第三話
汽車を乗り継ぎ、観光地や別荘地から、人里から離れる。紅葉の葉を踏み、湖沿いの細道を抜けると、そこには幻想的な風景があった。
小さな池には白色と赤色の睡蓮が浮いている。所々割れた石畳の道の先には、ユリリアス叔父さんから聞いていた通りの、和風カフェを再利用した、家があった。石瓦の屋根、木造感を敢えて残したであろう、本に出てくる古民家の様な建物は、とても美しい。
時折吹いてくる風は気持ちが良く、新鮮な空気は都会とは違い美味しかった。
玄関の横に置かれた、手作り感満載の木製長椅子は、私の中に残っていた一人旅の不安を消してくれた。
長椅子の端には、絵が四枚置かれていた。四枚とも、先程見てきた湖の絵で、とても上手い。しかし、一枚に一箇所ずつ、おかしな花が描かれている。その花だけが生きていない様に思えるのだ。
私は、失礼が無い様に、手鏡を覗いた。金色の髪は跳ねていない。白い肌も変に日焼けなどしておらず、汚れもついていない。
私は、祖母に先日買って貰った白色のベレー帽を胸の前で持つと、よし、と呟き、玄関の扉を叩いた。
「……」
玄関の扉を叩いた。
「……あのぅ、すみません」
扉は開かず、返答は無い。私は、紺色の小さなリュックを長椅子に置くと、横ポケットから、叔父さんから貰ったメモ用紙を取り出した。
「合ってるよ……時間も場所も、合ってるよ……」
湖の絵がカタカタと揺れた音を聞き、湖で冷やされた秋風を肌寒く感じ、人気が無い事に今更怯え始めていた。私は、足早に家の周りを歩き出した。庭には誰も居ない。家の裏にも誰も居ない。再度、玄関の前に立ち、扉を叩く。
「すみません」
返答はなかった。
冷静になろ。冷静に。出掛けてるだけ。直ぐに帰ってくるんだから、待てば良い。待てば良い。
私は、深呼吸をすると、絵を倒さない様に、ゆっくりと長椅子に座った。
「待つしかない、よね……」
ボソリと言うと、青空を眺め、何度か頷き、リュックの中を漁った。汽車の中で、読む為に買ってきた小説を、景色を堪能し、結局読めなかった小説を、握った。しかし、小説は下の方に埋もれており、無理に取り出してしまった為、睡眠薬が入った袋が地面に落ちた。
私は帽子を椅子に置き、屈むと、ガサゴソと葉の揺れる音を聞き、
「ぃ、何っ⁉︎」
と高い声を上げると、咄嗟に顔を上げていた。
目の前の茂みが揺れる。私は音を立てない様に、リュックの中に睡眠薬を戻し、椅子の上の帽子を握った。
また茂みが揺れた。ボロボロで泥塗れの人が出てきた。しかし、彼女にはツノがあり、一五〇センチ程の吸血鬼だった。
少しの安心感を得たが、同時に夜道で知らない男性に追われている様な不安感も得ていた。襲われれば力で抵抗など出来るはずがない。
私は、吸血鬼の肌に出来た切り傷が治っていく姿を初めて目にした。青い血が浮かんでいた傷口を半透明の液が纏い、固まり、瘡蓋の様なものが出来ると、直様ポロポロと瘡蓋の様なものが落ちてゆく。傷口はもう無くなっていた。
泥に塗れた、薄緑の瞳、桃色の髪を持つ女が、立ち上がり、歩み寄って来た。
私はリュックを胸の前に構え、ベレー帽を握り締め、目を合わせない様にしながら、視界には入れる様に、俯く。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。だから、田舎なんて来たくなかった。馬鹿、死ね、こっち来るな。嫌だ‼︎ 私一〇歳だよ。ここまで一人で来たんだよ。頑張ったよ、頑張った。頑張ったのに、なんで誰も居ないの。なんでこんな目にあわないといけないの。
辺りを見渡すが、人気は無い。私は、吸血鬼の目を、真っ赤に腫れた目を、一瞥して、目を瞑った。
「嫌……」
「ギィギ? ……ギィギ?」
幾数回、その声の様な音を聞き、私は、息を殺したまま、ゆっくりと目を開けた。
吸血鬼は、自身の胸の前で手を合わせて、オロオロと同じ場所を歩き回っていた。
「へ?」私は声を溢していた。
彼女は立ち止まり、私を見た。私の心臓がバクンと鳴った。
彼女は、私の目をジッと凝視めると、自身の顎に右人差指を当て、頷き、頷き、地面に指で何かを書き始めた。
彼女の敵意の無い様な姿を見て、私の警戒心は少し薄れていたのだろう。私は、地面上の幼子が書いた様な文字を読み上げていた。
「こめん……?」
「ギギ‼︎」彼女は嬉しそうに頭を縦に振ると、直様悲しそうに頭を下げていた。
私はその姿を見て、呆然としていた。
「……あ、ごめん? 謝ってるの?」
そう言った瞬間、私の中で罪悪感が生まれ、一気に沸騰した様な感覚に襲われた。私は口に手を当てていた。
やってしまった。失礼を働いてしまった。もう、ここにも居れない。最悪だ。
私は直ぐに立ち上がると、喉の下を震わせながら、頭を下げた。
「ご、ごめんなさい‼︎」
「ギギ?」
「こ、ここの家の方ですよね?」
「ギギ‼︎」彼女はフンフンと頭を縦に振った。
私が顔を上げると、彼女は笑顔を浮かべたまま、唇の上で舌を回していた。
吸血鬼と長椅子の上で横並びになり、本を片してから、三〇分程経っていたが、一切の会話は無かった。
私は、失礼が無い様にする為、風景を眺めるフリをしながら、視界の端では、彼女の奇行を眺めていた。彼女は何度も何度も自身の身体を舐めているのだ。
彼女から時折向けられる視線を感じ、私は睡蓮を眺めた。
やっぱり、何か言った方がいいのかな。でも、さっきの感じ、話せないのかな。だったら、失礼だよね。うん、話さなくて良い。話さなければ、人を傷付ける回数は減るんだから、話さなくて良い。
私が乾いた喉を鳴らした時、気持ちが良い風が吹き、木葉が舞った。その瞬間、左後ろで、大きな音が鳴った。
私は驚き、振り返る。
横開きの扉が開いており、三〇歳程の左腕の無い男が立っていた。
私は無意識に彼から目を逸らし、向け直していた。片腕だったからでは無い。ユリリアス叔父さんが時折見せる、あの死人の様な歪な瞳が、見えたからだ。
彼は扉付近に座っていた私に気が付いた様で、
「あぁ、もう着いてたのかい。ごめんね、サクラにお迎えに行かせたのだけれど」
と言い、私の右に座っている吸血鬼を一瞥すると、
「だけれど……ね」
と言いながら嘆息した。
「とにかく、上がるかい?」
「あ、はい。お願いします。その……」私はリュックを開いた。
「なんだい?」
首を傾げる彼に、
「これ、祖父と叔父さんから」
と言い、三〇センチ程の緑色の紙袋を手渡した。
「あぁ、気を使わせてしまって、すまないね。食べ物かなぁ。そうだったら、後でみんなで食べようか」
彼はクリーム色の跳ねた髪を掻きながら、頭を下げ、袋の中を覗くと、表情を曇らせた。紙袋を閉じ、私の目を凝視める。
「中は見たかい?」
「い、いえ……」
「そうかい。いや、何でもないよ。とにかく中に入ろうか」
「は、はい。……失礼します」
中に何が入っていたんだろ。
私は疑問で頭をいっぱいにしながら、頭を下げ、玄関を越えてしまった。
私の頭は、疑問を考える脳というのにでもなっていたのだろう。私は、廊下を歩く彼の背中を見て、ある疑問を抱いた。
彼等はいつから一緒に暮らしているのだろう。
そう思い、背後の吸血鬼を一瞥すると、彼女は首を傾げた。
二人共、三〇歳に見えるのはおかしくないか。
私は胸の中で不安が大きくなっていくのを感じた。
吸血鬼は、人の四倍生きられる。だったら、このサクラという吸血鬼は、一二〇年も生きていることになる。けど、子供にしか見えない。おかしくないか。
私は、目の前を歩く彼の頭を見つめた。
ツノのない吸血鬼なんて聞いた事が無いし、本でも読んだ事が無い。いや、ユリリアス叔父さんは昔一緒に軍で働いてたって言ってたし、この人は、人間なのか。
吸血鬼が私を追い越し、彼の手を握った。その瞬間、私は身震いを覚えた。私は、彼の右腕の服の袖に、青い液体が、吸血鬼の血の色をした液体が、付いている事に気が付いた。
私は何故か嫌な予感がして、振り返った。
帰りたい。嫌だ、怖い。
私は、前を歩くサクラの横顔を眺めていた。唇の上で舌を回す姿を眺めていた。
お互いまだ名乗っていないのだから、今直ぐ、帰れないか。……そもそも、普通、最初に名前を名乗り合わないか。
薄暗い廊下の木の軋む音が鳴った。
私はビクッとしながら、死んだ母の顔を思い出していた。
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