第四話
木陰で、私は呆然とサクラさんを眺めていた。
彼女は湖の辺りで、ガチョウを追いかけている。ギギュア! ギギュア! と叫ぶ様に、鳴き真似をして、手を腰の後ろでパタパタとさせ、走り回っている。無邪気に笑っては、時折唇の上で舌を回している。唇を上で舌を回すのは、癖の様だ。
ここに来て、四日目、既に私は危機感を失っており、時折、今も、彼女を見て、笑ってしまいそうになっていた。
風が吹き、髪が耳に触れた。膝上の本がパラパラと捲られる。
私は自身の日記の様な、誰にも中を見られてはいけない、そのA4サイズのノートを手に取って、雑に開くと、昨日の朝に書いた部分を読んだ。前日に書いた部分を、昼頃に読むのは日課だ。
夢。
やせたヘラシカの様なバケモノが、お父さんが運転してくれる車にひかれた。お母さんは後ろの席で、あわてていて、私もあわてた方がいいか、考えた。だけど、夢の中だからだと思う。なぜか、お父さんについて行ってた。車の外に出ると、バケモノは血を流して死んでいて、お父さんは「来なくていい」と私に言った。だけど、私は近付いて行った。何も考えないで、近付いて行った。バケモノの身体から赤い血がたくさん地面に出て、ピクピクはねては、死んでいく。目が黒くなっていく。私を見てくる。気持ちが悪かった。だけど、目がはなせなかった。それを見終えて、顔をあげて、お父さんを見ると、お父さんはその時に、バケモノの子供を銃でうった。うち殺した。もう一匹、バケモノの子供がいた。もう一匹は兄弟だと思う。もう一匹は、その兄弟をおいて、逃げ出した。お父さんは銃をかまえた。お母さんの泣き声が聞こえた。私は手を握ってもらって、車に戻った。お母さんはまだ車に乗っていた。お母さんは、「殺さなくても」と泣いていた。私はなぜか、ごめんなさい、と何度も言っていた。お父さんにも、お母さんにも、ごめんなさい、と言っていた。
目を覚ました。今までのが夢だって、知って、現実にも夢にもどこにも逃げ場はないんだと絶望した。絶望絶望絶望絶望…………ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
そういえば、きのうの夜、かりた本で「懺悔」って言葉を知った。きのう読んだ本には、神様にいのれば、ゆるしてもらえるって書いてあった。私はまずどの宗教に入っているのかな。それすら分からないバカな私は、どうすれば救われるのかな。おととい読んだ本には、絶望は人間に成長をあたえ、成長すれば、いつしか絶望のきょ容はんいが増えている、というようなことが書いてあった。本当なのかな。だったら、いつまで、絶望していたらいいんだろ。考えると死にたくなって、死ぬって言葉を考えれば。
私は、途切れている文を読み終えた。誰にも見せない日記は、朝と夜、A4に一枚ずつ書く。文字であれば、何でも良く、例えば、同じ「あ」という文字を書き並べるのでも良く、埋め終えると途中であれ、書き終えるのだ。
自分の左手に付いている泥を凝視め、ノートを閉じ、二日前にこの場所で抱いた疑問を再考し始めた。
人は多分、誰かを幸せに思わせる量よりも不幸に思わせる量の方が多いんだと思う。でも、産まれてくる。でも、望まれて、産まれてきた子供達はみんな、そんな事を考えないのかな。夜中にお母さんが居なくなったらって考えた時、一緒に考えないのかな。私は、考えなかった。だから、後悔ばかりしている。アホだ。バカだ。本を読んで、助けを求めてる。でも、どれだけ、登場人物に「前を向け」と言われても、顔を上げるだけで、偽物の笑顔を作るだけで、前へ進めない。
私は、桜風味の紅芋チップスと、フランスパンのラスクを齧った。サクラさんの好物で、毎日のおやつだ。美味しい。
彼女は、ガチョウに逃げられ、悲しそうに、湖の水をチョンチョンと突いている。唐突に笑顔を浮かべた。アメンボでも追いかけ始めたのだろうか。水面に手を浸けて、声を上げて笑い始めた。
「ギャハハハ。ギギャハハハ」
「お〜い、サクラ。そこ描いてるんだけど、もう少し何方かへ行けないかい?」
「ギィギ……」
以前、私が「ツノの無い吸血鬼」と疑った左手の無い彼に、「レイさん」と呼ばれているレイギルトさんに、サクラさんは不服そうな眼を向けた。彼女は、頬を膨らませると、フンと目を逸らし、何も言われてません、と言わんばかりに、頭の後ろで腕を組み、水辺を歩き、チャッカリと移動をしていた。
サクラさんは後悔などしないのかな。夜は、頭の中を全部紙に書き出さなくても、寝れるのかな。そうだよね。同じ夢ばかり見ないのかな。そうだよね。
「いいなぁ……」
私は嘆息すると、俯き、ノートの表紙を見て、また嘆息した。
ある本で読んだ事がある。過去の自分を他人として考えれば、心が楽になる、って。でも、そんなのは心に余裕が出来たから出来る事で、絶望から離れる事すら、忘れる事すら、恐れている私みたいな人には出来ないと思う。多分絶対、出来ない。私はお母さんに何か一つでも返せたのかな。
「死ね、か……」ボソリと呟き、唇を噛み締めていた。半年前、母が死ぬ前に、最後に交わした言葉だ。私が母に投げ捨てた言葉だ。
昼寝を演じて、顔に本を翳した。欠伸を演じて、口を手で覆った。
何泣きそうになってるんだ。馬鹿か、お前。お前。お前、お前が泣いて誰が幸せになるんだ。考えて、考えろ、よ。
唇が震えているのを感じて、私は歯を食い縛ると、空を見上げて、笑顔を浮かべた。
「青空は嫌い……明るい所ばかりで偽物みたい」
私は、身体を起こし、視線を湖に戻した。でも、何処にも、サクラさんの姿は無い。レイギルトさんの所にも居ない。視線を一周させた時、背後で音を聞き、振り返る。
読み書きの勉強の本を持ったサクラさんがいた。
「ギギ?」彼女は、右人差指を顎に当てると、首を傾げた。
私は引き攣った笑顔しか作れないまま、
「どうされました?」
と同じ方向に首を傾げていた。
彼女は私の目の前で立ち止まると、座り、頷き、地面に指を突き刺し、
「しね? だれ?」
と地面に書いた。
心臓がバクンと跳ねた気がした。
聞かれた。聞かれた。また、人を不快にさせた。
私は笑顔をやっと作り終えて、地面に手を突き、立ち上がる。
「え、いや……」手を前に出し、言葉を探しながら、首を振るう。
「ち、違うんです。別に皆さん、サクラさんに言ったわけじゃないんです。ほんと、違います。ごめんなさい。な、何でもないんです」
彼女は、首を傾げると、私の顔を覗き込み、レイギルトさんを一瞥すると、私に憐れむ様な目を向け、寂しげな笑顔を浮かべ、
「ギギ?」
と言った。
私は、いつの間にか、後ろへ、後ろへ、彼女から離れようと、後退りをしていた様で、背後の下りの斜面に気付く事なく、躓いた。
サクラさんの視線から逃れた安心感と、空を見ている不安感が、一気に襲ってきた。
「ギ‼︎」
サクラさんの声と走り寄る足音を聴いて、ドッと不安感が強くなった。
あ、また、迷惑を掛けてるな。
サクラさんに手を掴まれた。その瞬間、直前の憐れむ様な眼が脳裏を掠め、私は彼女の手を払っていた。坂を転がり落ちて行く。
お婆ちゃんとお爺ちゃんになんて言ったかな? ありがとうって言えたかな? 「セリシアはお爺ちゃん、お婆ちゃん、が大好きです」って言えたかな? お母さんとお父さんに言えてないのに言えるはずない、って理由をつけて言ってないな。バカだな。で、死ぬのかな──。
目を打った気がして、頭を打った気がして、気を失った。
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