中編
ギョンチョルは、父親のドンヒョンの権力を利用し、ハンジュンの死を完璧に隠蔽しました。事件は表沙汰になることなく処理され、ギョンチョルは何事もなかったかのように日常へ戻ろうとしました。しかし、彼の心の中では嵐が巻き起こっていました。ハンジュンを殺してまで守ろうとした「男」としてのアイデンティティは、彼に重くのしかかり、それが再び揺らぐことへの恐怖に苛まれていたのです。
そんな中、父の再婚相手との間に腹違いの弟が生まれました。彼は、家業にとって待望の跡取りであり、ドンヒョンはその子に大きな期待を寄せていました。ギョンチョルは、弟の誕生を聞いた瞬間、自分の心に一瞬の安堵を感じました。もしかしたら、自分が「男」として生き続ける必要はないのではないかと。しかし、その考えがよぎったのも束の間、彼はハンジュンを殺してまで男として生きることを決意した、後戻りのできない過去を思い返しました。
ギョンチョルは、自分が築き上げてきた「男」としてのプライドを否定することはできないと感じました。父の期待が弟へと移りつつあるのを感じながらも、彼はその期待を自分に引き戻さねばいけないという強い思いを抱き、再び自分を奮い立たせたのです。父の目に映る「完璧な後継者」であり続けることが、自分の存在価値を証明する唯一の道だと、彼は自らを納得させました。
高校卒業後、ギョンチョルは父の会社に入社し、期待以上の成果を上げることで周囲からの信頼を得ました。彼は猛烈な勢いで出世していきましたが、同時に、秘密を隠し通し続けることに対しての不安が次第に募っていきました。彼の身体は、男としてのキャリアとは裏腹に、徐々に女性的な特徴を顕著に表していました。滑らかで艶を増してゆく肌、豊かに伸びる髪、腰から太腿にかけての肉付き、ふくらんでくる胸。それらの変化は、ギョンチョルがいくら鍛え上げ、筋肉をつけようとしても隠しきれないものでした。
ある日、ギョンチョルは会社のレセプションパーティでこれまでの業績を表彰されました。華やかな舞台の上で拍手を受けながらも、彼の心はどこか空虚でした。そのとき、一人の見知らぬ女性がギョンチョルに近づき、静かにこう言いました。「あなたは、本当にその姿で生き続けることができるの?」
その一言が、彼の心の中でかろうじて保っていた均衡を一瞬で崩壊させました。ギョンチョルは再び自分のアイデンティティに揺さぶりをかけられ、深い混乱に陥りました。彼は日々のストレスに耐え切れず、狂気に駆られるようになりました。鏡に映る自分の姿を見ながら、「おまえは女だ、男ではない、女だ、女だ」と心の声に脅されるような感覚に苛まれたのです。
狂気に駆られたギョンチョルは、結果を求めるあまり、部下たちに対して異常なまでに強く成果を要求するようになり、そのことで次第に会社での立場が危うくなっていきました。彼の言動は過激さを増し、会議室では怒鳴り散らし、資料を叩きつけることが日常茶飯事になりました。
ギョンチョルの姿は以前のカリスマ的なリーダー像とはかけ離れ、痩せこけた頬や落ちくぼんだ目は彼が精神的に限界に達していることを物語っていました。
誰の目から見ても、ギョンチョルが精神的に追い込まれていることは明白でしたが、彼自身はそれを認めようとはしませんでした。彼は「男」としての役割を果たしているという幻想にしがみつき続け、自分を追い込んでいったのです。
そんな中、ドンヒョンは、ギョンチョルの状況を見かねて、彼を地方に新設した子会社の社長に任命し、実質的に隠居させることを決意しました。子会社にはギョンチョルの秘密を知る数名の親族の社員のみが配置され、彼が必要以上に男として振る舞う必要のない環境が整えられました。この新しい環境で、ギョンチョルは次第に落ち着きを取り戻していきました。
そんな折、会社の近くのバーでウィスキーを飲みながら彼は、ふと幼少期の母のことを思い出しました。ギョンチョルが生まれて間もなく、彼は乳母に育てられました。実母とはほとんど顔を合わせることがなく、年に2~3回会えるかどうかでした。ようやく会えるときも、母はギョンチョルをかわいがることはなく、むしろ彼の姿を見るのがつらいといった様子で、目をそむけることが多かったのです。母親との接触は極めて少なく、母は何か重いものを背負っているかのように、ギョンチョルに対して冷たい距離を保っていました。
ギョンチョルの母は、彼が幼い頃から病床に伏していました。その姿を見て育ったギョンチョルにとって、母親はどこか遠い存在であり、その距離感は彼の心に深い影響を与えていました。母が亡くなる直前、彼女の枕元に呼ばれたギョンチョルは、その日もまた母の無関心な態度を覚悟していました。しかし、母は信じられないほど強くギョンチョルの手を握り、目を見開いて、ゼイゼイと苦しげな呼吸の中で、「可哀そうに、ギョンチョル……可哀そうに……」と繰り返しつぶやきました。その言葉の真意を理解できないまま、ギョンチョルは母の最期を見届けたのです。
母が息を引き取った後、ギョンチョルはその時のことを何度も思い返していました。そして今、ふとした瞬間に母の言葉が甦り、彼は彼女が抱えていた苦悩に気づいたのです。母は、自分の意思に反してギョンチョルを跡取りとして育てるという宿命を背負わせたことに対して、深い負い目を感じていたのでした。母親として、彼に「男」としての道を押し付けたことを後悔していたのかもしれません。そのため、母は彼に接触することを避け、愛情を注ぐことさえ拒んでいたのだと、ギョンチョルはようやく理解しました。
この回想が終わると、ギョンチョルは母が自分に対して持っていた特別な思いを今になって悟りました。彼には、母が心の奥底で、自分に「女」として生きてほしいと願っていたことが理解できたのです。しかし、その母の願いを受け入れることは、これまで「男」として生きてきた自分自身を完全に否定することに他なりません。ギョンチョルは何とかしてその思いを振り払おうとしましたが、それは容易ではありませんでした。彼は、バーテンダーにウィスキーのストレートを注文し、グラスを次々に空けながら、その苦悩を振り払おうとしました。酒を煽り続けるうちに、次第に酔いが回り、彼はカウンターに伏せるようにして意識を失っていきました。
その夜、ギョンチョルは眠りに落ちる瞬間まで、母の言葉が頭の中で響き続けました。「女としての人生」という言葉が、自分の中に根付いていることに気づかないまま、ギョンチョルは眠りに落ちたのです。