五章 If ~誰もが一度は心で唱える言葉~ その2
「わぁ……、きれい……」
ホールに飾られたクリスマスツリーを見上げて、和花が感嘆の声を上げた。
それは確かにLEDライトやオーナメント、他にも多様なものが贅沢に飾られていて、子供の夢みたいに輝いていた。もっとも、今の子供達がどんな夢を持っているかなど俺はまったく知らないが。
「ククク。盟友よ、なぜツリーの天辺には決まって星が飾られているか知っているか?」
挑戦的にまな子が出題してきた。
俺は普段は閉じ切っている記憶の倉庫を開き、中を探りながら言った。
「確か、ベツレヘムの星を表してるんだろ。それとクリスマスツリーは知恵の木にもたとえられて、オーナメントは禁断の果実を暗喩している……だったか?」
「正解だ。さすが歩く魔導書館と呼ばれるだけあるな」
「そんな呼び方は初めてされたが……。まあ、知ってて当然だろ」
「ほう、なぜだ?」
「俺は『エデン』に所属してたんだぞ?」
まな子は息を飲んで瞠目し、それから微かに吐息を漏らして細めた目を星へと向けた。
「……そうであったな」
俺は我知らずその星に向かって手を伸ばしていた。
……あるいは、救世主がいれば。
途中でふとおかしさが込み上げてきて、苦笑しながらその手を下ろした。
神などいない。少なくとも、俺に肩入れしてくれるようなヤツは。
パルスタの受付で入館手続きを済ませ、俺達は控え室のあるフロアに移動した。
エレベーターから下りてすぐ俺は言った。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」
「控え室の場所、わかりマスカ?」
「多分、大丈夫だろう。館内マップもあるし」
「まだ時間はある。迷宮を彷徨うのも一興であろう、ククク」
「勝手に見学したら怒られるだろうし、そんな子供みたいなことはしないよ」
「むう……、そうか」
「見て回る……、つもりだったの……?」
「無礼な。我がそんな童のような真似をするわけなかろう」
「ワンダフォーな変わり身デスネ。さすがジャパニーズ・ニンジャ」
「我は冥王であるぞ! そんな姑息な輩と一緒にするでない!!」
「じゃあ、やっぱりチルドレンデスカ?」
「違わいっ!」
「……コイツの御守り頼んだぞ、ヴィンカ」
「オフ・コース。メイドとしてしっかりお役目果たしマスネ」
「我は童ではないと言っておろうがーっ!」
賑々しい声を背に聞き、俺はお手洗いへと向かった。
案内標識を頼りに向かった先。壁に遮られることない広々とした窓から、ビルの谷間のすぐ上に浮かんだ夕日が見えた。それは今にも地面に落ちる寸前の、線香花火の火種のようだった。
用を済ませて夕日の見える場所まで戻ってくると、そこには和花がいた。
「和花……」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを見やった。
彼女が何も言わないのでちょっと戸惑いながらも、俺は尋ねた。
「……夕日を見てたのか?」
「ええ……。きれいだもの……」
和花が普通に答えてくれたことに、内心俺は少しほっとしていた。
「そうか。クリスマスツリーとどっちがきれいだ?」
「それは……、決められないわ……。でも……」
「でも?」
和花は腰を軽くかがめて、上目遣いに俺を見上げてきて言った。
「……あなたと、一緒に見れるなら……。どっちも……」
「……」
「…………」
「……………………照れるなら、最初から言うなよ」
「だって……」
赤らんだ顔を背ける和花に、俺は軽く吹き出してしまった。
彼女は目線のみをこっちに戻して訊いてきた。
「……それで。返事は……?」
「えっ……と。返事って?」
「昨日の……」
和花は指先で、自身の唇を押さえて首を傾ぐ。
首からゆっくりとサウナの蒸気みたいなのが立ち上ってくる。
「……あれ、本気だったのか?」
「本気じゃないと思った……?」
俺は灰色の世界に捕らわれる。
「生流……、返事……聞かせて」
和花の声が四方から聞こえてくるような気がした。
俺は息を長く吸い込んで、より時間をかけて吐き出し、彼女に告げた。
「ごめん」
「……え」
和花の長い睫毛がぴくっと震えた。灰色がミルクに溶けるように小さくなっていく。
「俺、他に好きなヤツがいるから」
「……そう」
和花は唇を噛みしめ、顔を俯けた。瞳はなおも俺を見やり、けれども視線は定まらずに揺らいでいた。
「その人って……、誰?」
「……言いたくない、今は」
「言いたくない?」
「……ごめん」
俺は窓の外へと顔を背けた。
夕日はビルの谷間に差し掛かっていた。心なしか、さっきよりも眩しかった。
「ねえ……、生流……。どうしても……、教えてくれない……?」
「すまないが……」
「……じゃあ……、まだ諦めなくてもいいのね……」
「えっ……?」
強風に煽られた花のように、俺は和花の方へ振り向いた。
彼女は薄い色の唇で緩やかな弧を結ぶ。瞳は涙こそ湛えていたものの、それが零れることはなかった。
「リザルト画面が表示されるまで……、絶対に勝利を諦めない……。わたしが好きな人はいつだって……、そんな姿を見せてくれた……」
和花は自分の胸に手を置いて、己が思いを紡いでいく。
「だから……、諦めない……。わたしの方を振り向いてくれるか……、完全に誰かに心を奪われてしまうまでは……」
俺の目は彼女の瞳にじっと見入っていた。そうしていると、あたかも人知を超えた何かに語り掛けられているような気がしてきた。だがどうも日本語以外の言語であるらしく、俺には理解できなかったが。
「……行こう」
和花はすっと左手を差し出してきた。
「みんなが……、待ってるから」
「あ、ああ……」
俺は彼女の手を自然と取っていた。
半分ぐらい、自身の意思がなくなっていた。その空洞地帯には和花の言葉が雨粒のように滲み込んで、芽が生えた。
握った手は暖房で温まりすぎた体にはほどよくひんやりとしていて気持ちよかった。
和花に手を引かれて歩き出そうとした時だった。
「おやおや。そこにいるのは夢咲の嬢チャンと、田斎丹クンではないかね?」
急に背後から無駄に大きな胴間声が聞こえてきた。
全身の毛穴から冷気が一気に吹き込んできたような気がした。
石のようになった体を無理に動かし振り返る。
案の定、そこには……。
「……人違いではありませんか?」
「ん、今は咲本クンだったかね? え? それとも、この古吉十士の顔を忘れたかね?」
タヌキ顔の小太りな男がニタニタ笑ってこちらを見やっていた。
口ぶりからして、全部お察しという様子だった。ならば猫の皮を被るのも無駄だろう。
「どうしてここに……」
「決まってるじゃないかね。ワシは『エデン』のスポンサーなんだわな」
「まだやってるのか?」
「当然だわな。ところで胸の調子はどうかね? ん? 加減はしたつもりだったがな」
チリッと髪が焦げるような感覚を覚えたが、呼吸を整えてどうにか気持ちを抑え込む。
「……お前のクソ雑魚パンチのことか?」
「グハハハ、前より威勢がよくなったわなっ!」
「お前は会う度に肝っ玉が小さくなってる気がするがな。ところで、ボディーガード達はどうした?」
周囲を見やるも、黒服の男の姿はない。
古吉は贅肉だらけの腹をパンパン叩いて言った。
「彼等は、待機させてるがね。今はちと、一人になりたい気分だったんだわな」
「珍しいな。自分に逆らえないヤツ等を侍らせて口先で威張り散らすのが、ビビリのお前のレゾンデートルじゃなかったか?」
「チミ、少しは口の利き方を気をつけたまえよ。でないと、後悔することになるがね?」
額に血管を浮き立たせて、わなわな拳を震わせだす古吉。
きな臭い空気が流れ出した時、和花がカツンと床を鳴らし俺の前に進み出て、腕を横に持ち上げて言った。
「生流に……、手を出さないで……」
古吉は一瞬虚を突かれた様子だったが、すぐに表情を嫌らしく崩した。
「ほぉ、ほぉほぉ。見ない間に、嬢チャンは随分と立派に成長されたんだわな。いやはや子供の成長には驚かされるわな」
俺は和花の肩に手を置いて、目線で下がるように伝えた。
彼女が隣に戻ったのを確認し、再度古吉に訊いた。
「……で、お前が一人になりたいなんてどういう風の吹き回しだ?」
「まあなあ。いくらワシと言えども、晴れ舞台に立つのはちと緊張するんだわ、これが」
「……撮影でもあるのか?」
「まさしく。今日はな、チミ達と共演させてもらうことになったんだわな」
「『PONN』の大会の……? お前が出る幕なんてないだろ」
「失礼なことをいうね、チミ。ライバルに対して」
「ライバルって……。そりゃお前、『エデン』のスポンサーだろうけど別に対戦相手っていうわけじゃないだろう」
呆れ気味に言った途端、ヤツは腹を押さえて「グハハハハハッ!」と不快な高笑いをしだした。
「まさか知らんかったのかね。今大会の、『エデン』の切り札を」
「……切り札? なんだそれ」
「知らんかったか、そうか、そうかッ! なら教えてやらんと、フェアではないな」
古吉は自身をミートボールみたいな親指で指して言った。
「ワシだ。ワシこそが、『エデン』の切り札にして、四人目の選手なのだよ!」
「…………え?」
得意気に発されたヤツの一言を解するのに、短くない時間を要した。
長い沈黙の末、俺は訊いた。
「選手って……、お前が?」
「そうだわな。どうだ、驚いたかね? ん?」
「そりゃ、まあ……。そもそも、ゲームやったことあるのか?」
「あんなもの子供の玩具じゃないかね。ならば、ワシにできぬ道理はないわ」
「まだそんなこと言ってるのか……?」
なんか怒りより先に哀れみを覚えた。この古吉という漢は、自分以外の全てを見下して生きるしかないのだな……と。
ヤツは上機嫌な様子で続ける。
「まさかチミに、もう一度教えることになるとはなぁ。金と権力こそが全てなのだと」
「残念だが『PONN』は課金してもキャラが強くなる要素はないし、プレイスキルを上げることもできない。完全な実力の世界だ」
「グハハハハハッ! やはりチミは社会の仕組みを理解していないようだ。その無知さが敗因になるんだわな」
「……そうか」
「信じていないようだね。ならば一つ、賭けをしてみないかね?」
「……賭けだと?」
古吉は鷹揚な態度でうなずいて言った。
「ワシが負けたら、チミに『エデン』を返そう」
「『エデン』……っていうことは、ティナ達を?」
「そうだわな。彼女等の円満解約を約束しよう。それ以外に草土クン達にはワシの元から去る方法はないのだよ。……平穏にはね」
「そんなの……、違法……。ブラック企業と同じ……ううん、そのもの……」
和花の抗議を古吉は鼻による一笑で伏した。
「いいや、それは違うわな。草土クン達はワシの会社の社員ではない。単に選手とスポンサーとして契約しているに過ぎない。いわゆる取引相手ということになるわな」
「取引相手をぞんざいに扱うのが、お前のやり方か?」
「賢き者とはよき関係を、愚か者には相応の対応を……というのがワシのポリシーなんだわな。で、『エデン』の諸君は残念だが後者だったということだがね。不満か、ん?」
腹の中がぐつぐつと煮え滾ってきた。頭の中には熱された蒸気が立ち込めていき、理性が霞んでいく。
だが爆発する寸前で、それは治まった。
手に冷たい感触。それが心や体の熱を吸い取ってくれていってる。
見やると和花が瞳で訴えかけてきていた。
――ダメ。その無言の一言が、俺の怒りを冷ましてくれた。
「それで、ワシが勝った場合の話だがね」
つかつかと歩み寄ってきた古吉の手が、俺に伸びてくる。
あまりにも無造作だったため、それを防ごうという危機感が起きなかった。
かさかさした無骨な手は俺の顎に触れて、くいっと持ちあげてきた。
濁った黒い眼が、俺の目を覗き込んでくる。
厚ぼったい唇がにゅっと三日月の形を作った。
「チミには咲本クンとして改めて、『エデン』に入ってもらおう」
「なっ……!? 何言ってるんだ、お前ッ!?」
「別に悪い話ではないと思うがね? チミは『エデン』に戻れるし、ワシは金の卵を産む鶏を得られる。Win-Winだわな。……そこの嬢チャンとも、まだ何も契約は結んでないのだし、しがらみもない。誰も損はしない。いいことづくめじゃないかね?」
一度は治まったはずの心中に、再び火種が生じた。
「……さっきから不思議だったんだ」
それはチリチリと火花を起こしていたが、突然豹変する。
「どうして俺の正体を知ってるのに、世間に公表しないのかって」
全てを灼熱の顎で食らい尽くす、火炎の龍に――
「最初から俺が……、流星が目的だったんだなッ!」
古吉は腹を抱え、まるで爆発でもしたような笑い声を響かせた。
「ガーッハッハッハ! 金、権力ッ!! それを手に入れるためならワシはどんなことでもやってのけるッ!!」
「……流星は、まな子が、視聴者のみんなが育ててくれた、俺の希望なんだ。お前なんかには絶対に渡さないッ!! それに『エデン』のみんなも、返してもらうぞッ!!」
「面白い、面白い、面白い! その気丈な態度がいつまで続くか、見ものだわな!!」
腹をバシバシ叩いていた古吉は、ニタニタ笑いを一層歪ませて言った。
「チミの勇気に敬意を表して、一ついいことを教えてやろうかね。決勝戦のルールはついさっき、変更されたんだわな」
「なっ……!? 聞いてないぞ!!」
「せっかくワシが参戦するんだ。ただの試合じゃ、観戦者も面白くないわな?」
古吉が働きかけたのだと、俺は察する。隣では和花がきゅっと唇を結んで眉根を微かに寄せていた。
「……どんなルールだ?」
「そう警戒することはないわな。チミ達、ゲーム実況者とやらが有利になるような内容になったんだから」
俺達は言葉を返さず、無言で古吉の次の言葉を待った。
ヤツはスーツのポケットに手を突っ込み、ややふんぞり返って語りだす。
「三本先取で試合が終わるのは変わらない。ただその後に、各チームで配信に対する評価アンケートを視聴者に対して行う」
「……評価アンケートって、……ニヨニヨ動画の?」
「その通りだわな。五段階のもので、一番の高評価が五点、低いものが一点。後は評価に応じて、四点、三点、二点。それを集計して合計点が高かったチームが、優勝というわけなんだがね。シンプルでいいと思わんかね?」
評価は水物だ。膨大な火力さえ有していれば、ある程度それを操ることもできる。
たとえば古吉みたいな、何千何万という単位で人間を自在に操れるヤツなら……。
「……お前、運営にいくら金を積んだ?」
「人聞きの悪いことを言うじゃないか。何か証拠はあるのかね? ん?」
世の中には法も言葉も通じない人間がいる。
そういう時のために俺は、身体を鍛えたはずだった。
だが……、ここで殴っては、和花に迷惑が掛かる。何より応援してくれている視聴者を悲しませることになるっ……!
「いや、証拠は……ないな」
「賢明な判断だよ、咲本クン」
ヤツは俺の肩をぽんぽんと叩いた後、背を向けた。
最後に肩越しにこちらを見やり、一言残していった。
「そうそう、視聴者が集まるようにワシがしっかり宣伝しておいたからな。試合が始まる前にSNSをチェックしておいたらどうかね? ん?」
それから高笑いを響かせて、古吉は立ち去っていった。
残された言葉から不穏なものを感じて、俺と和花はほぼ同時にスマホを取り出しSNSを確認していた。
「なっ……!?」
そこには同じメッセージが書かれた投稿や広告で溢れていた。
『『エデン』を応援して、全国のコンビニで使える五百円分のクーポンを手に入れよう! 参加方法・本日十九時から開催予定の『PONN』日ノ本トーナメント決勝戦で『エデン』チーム配信中に出てくるアンケートで『とてもよかった』へ回答する』
アカウント名は全部古吉が経営している会社や、その子会社のものだった。
「……酷い」
「クソッ、アイツにプライドはないのかっ!?」
俺達の発した怒りの言葉は、誰に届くこともなく虚空へと消えていった……。




