第二話
窓の外の空を見上げると、悪魔が天を覆っていた。無数の赤子の悲鳴が、雷の様に鳴っていた。数千本の青白く細い腕が、ゆっくりと手を伸ばし、僕達がいる地上へ降りてくる。腕から溢れ出た赤色と黄色と青色の血が、腕を伝い、指先に溜り、雨の様に降る。
部屋の中では、肘までしか無い青白い腕が、僕の首を絞めており、それは徐々に徐々に強くなっていた。
僕は、グラスの中の氷をカランと鳴らした。青白い腕から溢れた血とウイスキーが、水と油の様に分離している。氷に回され、混ざろうとしている。紋様は異民族が作る絨毯の様で、気色が悪かった。
首枷の様に付いている青白い腕の、手の甲には、瞳孔の開いた紅色の眼と所々噛み裂かれた唇がある。それは生きている様で、時折、瞬きをしては、続けて、悲鳴の様な声を上げる。
「助げでくだざぃ……」それが鳴いた。
僕は紅色の瞳を凝視めると、ウイスキーの血割りを飲み、飲み干し、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。マッチとタバコを取り出し、机に頬杖を突き直し、窓の外で人が銃殺されていく光景を表情一つ変える事なく、眺める。逃げ惑う女子供が撃たれて、転けて、撃ち殺される光景を眺めながら、煙草二本に火を点け、加えて、吸い、吐き、深く吸い、目を閉じた。頬杖を外して、煙草を両手に一本ずつ持つと、溜めた息を吐きながら、煙草の点火部を、両耳の中に押し込んだ。
「残しておくべきだったなぁ……」
僕は、酒の残っていないグラスを一瞥すると、ドアを開けて石畳を踏んだ。血生臭い様な気がした。僕は、拳銃を自分の鼻の左横に構えると、目を閉じ、引き金に指を掛けた。鼻を弾き飛ばし、ゆらゆらと地面に尻餅を付いた。
流れ弾が右横を走り超そうとした一〇歳程の女の子に当たった様で、彼女は這っていた。直様、天から青白い腕が彼女に降り寄る。腕数本が、彼女の四肢を捕まえ、捥く彼女の四肢を折り、上空に連れ去った。
僕は立ち上がり、辺りを見渡した。だけれど、辺りには誰もいなかった。
青細い腕は寄って来なかった。僕は地面に座り、自分の鼻だった部分から垂れる血を、呆然と眺めていた。鼓膜は焼けており、天の赤子の声すら聞こえていないにも関わらず、呻き声を聞いた気がして、僕は顔を上げた。
ゆらゆらと歩く軍服を着た男がいて、僕は彼の顔を覗いた。いつの間にか、僕は言葉を失っていた。彼は僕自身だったのだ。僕達は声を掛け合う事なく、同時に銃口を向け合った。その瞬間、僕は腕を摩られ、握られた。
「サクラ……」
目を開くと、僕の右半身は、言葉を話せない吸血鬼の抱き枕にされていた。
現代において、吸血鬼は、そこまで珍しいものでは無い。知能が人間と同程度の彼等は、人権を得ており、街で立ち止まり、辺りを見渡せば、一人は目に入る。血は人間の物で無くても良いという事が、一般常識とされており、殆どの人間からは恐れられる事は無く、共存していた。
通常、吸血鬼は人間の言葉を話すのだけれど、サクラは話せない。理解は出来ている様だ。以前、医者に診て貰ったところ、恐らくだけれど、過去にトラウマになる様な体験をした結果なのではないか、と聞かされた。というのも、彼女は言葉を発する事が出来なければ、文字の読み書きも出来ない為詳しい事が分からないのだ。唯一、「サクラ」と言う文字の様な物は書けたが、その三文字も形が崩れており、結局、「あ」から「ん」まで、どれに当たるのか、一音一音当てはめ、確認した。
冷や汗を見る限り、僕は魘されていたのだろう。そして、彼女は心配してくれたのだろう。
心地の良い、涼虫やコオロギ鳴き声が、部屋を包んでいた。僕が絵を描く時や落ち着きたい時に流すレコードの音だ。辺りを見渡すと、部屋の至る所に、冷水を入れていたであろう大皿が置かれていた。窓から吹き入る秋風は、少し肌寒いかった。
「ありがとな」僕の腕をギューと抱くサクラに、囁く様に言った。
玄関で電話が鳴った。
僕は、サクラを起こさない様に、腕を抜こうとするが、彼女は寝惚けたまま、ギィ……、と言い、嫌がる様に首を振るい、握り締めた。
僕は彼女に声を掛け、声を掛け、軽く揺らし、声を掛け、腕を振り、彼女の身体を押し引いた。彼女は半目で、僕の腕を甘噛みした。
「サクラ〜、起きれるかい?」
僕は重労働の予感に嘆息した。
結局、僕は、昨日に引き続き、朝の九時から、一人の女を廊下まで引き摺り倒し、息を切らしながら、ユリリアスからの電話に出ていた。
「「──」」
「それはそうと、明日だからな、明日」
「分かっているよ。何度も言わなくても、僕は馬鹿じゃないんだから。もうとっくに準備は終わっているよ」
「そうか、なら頼んだ。因みに、なんだがな、その子の好物は珈琲と甘い物らしい」
「そうかい、だったら用意しておくよ」
「それで、持論なんだがな、煙草と珈琲好きの女はなぁ、皆んな……エロい──」
僕は受話器を叩き置き、地面で未だ僕の足を握って寝ているサクラを一瞥した。
「……で、どうしてこうなるのだろうか」僕はトイレで嘆息していた。
彼女が起きてくれていないのだ。彼女が僕の右足首を握っているのだ。僕は再度嘆息すると、便器を前に、左足を前に出し、右足を後ろに出し、腰を落とし、体操時の伸びの様な姿勢を構えた。
「これは本当に嫌なんだけどな、サクラ……」
彼女はまだ起きてくれなかった。
僕は、満面の笑みのサクラの前で、半熟の卵焼とハムを乗せたパンを食べながら、彼女と出会って直ぐの頃を思い出していた。
その日、僕は昼飯を作らず、サクラと一緒に家を出て、近くの湖で絵を描いていた。
絵が一段落し、僕は、お腹が空いたなぁ、と呟いた。それを聞いたサクラは、僕を一瞥すると、服を脱ぎ、湖へ飛び込み、直ぐに上がり、僕の前で、ギィッ‼︎ と言い、胸を突き出し、魚を突き出し、笑顔を浮かべた。
食事を終えた僕は、皿を洗いながら、首を傾け、彼女に首元を差し出した。
「ギギギィギギギィギ」
彼女は食事を終え、深く頭を下げると、唇の上で舌を回しながら、皿を拭き、終え、自身の身体を舌で舐め回し始めた。
「また舐めてる」
「ギィ……」
「人前ではやめような」
「ギギ……」
僕に注意されたのが不満だったらしく、サクラはプイッと顔を背けた。
彼女は、拭いた食器を棚に戻す僕を数回チラチラと見ると、ギュッと僕の横腹に抱き着いた。手を拭いている僕の腕の下に頭を入れ、包丁を指差し、
「ギィギ?」
と言い、何度も包丁を突いた。
僕は、ゆっくり頷き、彼女の頭を撫でると、
「大丈夫、今日、分かっているよ。夜……殺してあげるよ」
と笑顔で言った。
「それじゃあ、後でお薬を買いに行こうか」
「ギィギ‼︎」
嬉々と跳ねた彼女は、僕の手を握り、指を絡めると、首に唇を当てた。
僕は鏡の前で額に手を当てた。自信の首につけられた大量のキスマを見て、嘆息した。
「どうしようかな、これ……」
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