだけ親切な男が知っていた。


「ああいたいたっ、よかったっ」

「ん? どうしたんだい」


 今まさに引き上げようとしていたパンの業者に、テルヒコはジュースを差し出した。


「値引きされているのが嫌いでなければ、どうぞ」

「おーおー、俺はめちゃくちゃ嬉しいよ。有難いね。ウチの若いのの中にゃあ嫌がる奴もいるだろうがね。わざわざすまんな」

「僕はパン代が浮きましたからね!」


 えっへんとテルヒコは胸を張る。おじさんはカラカラと笑って「もうすっかり夏だねぇ」と返し、テルヒコは彼とほんの少しだけ立ち話をした。


 店内は広いため、歩く時間も自然と多くなる。


 テルヒコは店内を巡回がてら歩きながら、腰に下げた歩数計のヒヨコがそろそろ鶏に進化していないかなあ、と思い時々眺めた。


 それは昔流行していた小型ゲームの現代版だ。たびたびヒヨコには餌をあげなければいけない。音は消してあるが、歩数計が十歩進むごとに「ピヨピヨ」と可愛らしい声を上げるのを彼は想像した。アルバイト生のトダ君にもらってから、毎日歩くのがますます楽しくなっている。


 総菜コーナーには、お喋りが楽しいパートのおばさんたちがいた。


 最近入った若い子がオニギリを握っていたので、テルヒコは「じゃあ、お昼に買うね」と約束した。「ついでに僕とデートしない」と誘ったが、イトウチーフの鋭い視線に気圧されて「冗談だよ」と小さく言った。

「もう、テルヒコ君は毎日毎日、飽きないの?」

「え? 可愛い子は大好きだよ」

「じゃあ、こっちのおばさんたちは眼中にないのねえ」

「あるよ! 皆とのお喋りは、とても楽しいし」


 調理中の厨房には美味しそうな匂いが充満していた。テルヒコは、特売として今日から販売するというカボチャコロッケを丸々一個試食した。一緒に試食したパートのおばさんや若い子たちは楽しげで、地元住民ではないテルヒコは方言が相変わらず分からなかったが、楽しいひとときを過ごした。


 可愛いアルバイト生に呼ばれたのは、テルヒコが事務所で割引の苺牛乳をストローで飲んでいる時だった。


「困ったことがあるんです」


 内線でそう伝えてきた彼女に、彼は「チューチュー」とストロー越しに答え、もう一度「分かったよ」と今度はきちんと言葉でも答えて、内線を切った。


 そう言ってきたのはアルバイト生のマナミちゃんだ。彼女は大学四年生である。華奢で色白で、とにかく可愛いのだ。彼女に大きな目で見上げられると、テルヒコはいつもにんまりとしてしまう。


 アルバイト歴が四年なので勤務歴でいうと彼よりも経験は上なのだが、テルヒコとしては妹のような後輩気分で接していた。


 しかし、この時は間合いが悪かった。


 にんまりと笑って見下ろすテルヒコの表情に、マナミちゃんは、少し慌てたように小声で素早く言った。


「テ、テルヒコさん、笑ってる場合じゃないんですよ」

「え? そうなの?」


 だから、と言って、マナミちゃんはテルヒコを引き寄せ、ある方向を指差して早口で伝える。


 そこの生活雑貨のシーツコーナーに座っていたのは、細身の中年男だ。

 マナミちゃんに『中年』と説明されてテルヒコがピンとこなかったのは、内線で聞いていたクレーマーが、まさかお爺さんだとは思わなかったからである。白髪が目立った彼は細い小麦色の顔に、厳しい皺を刻み、一見すると店長よりもだいぶ年上そうに見える。


「あのですね、こちらで購入したシーツが原因で、奥さんと喧嘩になってその責任を取れって言うんですよ」

「まさかあ」

「そのまさかなんです。セールでもなかったのに、仕方なく高い金額で購入して、そのうえ今日の朝から機嫌が悪くて胸糞悪いそうで。どうしてくれるって、彼は言っているんです」


 マナミちゃんはほとほと困り果てた表情をしていたが、あまりにも可愛らしかったので、テルヒコはまたにんまりと笑ってしまった。


「僕に任せて」


 テルヒコはマナミちゃんを帰したあと、向かう自分を睨みつけてきた少し年上の中年クレーマーを眺め、これからどうするべきか考えた。


 話を聞くために事務室に場所を移したほうがいいのかどうかを思い浮かべたが、営業機密のなんとやらの禁止という事項を思い出した。そういえばあそこには、店の数字などが雑多に公開されているのだと気付く。


「危ない危ない、もう少しで店長に怒られちゃうところだった」


 テルヒコは一人で言って、一人で笑った。


 店長は、とても仕事の出来るかっこいい中年だ。怒っている姿を見かけるほうが多いが、悪意があるわけではなく真心がある。父親のようでテルヒコは好きだったし、出来る男だなぁと憧れていた。


 そんな彼にみっちりと怒られ続けているのだ。ここで、自分がどれほど成長したのかの見せ所だと思った。


 何せ、テルヒコが店の留守を任されたのは初めてのことだ。


 初めて両親に鍵を預けられた時のように、テルヒコはなんだか急にとても誇らしい気持ちになった。――といっても、彼は両親から鍵を預けられたことは一度だってないが。


 つまるところクレーマーのもとに向かいながら数歩で、テルヒコは自分がもう立派な社員になったような錯覚を覚えたのだ。


 彼の笑みが強まっていくごとに、クレーマーの表情は険しくなっていく。


 店長やタワベ副店長、他の先輩社員たちがこの店をとても好きでいるのを、テルヒコは知っていた。クレーマーを眺めていた彼は、ふっと『店を嫌いになってほしくないなぁ』と相手の不機嫌面をまじまじと眺めて、しみじみとした気持ちになる。


 テルヒコも店長たちがいるこの店が、大好きだ。


 頭の中で教えられたことやマニュアル表を広げると、テルヒコは慎重に、そして正しい判断をすることを心に決めた。


 これから増えていくお客様たちに迷惑をかけてはいけない。

 テルヒコはひとまず、年上の中年クレーマーをバックヤードへ連れていった。そこには商品などが箱に詰められたまま置かれていて、トラックの出入りする大きな入口がある。ここには店の経営で必要とする材料も一緒に届けられるが、企業秘密は何も見当たらないことに、テルヒコは満足した。


 男は、連れて来られた場所を見、そして自分よりも長身であるテルヒコへ視線を戻すと、何やら唖然とした表情を浮かべた。


「なんて緊張感がない奴だ……相当やり手なのか?」

「はい?」


 テルヒコがきょとんとすると、男は何か言い掛けた口をすぐに閉じ、舌打ちをして、勝手にダンボール箱の上に腰を降ろした。

 レジ袋が詰まっている丈夫な箱だ。まぁ、いいかとテルヒコは思い直し、彼もまた言いかけた口を一度閉じると、向かい側の壁に背を当てるようにしてしゃがみ込んだ。


「おい、せめて立たんか」

「え? お客様も座っているのに?」


 テルヒコは首を捻る。目線はお客様よりも下だし、いいのではないかと彼は自信を持って、それから慎重に言葉を選びながら第一声を切り出した。


「シーツは新品そのもので、品質に問題がなければ交換できないんですよ。あ、それと僕はまだ事情が分からないので、もう一度話してください」

「お前さん、その前に普通は言うことあるだろう」

「え? あ、初めまして。僕は皆からテルヒコって呼ばれています」


 なぜか男が腕を組んで、顔を伏せ「くそっ」と言った。


 新しいくしゃみかなとテルヒコは思った。なんとも変わってくしゃみだ。もしくは、彼は答えるために意気込む必要があったのかもしれない。


 とりあえず、しばしお客様か返事があるのを待つことにする。


「……俺はエビスだ」

「そうですか。それでエビスさん、シーツと奥さんの間にどんなエピソードが?」

「エビスは偽名だ!」


 気付かんか馬鹿者がと怒鳴られて、テルヒコはわけが分からなくなった。


 いつもクレーマー処理をしている店長やワタベ副店長は、本当に偉大だなあと思う。


「なんで僕に嘘を吐くんですか。ちゃんと話してくれなきゃ分からないですよ」

「責任者を呼べと言っとるんだ! アルバイトじゃなくて、他の奴だ!」


 テルヒコは、シャツの上から着た自分の紺色のエプロンを見下ろした。


 アルバイトやパートと違い、社員はスーツのズボンに、シャツとネクタイを着用している。そして極め付けは、名札にきちんと表示されている「社員」の二文字だ。


「僕、社員なのに……」


 思わずテルヒコが涙声になると、相手が慌てたように「店長だ」と取って付けたように、主張した。


「だから、店長は今いないんですってば」

「お前さん『当然知ってるよな』という前提で話すな。俺がそんなこと知るか」

「え~、だっていないんですもん。信頼されて、僕がここに残っているのです!」


 男はひどく呆れたような、開いた口も塞がらないという表情も浮かべたが、ややあって小さな声で「タケダだ」と名乗った。


 年上の中年クレーマー、タケダは本当の名前を切り出すなり話し出した。まるで愚痴を吐く相手がいなかったかのように、「競馬がだめだった」「昨日は突然の土砂降りで窓を閉めようとしたら濡れていて転んだ」など、話題は尽きなかった。


 それにテルヒコは「うんうん」と真面目な相槌を打ちながら、歩き回らなくてもよい楽しい業務だ、と思いそれをこなすために耳を傾け続けていた。


 タケダは早口に捲し立てると、約三十分にも及ぶ愚痴ののち、ようやく本題のシーツのクレームへと移った。


「煙草で前のシーツをだめにしちまって妻に叱られたのは俺も悪い、ふらふらっと立ち寄ったらあのシーツが目についてね――おたくさ、マットとかシーツとか、もっと取り揃えないわけ? 前見た時にあった安いものがなくなっていて、花柄の、ちょっとお高めのしかなかったんだよ。まあ肌触りもいいし、これなら妻も気に入ってくれると思って買ったんだがね。とんだお門違いだったよ。急な出費だ、と怒られるし、パチンコじゃなくて働き口探しに行けって朝から大喧嘩さ」

「定年退職?」

「なわけねえだろ! 俺はまだ五十三だよ」


 反論したタケダは、即座に語尾を弱めた。


「限界は知ってる。俺なんてちっぽけさ。下からどんどん有望な奴が出てくるし――なあ、知ってるか、兄さん。今の若い奴らはさ、英語だとかドイツ語だとかぺらぺらと話せて、そのうえ、堅苦しい資格までいろいろ持ってんだぜ。敵わねえよ。ほんと、嫌になるさ」

「シーツに不備はなかったんですよね」

「お前、俺の話し聞いてる?」

「聞いてます、聞いてます。それでシーツはどうしたの?」


 タケダがまたしてもぽかんと口を開けて「敬語どうした……」なんて呟いた。


 しばし、テルヒコが不思議に思う沈黙がバックヤードに続く。


「女房が返品してこいだとさ。俺的には傷ついたし、胸糞悪い嫌な数時間分も、まとめて返せよ」


 しばらく押し黙っていたタケダが、嫌悪感を露わにそう言った。


「ええぇ、時間までは無理」

「ふん、賠償さ。当然だろう? お前さんたちところじゃあ、嫌な商品押しつける悪徳会社なのかい。商品代金に上乗せして俺に返せよ! こっちは訴えてやってもいいんだぜ!」


 とくに表情の変化を見せないテルヒコに、タケダは焦れたように眉間の皺を深くした。


 どうしようかなあと嫌々ながら考えていたテルヒコは、商品返品マニュアルを記憶の中に辿っていたので、集中力は自分の頭へと向いたままだった。


 商品の不備を確認すること。

 購入証明になるレシートと、返品する商品を揃えること――。


 テルヒコはいろいろと考えたが、返品の不具合にどういった理由を記載すれずいいのか?と考えても分からなかった。

 そもそも、思うにやはり返品ではない気もすると、ぼんやりと結論に辿り着く。


 その時、テルヒコの切れかかった集中力の向こうから、彼の注意を引き付ける強烈なパワーワードが飛び込んできたのだ。


「お前俺をなんだと思ってるんだ! バカにしてんのか! 俺はお客様だぞ! 俺のこの気分を晴らすために爆弾を仕掛けてやってもいいんだぜ!?」

「え、爆弾?」


 初めてテルヒコの強い注意を引いたタケダは、言葉に詰まりながらも肯定を示すべく「お、おう」と頷きも交えて言った。


 ほぼ『爆弾』しか聞いていなかったテルヒコは、ずいっと彼に顔を寄せる。そして本日初めてというくらいに彼は真剣に仕事のことで考え込む。


「店に爆弾を仕掛けたってこと? それってボタン式? それとも時限爆弾? それ、大変なことだよ。ねえ、僕はいったいどうしたらいいかな」

「え、いや、その」

 テルヒコの止まらぬ言葉に、タケダは口を挟むタイミングを掴みかね「だから、その、それは」と言う。


「爆弾ってどこに仕掛けたの? あ、もしかして、例のシーツがあった生活雑貨のところでしょう! ははぁ、奥さんと喧嘩したからって、ここで物理的にも怒りを爆発させちゃうことないのになぁ。うふ、考えるとなんだかおかしい」

「お、おい、お前飛躍しすぎ――」

「やばいやばい、ジョークで片付けちゃいけないのに面白いですねぇ。よいしょっ、と」


 テルヒコは立ち上がると、ズボンの後ろポケットからスマホを取り出した。


 こういう時こそ、専門家に任せるべきだ。

 彼はそう思った。すでにテルヒコの頭にあったシーツの一件は二の次になってしまっており、今の彼は店を守ることを第一に考えていた。


「おい、お前さん今どこに――」

「あ、もしもし? こちらマシロスーパーです。そうそう、商店街にあるあのマシロスーパーです。え? ああ、いつもお世話になってます。そうですか、美味しいですよねえ、コロッケ。今日からセール特価なんです、はい、ぜひ食べに来てください。お薦めは新商品にして新登場のカボチャコロッケで――あ、そうそう、本日の電話の用件でね。爆弾を撤去してほしいんですよ、専門家の方に」


 テルヒコの話は危機感もない口調で続けられた。


 そうしてタケダが呆気にとられる中、近くの県警からけたたましいサイレンを鳴らしてパトカーが次々にマシロスーパーへと駆けつけたのである。


 到着した爆弾処理班を見て増えていた店内の客たちが硬直した。アルバイト生とパートの従業員らがぎょっとして「何あれ」「いったいどうなってんの」と、つまるところ、それはもうあたりは騒然となったのだ。


 悠々と歩き出したテルヒコに続き、バックヤードから生活雑貨コーナーへと出てきたタケダは呆然としていた。


 何せ「俺たちのマシロスーパーを守れっ」と武装部隊が次々に店へとなだれ込んでいた。無線で「現場に到着」といったやりとりが交わされ、警察関係者によってあっという間に生活雑貨コーナーから客や従業員らがどかされる。


 爆弾処理班が「危険ですから」と人間バリケードのように作業空間を広げる中心地で、タケダは、やっとのこと「はあ」と間の抜けた息を吐くことができた。


「わざわざ、呼ぶかね」

「迅速でしょう? みんな、このスーパーが好きなんです。それにタケダさんって設置はできても解除できなさそうだったんで」


 タケダは、呆れたようにテルヒコを見た。


「お前、堂々とお客様をこけおろすんじゃないよ」

「え? 嫌味じゃないですよ? 僕だって爆弾の解除なんて全然無理です。撤去はもちろんのこと、設置さえできないと思いますよ~」


 あははと明るい調子の笑い声を上げたテルヒコは、続いてにんまりと満足そうに口角を引き上げ、そして堂々と胸を張って続ける。


「それに『専門家の仕事は専門家に任せるべき』なんですよ。あ、これ、うちの店長から教えてもらったことなんですけれどね。僕は専門知識も技術もない素人だから、悩むよりは知っている人に放り投げた方が早いかな、と思いまして」


 呆れつつも、妙に納得されるものがあったのか、タケダが思わずうなずいていた。


 つまるところ自分の怒り任せの言葉を『設置されているもの』と思い込んだテルヒコの行動力、人の話しを聞かない彼のせいで今の事態をタケダは止めることができなかった諸々も含め、諦めの心境で呆然としていたわけだが――。


 そんなこと、テルヒコが察せるはずもない。


 テルヒコとタケダは、架空の兵器によって慌ただしく動く爆弾処理班の様子を他人事のように眺めていた。彼らの動きに無駄はなく、かつ迅速だ。


「俺が辞表を突きつけて辞めた会社にいた若きエリートたちも、あんなことはできないだろうなぁ。なるほどなぁ、自分にできないことは、分担すりゃあいいのか」

「そりゃそうですよ。じゃないと、いっぱいいっぱいになって、大変でしょう? 僕はね、POPが作れないから先輩に頼むし、ゲームの知識に詳しくないから学生の子たちに教えてもらうし、料理ができないから帰りは惣菜でお世話になって、知らない単語はスマホにお世話になってるよ。だって漢字で書かないと店長怒るもの」


 タケダがふっと口角を引き上げる。


「アホらし。弱音を吐くってのは、男の美学に反しないのかい」


 初めて彼の笑顔を見たなと、テルヒコは思った。彼の『アホらし』は嫌味がなく、誉め言葉のようだと感じた。


「美学ってなんです? 愚痴も弱音もだめってこと? そんなの、僕には無理ですねぇ。だって僕は助けてもらいたいし、話しも聞いてほしいから」

「お前さん、自分勝手なやつだなあ」


 タケダは喉に引っ掛かるような笑い声を上げた。そして、


「そっか、言われてみりゃあ、簡単なことだったな」


 と笑いながら目尻に涙を浮かべた。


「悪いのは全部俺自身なんだ。仕事を辞めたことで家にいずらくて、普段からよくあった妻の意見や反応一つにピリピリして、勝手に傷ついてた」

「そうなの?」

「考えてみればそうだったと気付かされた。なぁ。これからでも仕事に就くってのは、遅くないかな?」


 尋ねられたので、テルヒコは自信をもってこう言った。


「全然遅くないですよ。協力してもらって、分からないことは教えてもらえばいいじゃないですか」


 タケダは薄っすらと目を細めて「あんたなら平気でやりそうだ」と言って、笑った。それから「俺、この店好きになりそうだ」なんて言ったので、テルヒコは嬉しくなって、満面の笑みを浮かべた。


 そこでようやくテルヒコは、そういえば住所はどちらなんですか、なんて振ってタケダと雑談した。聞いてみればやや遠い場所だった。これからどんどん店を利用くださいと笑顔で接客した――。


   ※※※


「留守を任されたスタート時間からの出来事を順繰りに話せ、と言った覚えはないのだが?」


 テルヒコの『報告』は終わったものの、店長は聞き手になっているにしてはもう我慢の限界にきていて、声が出せないままわなわなと震えていた。


 結果として、何事もなかったのだと最後の報告で締めようとしているテルヒコのへらへら笑いの後ろでは、爆弾処理班の面々が見慣れた常連客に「お世話をかけました」と言いつつ、レジに並んだりしているのが見える。


 もちろん店内には、多く訪れた客の他に、警察関係者たちも交じっていた。彼らは「いつものやつだったか」という雰囲気だ。


 ワタベ副店長が「あちゃ~」と緊張感もなく言い、ニシノが溜息をこらえて眼鏡を押し上げる素振りで、視線をそらす。


 回りの客たちも遠巻きに「今帰ってらしたのねぇ」「これ見て、驚いたことでしょうねぇ」なんて会話しながらこちらの様子を見ている。「テルヒコ君らしくていいじゃないの」と呑気にフォローしてくる常連の姿もあった。


 その、なぜかやたらと誰にでも愛される『テルヒコ君』は、尻尾を勢いよく振って瞳をきらきらとさせている犬みたいに、店長を真っすぐ見つめていた。


 店長は、昔飼っていたゴールデンレトリーバーをちょっと思い出した。


「店長、僕、ちゃんとお留守番できたでしょう?」

「……腰に、歩数計がある情報はいささか要らなかったが、お前、毎日それで遊んでいたのか」

「遊びじゃないですよ。自分がどのぐらい歩いているのか計測しているだけです――あ、そうそう、店長見てくださいよ。僕のヒヨコちゃんがっ、なんとっ、さっき『鶏っち』に進化したんです! 警察の人たちもレアだって言って楽しんでくれていましたよ」


 店長の両手両足が、ぶるぶると震え始めた。


 フォローしかけた客たちが、ぎこちない笑みに変わり、そそくさと距離を取っていく。


「さあてと、業務に戻るかな」


 タワベ副店長が愛想の良い笑顔で言い、「店長、自分がいつも通り警察関係者には話しを」と告げる。そのそばから


「……やれやれ、報告書、書きます」


 と言ってニシノが店長とテルヒコを通り越した。


「お疲れ様でした」


 正社員たちとは逆方向の、店の出入り口に向かって通り過ぎていく爆弾処理班の残りのメンバーの間で、とうとう店長の堪忍袋の緒が切れた。


「このっ、ばっかも――――ん!」


 驚いた拍子にテルヒコの手から落ちた歩数計が床に落ち、反動で音声が解除されたその小型のゲーム機から「こけこっこー」と、陽気な鶏の鳴き声が上がった。




                    了

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ