第七話
初めて出された珈琲を残し、初めて、ごちそうさま、を言わずに食卓を離れた。祖父と通話を終えると、心配か哀れみか、含んだ暗い瞳を浮かべるレイギルトさんに、大丈夫です、と一言添えて部屋に戻る。
一五分は経ったと思うが、サクラさんはお菓子を買いに行った切り、帰ってきておらず、私の雰囲気を味わい、黙々と薄めてくれたは、彼等二人だけだった。もしかすれば、二人に何も吐き出す事が出来ていなかったかもしれない。私の頭の中は曇った白色で、ノイズの様なものも聞こえる様な気がしていた。
レイギルトさんとどんな会話のやり取りをしたのかは覚えていないが、彼が言葉を探し、見つけられなかった様子で、放った言葉は覚えている。
「夕方頃、セリシアちゃん……君の祖母が病気で死んだ」
溜が長く、震えた声は低かった。焦点は散っていた。脳に媚びり付いている。
その後、彼は祖父に電話を掛け、私が代わった。そうする段取りだった様だ。
祖父との通話内容は、大丈夫か? という曖昧な質問と、もう一つは要約すると、三日間は忙しいからまだそっちに居てくれ、というものであり、私は二つに対して、うん、と喉だけ動かし、答えていた。
部屋の前に着き、殺していた息を、恐る恐る吐き、止めた。
……何してるの、まだダメだよ。
首を振るい、扉を開け、閉め、やっと左人差指の爪と肉の間に刺していた親指の爪を抜き、ほんの少し歯を合わせる。
口じゃダメだよ。鼻から吐くの。ゆっくり吐くの。
音を立てない様に息を吐き、膝をついた。唇を噛み締め、声を殺して泣いてしまい、人差指の爪と肉の間に、爪を刺す。でも、涙は止まらず、急いで、誰にも見せてはいけないノートへ文字を殴り書き始めた。部屋の電気が付いていない事に気付いたのは半分程書いた頃だった。
ダメだ、泣いちゃダメ。自分が今書いてる文字を読んで、読んで。泣いちゃダメ。わかるよね、泣いちゃダメだよ。それで誰か幸せになるのかなって考えよ。ほら冷静に、ここから下は冷静に書くの。
人は同じ「罪」をくり返す。くり返す。それがなんだよ。
それで、言い訳ばかりをする。どうしてかな、って聞いても、誰も答えてくれない。だって、自分にしか聞いたことがないから。聞けないよ。怖いから。でも、自分で考えてもわからない。何もわからない。もう今なに書いてるのかもわからない。頭が今ははたらいていないのかな。
涙が落ちてくる。なんつぶもなんつぶも落ちてくる。人が入ってきた時のことでも考えたほうがいいかもしれない。どうやって泣き止もう。
人はなんで死ぬのかな。お母さんは病気で死んだ。お父さんは事故で死んだ。おばあちゃんも今日病気で死んだらしい。なんで死ぬのかな。おかしい。不平等じゃないかな。
神様は、ほんとはいないんじゃないかな。でも、じつはちがうのかもしれなぃ。かしこい人がこっそり誰にも気付かれないように、天才的な方法で人を選んで殺してるんじゃないかな。
私は殺してもらえないのかな。殺してもらえないのかな。一緒に一気に殺してもらえないのかな。つらいつらいつらい。
これを書いて意味があるのかな。書いてて頭の中を吐き出せば、頭がはたらかなくなるって知ってる。楽になれるって知ってる。でも、頭がはたらかなくても、苦しいことに、ちがいはないんじゃないかな。楽って何かな。考えない事かな。だったら死んだほうが早くないかな。人間にはなんで死にたい時に楽に死ねる方法みたいなのがないのかな。ボタンでも押したらすぐに死ねたらいいのに。それがあれば楽に生きられるのに。いやだないやだないやだな。全部いやだ。
また夢で昔の事を見るのかな。お母さんが死ぬのかな。お父さんが死ぬのかな。今度は、おばあちゃんが死ぬのかな。私はどこに逃げたらいいですか、神様。
また泣くのをガマンしていればいいのかな。そうしたら、みんな不幸せにならないのかな。いやだな。助けてほしいな。助けてほしいって言える人はいいな。もう少しで紙がいっぱいなのに全ぜん胸が苦しい。なんで何も上手くいかないのかな。
いつしか、サクラさんの楽観的な性格全てを想像し、彼女の生活を想像し、いいな、と何度も呟いていた。クシャクシャの紙を伸ばして、伸ばして、伸ばして、破りそうになり、紙から左手を離し、口角を上げた。
「物にあたっちゃダメだよ……笑えばいいの、私も笑えばいいの。笑えば……」
歯を食い縛りながら、笑い、部屋の端へ向かって歩く。
地獄かな、って、地獄だよ……。
扉の間左に置かれた木椅子の上、リュックの上の白のベレー帽に触れ、掴み、左手で目を覆った。被り、直ぐに下ろすと、唇を噛みながら背側でギュッと握り、リュックを漁り始めた。
寝たら楽になれるのかな。なれるよ。なれなきゃ地獄だもん。夢も地獄みたいだったらどうしようかな。考えちゃダメ。笑って起きるの。幸せな夢が見れるから。大丈夫……。
「夜だから考えてしまうんだよ。ただ、それだけ……」
睡眠薬が入った袋を握り、中から小さな紙袋を取り出し、胸の前で握ると、お願いします、と呟き、凝視めた。自殺も想ったが、祖父の顔が掠め、首を振う。
「まだ……」
一錠だけを取り出した。一三錠しか残っていない。
リュックに帽子を蔵うと、ノートとコップが置かれいる机に戻り、雑に椅子を引いた。カタンと音が鳴った。続けてコンコンと音が鳴った。扉が叩かれる音だ。
振り返り、深呼吸をすると、手で目元を拭い、コホンと咳払う。柔い声の準備は出来た。
「はい?」
扉を開くと、桃色のふわふわパジャマを着たサクラさんが立っていた。彼女は布団と枕を抱いたまま、首を傾げた。
「ギギ?」
「あ、……はい、いいですよ」
「ギギギィギ」
私は愕然とした表情で扉を閉めたと思う。おじいちゃんが死んだと言う報告を想像してしまった事を自覚したのだ。
ノートが開いたままの事を思い出し、身体でベッドの方へ身体で誘導した。右拳を作り、睡眠薬を持った左拳を、自然を装い背後から横へ。唾を飲み込み、歩き出す。真後ろに来た机の上のノートを閉じ、隙間に薬を置く。
ベッドの上、サクラさんの隣に座り、やっと、サクラさんの目に焦点を合わせると、彼女は一瞬目を逸らした。彼女の目を見た直後、私が目を逸らす事になった。彼女が一枚の紙を突き出し、俯いたのだ。そこには文字が書かれており、私は黙読した。
おんなのこわ、わらっているときがいちばんかわいい
けど、ほんとにつらいとき
ないていい
おかあさんがいつてた
私は少しの間、俯いたままだった。ベッドのシーツを強く握っていたに違いない。熱くなった息をゆっくりと吐くと、柔い声を作った。
「ありがとうございます」
彼女は私の目を見て、直ぐに俯き、また見ては、視線を散布させ、ギ、と何度か言った後、深々と頭を下げ、部屋を後にした。
私は扉が閉まる音に合わせて、少しだけベッドを叩いた。
私はこんな人の前で一度でも泣いてしまったのか……。
「なんなの……」
熱い息を整え、机の上のノートを開いた。
もう寝たい。早く、早く寝たい。嫌だ。
ズボンの薄い布を握る。睡眠薬が見当たらない事に気付き、砂が溜まったベッドの下さえ探し、見つからず、リュックを眺めた。
これ以上減らしたら死にたい時に死ねない。でも、なら……。
おじいちゃんの優しい笑顔を思い出しながら、薬を探し、見つからず、布団に包まる。
枕に爪を立てると、歩き出し、リュックの中に手を入れた。昼にいた湖を思い出していた。