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四章 人は阿吽の呼吸こそ、真の絆の証だと思いたがる。言葉は薄っぺらいから その4

 風呂上がりに男物のパジャマに着替えて廊下に出た時、ふと和花に呼び出されていたことを思い出した。

 就寝前に、自室に来いと。

 ……一体、どんな説教をされるのだろうか。

 相手は十歳の少女なのに、なぜか少し恐怖している自分がいた。

 それでも行かないとな……。あれはまあ、俺に非がないことはないし、何より承諾したのだから……。

 俺は沼地を進むような重い足取りで、和花の自室に向かった。




「いらっしゃい……」

 ドレスみたいにひらひらしている、ネグリジェ姿の和花が迎えてくれた。

「入って……」

「お、おう」

 俺はなぜか緊張しながら、和花の自室に入った。

 令嬢の自室とは、一体どんな感じなのか……。

 そう身構えていたが、客用寝室と構造自体は変わらない。

 シャンデリア、毛足の長い絨毯、なんか妙に凝った柄の壁。調度品はシンプルながらも品のあるデザインで、使われている素材の質もよさそうだ。ただ、他の部屋よりもどことなくガーリーな雰囲気がある。和花の自室だからだろう。


「……ねえ」

 俺が入り口辺りで立ち止まっていると、部屋の中央辺りまで行った和花がくるっと振り向いて言ってきた。

「生流は……、枕が変わると寝られなかったりする……?」

「うん? いや、特にそういうのはないけど……」

「そう……、よかった……」

 彼女が猫みたいに、手でこっちに来てと招いてくる。

 俺は指示通りに近づいていく。


 触れられるぐらいまで寄った時、彼女が手を取って言ってきた。

「今夜は……、一緒に寝て……?」

「えっ……?」

 湯上りだった身体が、さらに熱くなる。

 和花はいつもよりとろんとした瞳で、俺の顔を覗き込んで訊いてくる。

「ダメ……?」

 指の間から砂が零れ落ちていくように、手元から思考力が消えていきそうになる。


 僅かながらに残った思考力を握りしめ、俺はかぶりを振った。

「い、いや。それはダメだろ。倫理的に」

「倫理的に……?」

「そう、倫理的に」

 和花はしげしげと俺の顔を見つめた後、ふいに手を取ってきてそちらを見やった。


 心臓はいよいよ導火線の火が近づいてきたように熱を持ち始め、爆破寸前であることを訴えてきていた。

 俺の手の平をくるくる返していた和花はやがて顔を上げ、口元をふっと緩めて言った。

「どこにもないわ……、そんなもの……」

 心臓と耳を直結されたように、ドクッ、ドクッと鼓動の音が間近に聞こえてきた。

 和花の微笑はまるで羽のようだった。何物にも代えがたいぐらい、惚れ惚れする美しい造形で。吹けば飛んでしまいそうなぐらいに、とても軽い。だからこそ手に持って、そのままずっと大事に握っていたくなる。


「どうしても、ダメ……?」

「あ、う、んと……」

「うん……?」

 期待のこもった灰色の眼差しが、視界いっぱいに広がる。

 かつてロシア人の作家が、二回りも年が違う少女のために人生を棒に振った男の物語を書いた。読んだ時こそ、主人公をどこか軽蔑したような思いで捉えていたものだが、今は彼に対して親しみのような感情が起こっていた。

「わたしが……、寝るまででいいから……。お願い……」

 ダメ押しのお願いに、俺は我知らず「ああ」とうなずいていた。

 和花はどこかほっとした様子で息を吐いた。


「ありがとう……」

「いや、例を言われるほどのことじゃないと思うが」

「ううん……。悔しいことがあると……、その日なかなか寝付けないから……。傍に誰かがいてくれると……、ほっとするの……」

「なら、ヴィンカに頼めばいい」

「ヴィンカは……、ああ見えて自分がメイドだっていう自覚があるから……。職務気質で接されると……、余計に辛いの……」

「まあ、確かに遠慮してる部分はあるかもしれないな」


 和花は両手でそっと俺の手を包み込み、視線を結び付けるように瞳を向けてきた。まるでその瞬間に、心の欠けた部分がぴたりと合わさるような不思議な感覚を覚えた。

 胸を上下させるようにゆっくりと深く呼吸した後、和花は言った。

「生流が……、初めてなの……」

「俺が、初めて?」

 彼女は視線を外すまいと、ほんの微かにうなずいて言った。

「わたしが……、独り占めにしたいと思った人は……」




 ――ねえ……、女装ってどんな感じなの……? イヤじゃない……?

 女装もまあ、悪くはない……かもしれないが、男の姿に戻るとほっとする。ただ……。

 ――ただ……?

 最近、男の服を着ていることに違和感を覚えて、たまにドキッとする。

 ――へえ……。女装してる時は……、どう……?

 まあ、なくはない。だけど違和感を覚える度に、変な感じがするんだ。

 ――違和感と……、変な感じ……?

 ううん……、なんて説明すればいいんだろう。……こう、心地よい心音と、体が温泉に浸かってる時みたいな火照るような感じがして。正直、その瞬間に多幸感に身と心が満たされてるみたいなんだ。

 ――そうなんだ……。

 依存性があるっていう意味じゃ、よくはないんだろうけど。自分が女装していることに特別感を抱いているっていう意味では、まだ染まり切ってないって安堵すべきなのかな。

 ――わたしは別に……、生流が普通に女装するようになってもいいと思うけど……。


 ……いやでも、今の俺を見てティナがどう思うか……。

 ――あなたの妹……?

 そうだ。きっと女装してる兄なんて、嫌だろうしな。

 ――本当に好きなら……、女装してるだけで嫌いになったりしない……。

 いや、だとしても……。


 ――自分に……、正直になるべきだと思うの……。

 ちょっ、和花……?

 ――自分がしたいことを……。誰かに対して遠慮しないで……、すべきなの……。きっとそうしないと……。

 ち、近いって……。

 ――ずっと……。わたし……、後悔したくないから……。……っ、ん……。

 あっ……。

 ――……………………せい……りゅう……。

 ……の、和花。い、今のって。


 ――大切にしたい……。

 えっ……?

 ――そういう……、意味になるらしいわ……。……今の。

 ……いや、でもそう軽々しくき、き……。

 ――初めて口づけした人って……、誰……?

 …………へ?

 ――教えて……。生流が……、生まれて初めてした人……。

 ふぁ、ファーストキスの定義にもよるだろうけど……。恋心を抱いて接吻した相手は、今のところいないな。

 ――……よかった。

 えっと、今、なんて……?

 ――ううん……。なんでもないわ……。

 そ、そうか……。


 ――…………最近、……ヴィンカと何か、……特訓してるわね?

 ああ。体術みたいなのを、ちょっとな。

 ――あれ……、やめてほしいってお願いしたら……、聞いてくれる……?

 どうしてだ? 和花が嫌がる理由がよくわからないんだが……。

 ――生流に……、傷ついてほしくないから……。

 いやでも、そこら辺はヴィンカがちゃんと管理してくれてるから。

 ――……手。

 ……ん?

 ――この前……手、腫れてた……。

 ああ……、よく見てるな。でもあれぐらい、大したことないって。

 ――それでも……、嫌なの……。


 俺だってできることなら、傷ついたり怪我をするのは避けたい。こう見えても一応は、平和主義を自負してるからな。だけど生きていれば、会話が成り立たなくて法もまったく通用しない、成熟しきったモンスターと巡り合うことだってある。もしもその時、暴力でまされなかったら、相手にいいようにされるだけなんだ。

 ――……古吉?

 なっ……!? お、お前もヴィンカも、察しがいいな……。

 ――生流は……、わかりやすいから……。

 ……後学のために、どういうところがダメなのか教えてくれないか?

 ――……内緒。

 け、ケチ臭いこと言わないでさ……。

 ――内緒……。そこも……、あなたのいいところだと……、わたしは思うから……。

 世間的に見たら、絶対に短所だって。

 ――言ったでしょう……。わたしは……、あなたを独り占め……、したいって……。

 それって結局、どういう意味なんだ?


 ――……………………。

 ……なあ、和花?

 ――すぅ……。

 寝ちゃったか……。

 じゃあ、俺は部屋に帰……ふぁああ。

 なんか、眠くなってきたな……。

 少し、休んだら……、部屋にかえ……。

 ……。

 …………ぐぅ。

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