一章 悔しさだけは忘れなかった その2
空港に着くなり、スマホに電話がかかってきた。
ちょうどトイレの個室に入った時だったため、周りには誰もいなかった。
画面を見やると、『まな子』の名前が表示されていた。
「もしもし?」
『ククク、我は冥界の王たる者……』
電話に出るなり、大仰に芝居がかった若い女の声が聞こえてくる。
俺は苦笑を漏らしつつ、遮る形で言った。
「いや、そういうのはいいから」
『むぅ……。前口上を遮るのは無礼極まるぞ』
「毎回聞かせられる身にもなってくれ。……で、用件は?」
先を促すと、途端にまな子は口ごもった。
『……いや、その。ついさっき、ネットニュースを見て……』
「ネットニュース? ……ああ」
遅れて俺は言わんとしていることに思い至る。
まな子が一音一音を慎重に置いていくような調子で訊いてくる。
『……なぜ、そなたが『エデン』を辞めさせられたのだ?』
「ネットの方は、どう伝えてるんだ?」
『重大な規約違反を犯したため……と』
「重大な契約違反……悪くない響きだな」
乾いた笑い声が我知らず漏れた。
『笑いごとではなかろうっ!』
「まあ、な。そんなことを書かれたら、世間体にかかわる」
『……のう、盟友よ。……えっと』
受話器越しにまな子が悩んでいる気配が伝わってきた。
俺は天井の照明を眺めて、次の言葉を待った。僅かに心地よい影を残すように、絶妙に光量が調節されている。まるでこの一室を舞台にでも仕上げんとしているかのように。
ややあって彼女は言った。
『そなたは、本当は契約違反などしていないのではないか?』
「……どうしてそう思う?」
『我の知っている田斎丹生流という者は狡猾ではあるが、決して悪事に手を染めるような痴れ者ではないからな』
「ずいぶん高く買ってくれるな?」
『ククク、我の人を見る目は確かだからな』
「どうだか」
どうせ向こうには見えないが、思い切り肩を竦めてやった。
まな子は心なしかあった強張りが取れた声で言った。
『思ったよりも落ち込んではおらぬようだな』
「まあ、な。捨てる神あれば拾う神あり、ってことだ」
『ふむ……? まあ、よい。そなたは今、どこにいる?』
「ついさっき、日本に帰ってきた」
より正確に言えば、空港の中にある夢咲家のプライベートスペースだ。ただまあ、そこまで伝える必要はないだろう。話が長引くし、和花をこれ以上待たせるのも心苦しい。
『……今、我以外の女子のことを考えていたな?』
なぜか不機嫌な声が聞こえてきた。
「まさか。『エデン』から追放された俺は、ただの冴えない男に過ぎない。ハーレムはもう崩壊したんだ」
『はっ、ハーレムだとっ!? そなたっ、『エデン』にいた頃どのような生活をっ……』
「そろそろ、切るぞ。こっちもそこまで暇じゃないんだ」
スマホを耳から離しかけた時、『まっ、待て待て、待たぬかッ!』とまな子の慌てた声が聞こえてきた。
俺はやれやれとため息混じりに応じる。
「なんだ?」
『今夜、時間はないか? 久方ぶりに夕餉を共にしたいし、話したいこともあるのでな』
「夕食……か」
ちょっとばかし考え込んだ。
和花の世話になると決めた以上、彼女に無断で予定を入れるのは失礼千万だろう。
だが久しく顔を見ていない友と会えるこの機会、みすみす手放すのは惜しい。
「今、どこにいる?」
まな子から聞いた場所は、俺のいる空港からそこまで離れていなかった。
「五分後ぐらいにもう一度電話する」
『うむ、わかった。再会できることを楽しみにしておるぞ』
「俺もだ。それと……」
俺は一拍の間迷った後、結局己が思いを口にした。
「……ありがとう」
しばしの静寂が続いた後、軽く鼻で笑うのが聞こえた。
『我が親友でよかったであろう?』
「ああ。本気でそう思う」
『む……、そ、そうか』
俺も鼻から一笑を漏らし、ひとまず通話を終えた。
○
水音を背に聞いて個室を出た後に手を洗い、ハンドドライヤーを使った後にハンカチで念入りに湿り気を取った。
それから和花が待っているラウンジへと向かった。
俺が入ってくるのに気付くなり、ヴィンカが手を上げて出迎えてくれた。
「ヘイ生流、ウェルカム・バック!」
「ただいま。……なんか鼻がすっとなるような匂いがするな?」
「……ハーブティー。生流も飲む……?」
「ああ」
和花はヴィンカを見やり、アイ・サインを送る。
ヴィンカは「かしこまりマシタ」と答えて手際よく俺の分を用意し、淹れてくれた。
夕空を思わせるような琥珀色が透明なカップを満たしている。
口に含むと、キシリトールガムを噛んだような爽やかさが広がった。マズくはないが、好んで自分で飲むような味ではない。
「美味しい……?」
「まずまずだ」
「そう……。体にはいいんだけど……」
「まだそんなことを気にする年じゃないだろ?」
「そうね。……わたし、色んな味を楽しむのが好きなの」
「美食家か?」
「……どうかしら」
俺はカップをソーサーに置き、「ところで」と切り出した。
「ついさっき、友人が夕食を一緒に食べないかって連絡してきたんだが」
「ワォ、フレンドデスカ?」
「ああ。今日はソイツと一緒にディナーに行きたいんだ。世話になるって言ったばかりで、悪いんだが……」
「どうシマス、お嬢サマ?」
「……その友達っていうのは?」
「なんていうか……、ちょっと変わったヤツだ。古きよき中二病罹患者で、自分のことを冥王とか言ったりする」
和花はピクッと片眉を跳ねさせて訊いてきた。
「男?」
「いいや、女だ。でも、話してると同性といるような気分になる。気安い仲なんだ」
「そう……」
和花は顎に手をやり、下唇を親指で持ち上げるような格好で静止した。
俺はその間、肩越しに換気のためひとりでに開閉するハイサイドサッシをぼんやりと眺めていた。その動きはとても自然で耳障りな音もない。まるで不可視の手が窓を握って戯れに動かしているようだった。
やがて和花の「いいわ……」と呟くような声が聞こえた。
視線を戻すと、和花は両手を机の下にやっていた。膝の上できちんと手をそろえているんだろうな、と見ずとも容易に想像できた。
彼女はヴィンカの方へ視線を送って言った。
「……ヴィンカ、今日はもう一人お客様が増えるから……お願いね」
「イエス、サーテンリィ。一名追加デスネ」
俺は二度ほど瞬きしてから訊いた。
「お客様って……?」
「あなたのお友達……。わたしの家に、来てもらうことにしたわ……」
「えっ、いいのか?」
「もちろん……。生流のお友達は、わたしのお友達でもあるから……」
そう言って和花は微かに口元を緩めて微笑した。
「意外と社交的なんだな?」
「ええ、……わりかしね」




