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1000番目の記録

作者: 榛名水木

“1000番目の記録”



 人間が歩いている地面とは少し離れた場所に、“ここ”はあります。

 “ここ”はとても殺風景です。空のベッドが一つ置かれている他には、家具らしいものは何一つ見当たりません。更に変わっていることに、“ここ”にはベッドの四方に真っ白い壁がありますが、それらを平面で結ぶはずの天井がありません。てっぺんを知らない真っ白い壁が、延々と高くまで続いています。



+



 さて、ここのイメージは想像できただろうか。出来たならば、そこが僕のいる場所だ。

 僕がここに来てから、随分経った。そのはずなのに、やって来た当初からずっと、僕は二十四歳と十一ヶ月のまま。老けることもなく、体力も知識もまったく当初のまま、僕は二十四歳と十一ヵ月だ。当初控えていた二十五歳の誕生日に、僕は彼女との夕食を約束して、わくわくしながら待っていた。可愛くて茶色い髪をしていた彼女は今、何歳になっているのだろう――そもそも、まだ生きているだろうか。ここには時間の流れがないから、それさえ分からない。

 どうやら僕は、死んだらしい。痛みも苦しみもまったく覚えていないけれど、僕は随分前に交通事故で死んだらしかった。まだここと向こうの世界との往来が自由に出来た頃に、僕は自分の墓を見た。仏花と僕の好きなチョコレートが供えられていて、父と母が手を合わせて泣いていた。別の時には彼女が、僕の母と二人で同じように手を合わせて泣いていて、また別の時には、彼女は知らない男と少女を連れて、三人で手を合わせていた。もう泣いていない顔でさよならを言われて、思わず僕が泣いた。

 どのくらい経ったか分からないが、ある時、ここに閉じ込められた。僕のような半透明の姿を見ると、向こうの世界の人間がパニックを起こすから、という理由で、僕含め、こっちの世界に暮らす者たちは、向こうの世界に行けなくなった。そうそうすることもないだろうと勝手に仕事を割り当てられ、その結果、僕はここの見張り役になった。見張りと言うほどのことはない、ただ座っているだけ。時々相手を慰めたり、時々相手と談笑したり、時々相手に怒ったりしながら、僕は淡々と仕事をこなしていたが、そのうちそれもつまらなくなって、僕はある時、神様の書斎からペンと羊皮紙をごっそり持ち出した。相手のことを、一つでも書き留めておこうと思ったのだ。そうすれば、後で読み返す楽しみも増えるし、何より暇つぶしになる。

 そんな経緯で始めた“記録”も、気づけば九百九十九を数えた。丁度今、千人目が降りてくるという連絡が入ったので、僕はペンと羊皮紙を手に取る。いつもと同じように“1000番目の記録”と題して、どうせ千番目なら何か変わった書き方をしようと思い、僕はこの記録を一つの物語にすることにした。それが、これだ。



+



 延々と高いところから、一人の少年が降りてきました。少年は眠っているようで、自分がそこへ浮いていることも知らずに静かに目を閉じ、ゆっくり、ゆっくり、仰向けのまま降りてきます。その様子を見上げる若い男性に驚く様子はなく、ただそっと微笑んでいます。

 枕に頭を乗せ、ベッドに降りた少年に、男性は優しく毛布をかけてやりました。男性は、降りてきた人にはいつもそうします。向こうの世界から弾かれた瞬間というのは、誰もが寒い思いをするものですから。現に男性も、そうでした。

 少年が、寝言のような小さな声を出しました。怖い夢でも見ているような様子で、眉間にしわが寄っています。向こうの世界で、何かとても怖い思いをしたのでしょう。ペンを動かす手を止めて、男性は少年の顔をそっと覗き込みました。縮こまるように毛布を鼻まで引き上げ、寝返りを打って、少年はゆっくりと目を開けました。必然的に、男性と少年は目が合います。

 こんにちは、と男性が笑いかけると、少年は大きく震えて、怯えたような顔をしました。同時に何か喋ろうとするのですが、パニックになっているせいでしょう、ちっとも言葉になりません。男性は笑顔のまま言います。

「怖がらなくていいよ。俺は、君を刺したりしないから。君がさっき道ですれ違った男の人と違って、ね……」

 ベッドの端の方に必死で這っていき、布団を抱えて縮こまる少年は、なんとか男性と距離を取ろうとします。酷く警戒され、困ったような顔をする男性は、先ほどまで書いていたものに目を落として何か書き始めました。

 書いているそれは、どうやら一つの物語のようでした。所々に改行がなされ、ときどきカギカッコで会話文が出てきます。男性のペンはリズム良くすらすらと進んで、今、物語の中の誰かが“終わりを考えてるんだよね……”と言い、

「終わりを考えてるんだよね……」

 男性はそれを声に出しました。

 少年はまだ怖がっているような素振りを見せますが、男性はそれには構わない様子で、ペンを動かしながら独り言のように呟きます。

「何か、ないかなぁ……」

 組み直した足の上に羊皮紙の束を置き、男性はぐっと伸びをしました。高くなった目線から見上げた先の壁には、先ほどまでは無かった、小さな観葉植物の鉢が吊り下げられていました。その向かいの壁には、男女に挟まれた少年が笑いながらピースサインをしている写真。男性の目線を追って初めてその存在に気づいた少年は、その他沢山の洋服や三輪車などが色々な高さの壁から浮き上がって吊り下げられていく様子を見て、驚いたように目を丸くしました。植木や花の数が極めて多く、黄色の鮮やかな物、蔓の長さが鉢の何倍もある物、少年の顔よりも大きな花が咲いている物、などなど、沢山浮き上がって吊り下げられていきます。色も形も実に様々な観葉植物の見応えは、とても素晴らしいものでした。

「おうち、お花屋さんだったの?」

 それらを眺めながら、男性が尋ねました。少年は、その全てに必ず見覚えがあることに尚更驚いている様子で、目を見張りながら頷きます。男性に対する恐怖心を驚きが上回ったのか、目立った怯えの見えなくなった少年の姿に、そう、と嬉しそうに男性が微笑みます。

「すごく綺麗に咲いてるね。お仕事、手伝ったことはある?」

「うん……あるよ。乾いてるやつにお水をあげたり、枯れちゃったのを切ったり、とか」

 ぎこちなくもようやく言葉を話しだした少年が、恐る恐るベッドの上に立ち上がりました。黄色いチューリップの花々の中に、一輪だけ枯れてしまっている花を見つけたのです。手元に浮き上がって吊り下げられたハサミに目をやり、おっかなびっくりそれを手に取って、少年はそのガクの下を切ってやりました。

 男性が、遠くの壁に、血のついた包丁が浮き上がってきたのに気がつきました。すぐ横に、真っ赤に染まったシーツや呼吸器、包帯も出てきます。少年に目を向けると、手に枯れた花を握った少年も、じっとそれを見ていました。少し悲しい顔をして、少年は俯いてしまいます。そんな少年の髪を優しく撫でてやると、男性は言いました。

「これから君は、ずーっと上へ行くんだよ」

「ずーっと……上? あそこのヒマワリよりも、もっと上?」

 床から十メートルほど高い所に吊り下げられたヒマワリの青い鉢を指差し、あどけない顔をして聞いてくる少年に、男性は微笑みながら頷いて、ずーっと上、と繰り返しました。ふうん、と見上げた少年の横で、男性はもう一つ言います。

「持って行きたいもの、なーんでも持って行っていいんだよ」

「なーんでも? じゃ、全部でもいいの?」

 また男性は頷いて、なーんでも、と繰り返します。それを聞いた少年は、楽しそうなうきうきした顔をしましたが、でも、と言ってまたすぐに顔を曇らせてしまいました。どうしたの、と男性が尋ねると、

「僕、くまさんも欲しいし、赤い車のトレーナーも欲しいし、お砂場遊びのシャベルとバケツも欲しいけど……」

 “もっと”。少年は、小さな声で言いました。それを聞いた男性はその意味が何となく分かって、そう、と言って少し笑いながら顔を曇らせました。こんなに幼いのに、可愛そうに――。男性は、胸の中でそっと思います。羊皮紙の上にペンを置いて、また俯いてしまった少年の肩をそっと両手で掴むと、男性は笑顔で言いました。

「ずーっと上に行けば、きっと、もっと素敵なものが見つかるよ。見つけに行こうよ」

 少年は嬉しそうな笑顔を見せました。きっと、きっとあるはずです。少年にも男性と同じように、長い“先”が待っているのですから。

 男性は再びペンを取って、物語の終盤を書き連ねていきます。会話文の後に少しの文章、最後に短い会話文を付け足して、丁寧に、丁寧に、その終わりのカギカッコを書きます。うん、と頷いた男性は、ペンにキャップをしました。羊皮紙と一緒にベッドに置いた男性は、そこに立ったままの少年を見上げます。


 彼が向かう先に、彼の“もっと”が見つかりますように。

 彼が、彼の家族や周りの人たちが、また笑って過ごせますように。


 男性は心の中で強く祈って立ち上がり、少年の手を取りました。

「幸せになるんだよ」

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