一章 悔しさだけは忘れなかった その1
俺は漫然と窓から見える景色を眺めていた。
青空の下を白い雲が流れている。それが途切れると、藍色の海。
上空、約3万3,000フィート――天空の世界。
人はたゆまぬ努力によって知識と技術を積み重ね、ここに辿り着いた。
今となっては飛行機に乗ることさえできれば、誰でもこの光景を目にすることができる。神が住まうと思い描かれていた、この場所に。
近い未来、宇宙空間で過ごせるホテルが作られるという話もある。
物理的現実世界でただ高みを目指すだけならば、金さえあれば割と容易い。何か特別な技能を身につける必要もない。
だが頂上となれば、話は別である。
現実であっても、山の頂に辿り着ける者は限られている。
特にヘリが近づけないような厳しい環境にある山の天辺には、長い時間をかけて登山に耐えうる体力と技術を身につけた者のみが立つことができるのだ。
持ち上げた手を見やる。
かつてはゲームのやりすぎでマメができたが、最近はいくらプレイし続けてもそんなもの見なくなった。
どれだけの時間をかけて、昨日の決勝戦まで辿り着いたのだろう。
天才に達するとされる、1万時間は優に超えていると思う。
だがそれでも敵わなかった。
おそらくは、相手の方がもっと努力してきたのだろう……。
「……ねえ、どうしたの?」
声をかけられ、俺はふと我に返った。
向かいの席に座る茶髪の少女が、俺の顔を覗き込んできていた。
俺は慌てて作り笑いを浮かべて言った。
「あ、ああ、いや、なんでもない。ちょっと考え事をな……」
「考え事?」
「チームメイトとか……あとはまあ、妹のこととか」
「……妹って、『エデン』のティアラよね」
「ああ。本名は天に愛って書いて天愛……いわゆるキラキラネームっていうヤツだな」
少女は「へぇ」と気のない返事をした後、首を傾げて訊いてきた。
「そうすると、アイルも?」
「ううん……、ちょっと微妙なラインだな。俺の名前は誕生の生に、流儀の流で生流って言うんだ。この説明でわかるか?」
「……こう?」
少女は慣れた手つきでスマホを操作した後、スクリーンを見せてきた。表示されたメモアプリの画面には、きちんと俺の名前があった。
「正解だ。……小学五年生ぐらいか?」
「いいえ、四年生よ……。わたしは夢咲和花……」
「夢咲っていうと、IT企業最大手のドリームズ・フラワーが思い浮かぶんだが……?」
「わたしはそこの代表取締役社長の……娘」
「そりゃ、すごいな」
俺がそう言うと、少女の隣に座っていた金髪碧眼の女性が「アハハッ!」と笑った。
女性はすらっとした長身をメイド服に包んでいた。露出は少ないのにどことなく色っぽい雰囲気が漂っている。エプロンドレスを押し上げるように膨らんだ胸とかが目を引くからだろうか……。
「やっぱりユーはファニーデスネ!」
「……本職メイドの方が、今時は面白いと思うが」
「お嬢サマに会った人は普通、もっと腰を抜かして目の玉をフライさせマスヨ!」
「今時、目の玉が飛び出るなんて埃を被った表現するお前の方が、よっぽど面白いと思うけどな。……ええと、名前はなんだっけ?」
女性は笑いすぎて目から零れた涙を指で拭いながら言った。
「ミーはヴィンカデス。ヴィンカのヴィは、ウに濁音と小さなイデスヨ」
「……よし、今度こそ覚えた。……多分」
「忘れても大丈夫デスヨ、何度でも答えマスカラ」
「ああ、ありがとう。これからよろしくな。和花、ヴィンカ」
「ええ……」
「よろしくデスヨ!」
俺は和花、ヴィンカの順に握手を交わした。
手を離した後、和花は自分の手を見つめてほうと息を零した。
「もう二度と……手を洗わない」
「いや、別にそんな大層なものじゃないぞ? つい数時間前にプロゲーマーの肩書きだって失ったしな」
「……それでもわたしは、あなたを尊敬する」
「どうして?」
和花は自身の瞳に俺の姿をぶれなく映して言った。
「アイルのプレイング動画……、あれを見た時からわたしは、あなたのファンだった」
じぃんと、胸中に沁みるものがあった。
俺は心の底からの思いを込めて彼女に告げた。
「ありがとう」
「……なんでお礼を言うの?」
「嬉しかったからだよ。……プロゲーマー時代には、ほとんど褒められた記憶がないんだ」
和花は僅かに眉根を寄せて、首を傾げた。
「……どうして『エデン』は、ほとんど大会に出なかったの?」
「安い賞金の大会には出場しない。それがチームの方針だったんだ」
ヴィンカが歯を見せるように苦笑して言った。
「ミスター・古吉らしいデスネ」
「知ってるのか?」
「わたしもヴィンカも……、何度か会ったことあるの。パーティーとかで……」
「なるほど。資産家の横の繋がりか」
「あまり顔を合わせたくないけど……、馴れ馴れしく来るから嫌でも覚えさせられた」
感情をほとんど表に出さない和花にしては珍しく、渋い表情になっていた。
俺は思わず苦笑を漏らしてうなずいた。
「気持ちはよくわかる。アイツとは二度と顔を合わせたくない」
ふと思いついたようにヴィンカが「そういえば」と口にして訊いてきた。
「どうしてクビになったんデスカ?」
俺は控え室でのやり取りをかいつまんで二人に話した。まあ、ヴィンカがディテールを気にするような質問を繰り返してきたため、結果的には事細かに話す羽目になったが。
「そう、殴られたの……。大丈夫だった?」
心配そうに問いかけてくれる和花。俺は努めて笑みを浮かべてかぶりを振った。
「全然、平気だ。ヤツの趣味がゴルフで助かった」
「ボクシングだったら今頃骨折してたかもデスネ」
俺は軽く一笑して肩を竦めた。
「まあ、殴られるのには慣れてる。条件反射で涙が出る程度には」
「痛かったでしょう……。可哀想……」
和花は俺の頭に手を伸ばし、砂時計の砂が落ちるような音を鳴らすように撫でてきた。
「いや、別に同情してほしかったわけじゃないんだけど……」
「安心して……。もう大丈夫だから……」
「お嬢サマ……もしかして?」
ヴィンカがきゅっと唇を釣り上げてこちらを横目で見てきた。
和花は僅かに小首を傾げて訊いてきた。
「生流……。あなたさえよければ……、しばらくわたしの家に来ない……?」
「えっ……? お、俺が和花の家に!?」
彼女はこくりとうなずいて言葉を継ぐ。
「……ええ。今のあなたは……きっと、疲れてるはず。だからゆっくり休息を取ってもらおうと思って……。もちろん、嫌なら断ってくれていいわ……」
俺はティーカップを手に取り、紅茶の湖面から底に描かれた、紫色の花の絵を見ながらじっくり考えた。
「あ、ちょっとお花摘みに行ってきマスネ」
そう言ってヴィンカは席を立ち、化粧室へと向かった。
ほどなくして、美しくもそこはかとなく切ない響きのピアノの伴奏が流れてきた。どこかにスピーカーがあるのかと軽く見回したが、それらしきものはない。目につかないところに隠されているのだろうか。
些末な疑問は次第にピアノの音色に取って代わられていった。
「この曲は?」
「モーリス・ラヴェル作曲の『なき女王のためのパヴァーヌ』」
「いい曲だな」
「そうね……」
しばらく俺は頭を空っぽにして、その曲に心を委ねていた。
曲が終わる頃に、和花がゆっくりと口を開いた。
「わたしからも訊いていい……?」
「ああ、なんだ?」
「これは純粋な興味からの……疑問なのだけど。生流がプレイヤー・ネームとして使ってるアイルって、どういう由来があるの……?」
「多分、拍子抜けするぐらい単純だ。フランス語で教会とかの建物の出っ張ったところをaisleって呼ぶらしいんだ。ラテン語のala……翼が変化してそうなったんだと。込められた意味はそれだ」
「翼……?」
「そう。どこまでも羽ばたいていけるように、って。後はアイルの音についてだが、こっちはもっと簡単だ。わかるか?」
和花はしばし黙考した後、ふるふるとかぶりを振った。
俺は香り高い紅茶を一口含んでから答えた。
「生流を別の読み方にしただけだ」
「……生って、『あい』とも読むの?」
「ああ。生憎、とかな」
「あ、本当ね……」
軽く目を見開く和花。普段表情の変化が少ない分、こうやって反応が見られるとなんだか少し嬉しかった。
だからか、俺は蛇足とも思える説明を続けていた。
「生っていう字は面白くて、実は百個以上の読み方があるらしい」
「えっ、そんなに……?」
「多分、縁起のいい漢字だからって調子に乗ってみんなして使おうとした結果なんじゃないか……っていうのは、俺の想像だが」
ほうと息を吐いて和花が言った。
「アイルって……国名から来てるのかと思ってた……」
「ちなみにアイルランドのアイルは、向こうの読み方だとEireらしい。その由来はさっぱりだそうだが」
「……生流はアイルっていう名前、好き?」
俺はテーブルの上のクッキー一つつまみ、くるくると裏表を見やりながら言った。
「長いこと使ってたから、愛着はある。それに優柔不断なせいで、百個近くの候補の中から選んだしな」
「すごく多い……。他には……どんなのがあったの……?」
「エール、天空、セリカ、リバー、ウィクトーリア……とかだな」
「勝利の女神……」
「ウィクトーリアか。それもかなり安易な思い付きだったな」
「……聞かせて」
「生流を『しょうりゅう』って呼んで、『ゆう』を取れば『しょうり』になるだろ?」
「あ……、確かに。……選ばなかった理由は?」
「優勝を取り逃すっていう意味にも取れかねないからな」
「……縁起とか大切にしてるの?」
「和花は?」
「わりかし……」
「俺もだ」
クッキーをかじった。サクリと音が鳴る。仄かな甘味が広がる。市販で出回っているものより、上品で優しい味がした。
「アイルっていう名前が好きか、っていう話だったな?」
「……ええ」
「実は最後まで自分じゃ決められなかったから、代わりに妹に選んでもらったんだ。で、俺のプレイヤー・ネームはアイルになった」
「どうして、それを……?」
「おそろいだからだってさ。ティナの漢字が天と愛だろ?」
和花は蝶が蜜を吸う時のように、紅茶に鼻を近づけて言った。
「……仲いいのね。妹と……」
「ああ」
残ったクッキーを食べ終え、口の中を紅茶ですっきりとさせる。
香しい匂いは、俺を夢心地にさせた。頭がぼうっとしてくる。
「なあ」
「……なに?」
人形がするような、完璧な姿勢を保ったまま和花は首を傾げた。
俺は灰色の瞳に吸い寄せられるように視線を合わせて言った。
「しばらく、お前の家で世話になっていいかな?」
和花は長い睫毛をそっと伏せ、流れ出した曲に耳を澄ませるようしばらくじっとしてから目を開き、微かにうなずいて言った。
「……ええ、もちろん」
そう答えられるはずだとわかっていたはずなのに、彼女の声を聞いた瞬間に俺は天にも昇るような気持ちになっていた。
踊っている音色も俺の気持ちをそのまま表しているかのようだった。
「これはなんていう曲なんだ?」
「クロード・ドビュッシーの『喜びの島』」




