五章 If ~誰もが一度は心で唱える言葉~ その1
ソファに腰かけて、ぼうとしていた。
意識は身体から乖離し、自分でも在り処がわからなくなっていた。
何か考えているのかもしれないし、あるいは何も考えていないのかもしれない。
ただ一つだけわかるのは、ずっとハルネのことが頭の中に浮かんでいるということ。
それで何を感ずるというわけでもない。心はきっとここにはないのだから。ただ思わずにはいられなかった。天井や壁にさえ、彼女の顔を幻視することがあったぐらいだ。
「……りゅう。……生流」
かけられた声に、はたと俺は我に返った。
「あ、ああ……和花か。なんだ?」
すぐ横から、和花が俺の顔を覗き込んでいた。
彼女は僅かに眉根を寄せて訊いてきた。
「……大丈夫? 最近……、よくぼうっとしてるけど……」
「はは、ちょっと疲れてるのかもしれないな。ゲーム実況に、ヴィンカとの稽古って色々と新しいことを始めたからな」
「ふぅん……?」
灰色の瞳の視線が、俺の目をじっと見据えてくる。まるで心中に潜り込まんとするかのように。
「それだけ……?」
「も、もちろん」
「……本当に?」
和花が顔を近づけてくる。視界が灰色に覆われていき、霧中に迷い込んだような心細くなってきた。
なんとか俺は首を縦に振って言った。
「ほ、本当だ。ただ疲れてるだけだよ」
瞬きすらできなくなり、和花の瞳に視線で訴えかける。
やがて彼女は目を閉じて、「……そう」と呟いた。
「疲れているなら……、今日はもう寝た方がいいわ……」
「そうだな。疲労には睡眠が何よりの薬だしな」
「……それもあるけど。……明日はとても大事な一日だから」
「明日? 何かあったっけ?」
訊くなり和花はやや大げさに肩を竦めて言った。
「……随分、……重傷ね」
「重症って……」
「重傷じゃない……」
言いつつ、和花は俺の胸にそっと手を伸ばしてくる。シリコン製の膨らみを触られて、その裏に隠れた心臓がドキリと音を立てた。
和花は軽く鼻息を漏らして言った。
「……邪魔ねこれ。……なんでつけてるの?」
「いや、その。女装する時は、なんかつけてないと不安になっちゃって」
「へぇ……」
「て、っていうか、なんで急に胸触ってきてるんだよっ!? 普通、こういう時はおでこに触るだろっ!?」
「でも……、心は胸の奥にあるものでしょ……?」
「……ああ、病って、そっちの心配されてたのか」
「病……?」
「どうかしたか?」
「いいえ……。そうね……、病……」
和花は自身の胸をそっと押さえ、目線を落とした。
「病は……、感染するものよね」
「ん? まあ、そうだな」
「……なら」
和花は片方の膝をソファにのせ、そっと俺の頬を包んできた。
「の、和花……?」
「……生流」
ゆっくりと顔が近づいてくる。さっきとは違う。目は徐々に閉じられ、代わりに温もりが身体を包んでくる。
何をされるか、わかっていたはずだった。この雰囲気には、どことなく覚えがある。
だけど思考が言葉として固まる前に。
俺の唇はふわっと何かに塞がれていた。温かくてゼリーみたいにぷるんとしている。
小さな手に包まれている頬が、ほんのり熱を持っていくのが自分でもわかった。まるでいつかの夏祭りに、綿あめ屋の近くに漂っていた甘やかな匂いを胸いっぱいに吸いこんだ時のような気分になってくる。
唇が微睡から覚めていくように解放される。
瞼の裏から一対の潤んだ瞳が覗く。
「あの……、えっと……」
ほんのり頬を赤らめている和花。
やがて彼女は俺の頬から手を離して立ち上がり。
「ご……、ごめんなさい……」
頭を下げたと思ったら、小走りで部屋を出ていった。
残された俺はしばらくその場に座っていた。
「……最近の子供はませてるな」
発した独り言は水面の外では存在できないぐらい、酷く空虚だった。
○
すれ違った車が窓外に現れては、息を吐く間もなく消えていく。景色は車に遮られては移り変わっていく。建物はほとんどが高層建築だが、その根元だけが見える。道行く人は表情を確かめる間もなく視界から退場する。俺の動体視力は決して悪くない。でなければTPSのプロゲーマーになんてなれっこないし、ましてや世界大会の準決勝に進むチームに選手として所属できるはずがない。手前味噌だが、極めて稀有な存在であると言えよう。
だがここは世界的にも大都市である東京。スポーツ選手どころかアイドルや声優、有名動画投稿者、他にも名の知れた者などごまんといるだろう。
情報化社会は都会を活性化させ、人口を集中させた。そこにあってはどんな才ある者もただの一個人に成り下がらざるを得ない。かくして優れた者にも一定の無力感を植え付けることに成功。事前に反乱の芽を潰すシステムが構築された。
「日本は中心都市である東京に点描画を描こうとした。それが上手くいったってことだ」
「……ええと? どういうこと……?」
「神の中にあっては、己を神だと自覚できないってことだ」
思いつくままに語った話を適当に総括した。
「ククク、盟友は国の長たる資格があるな」
「真に受けるなよ? 陰謀論を大真面目に語るヤツは、異常者扱いされる」
「それが世の常であるからな。……それで、盟友自身はその話を信じておるのか?」
「真っ赤な嘘という言葉はある。だけど俺達は真実の色は知らない」
「白ではないのか?」
「確かに身の潔白とは言うな。だけど対義語は黒なんだ。こいつは黒に違いないってな」
「つまり?」
「完璧な真実などといったものは存在しない。ただし完璧な嘘は存在する」
車窓からの景色が写真に収まったかのようにぴたりと止まった。フロントガラスの方を見やると、信号機が赤のランプを点灯させていた。
俺達はヴィンカの運転するフェラーリに乗っている。
和花がスマホを見やり、ふと首を傾げて言った。
「……今日行くのって、パルスタっていうところ……?」
「そうデスネ。ドランゴという会社が管理、運営している施設デス」
「ドランゴ……。確か……、ニヨニヨ動画を運営してるって……聞いたことある……」
「そなたはニヨニヨ動画を利用してはおらぬのか?」
「……ええ。サイトのUIがわかりにくいし……、文字で動画が隠れて見づらいし……、画質もよくないから……」
「一応、あの流れる文字は消せるのだが……。まあ、今時の若い者はわざわざそんなこと調べたりはせぬか。ムートゥーブで快適に動画が見れるしな」
「昔は日本国内で、一定の地位を築いたんデスケドネ。これも時代の流れデショウカ」
「ニヨ動から歩み出した我としては、今後も長く生き延びてほしいと思うがな」
呆れ混じりに俺はぼそっと言った。
「繁栄じゃなくて延命を願われてる時点で、どうなんだ……?」
「生きている限り起死回生の好機が訪れる。そう思わぬか?」
なんとも言えず黙したまま、ただ肩を竦めてかぶりを振った。
信号機が青いランプを灯した。フェラーリが再び走り出す。
街がゆっくりと紅く染まり始めていた。
俺はぽつりと呟いた。
「日本の国旗って、なんで赤い円なんだろうな?」
跳躍した話題には誰も反応してくれず、車内は沈黙に包まれた。




