四章 人は阿吽の呼吸こそ、真の絆の証だと思いたがる。言葉は薄っぺらいから その1
バンッ、バンッ……。
俺は一心不乱に白いサンドバッグを殴り続けていた。
屋敷にあったトレーニングルーム。俺はよくここを使わせてもらっていた。
機材はどれも最高級のものがそろっており、環境は文句のつけようもなく最高だった。
今まで体を動かすことには、まるで興味がなかった。
小学校の頃に習いごとを少しやり、中学時代に剣道部を半端に辞めてからは、体育以外では滅多に体を動かしてこなかった。
だがあの日、古吉に一発でやられた悔しさが蘇ってから俺は、こうして毎日体を鍛えるようになっていた。
といってもコーチはいない。ただ自己満足のトレーニングを繰り返しているだけだ。
これで俺自身がきちんと強くなっているのか。また古吉と相対した時、対抗できるようになっているのか。それは俺にはわからない。
ただ燻る無念に駆り立てられて、何もせずにはいられなかった。
ゆえに俺はこうして毎日飽くことなくトレーニングルームに通い続けていた。
一通りネットのサイトで調べたセットを終えて汗を拭いていると、パチパチと手を叩く音が入り口から聞こえてきた。
見やると、ヴィンカが微笑を浮かべてそこに立っていた。彼女はいつもと変わらない、相変わらずのメイドスタイルだった。
「お疲れサマデス」
「ヴィンカか……。いるなら、声をかけてくれればよかったのに」
「いえ、何度も呼びマシタヨ? でも、ずっとトレーニングに夢中で気付いてくれなかったんじゃないデスカ」
「……そうだったのか?」
ちょっと驚いて訊くと、ヴィンカは大きくうなずいた。
「俺はそこまで、何かに熱中するような質じゃないと思うんだけど」
「元プロゲーマーだったユーが何を言ってるんデスカ」
「でも呼ばれれば、返事ぐらいはしたぞ。……多分」
「自信はないんデスネ」
苦笑しながら、ヴィンカは腕に下げていたバスケットから水筒を取り出して言った。
「はい、ドリンクデス」
「あ、ああ。ありがとう」
「タオルももう一枚どうデスカ? あ、ライト・ミールもありマスケド」
「……ピクニックにでも行くつもりだったのか?」
「フフフ。頑張ってるミスター・生流を見ていると、応援したくなっちゃいマシテ」
「まあ、せっかくだから軽食ももらうけど……」
中を見やると、ビーフハンバーグをふんだんに使ったサンドウィッチが入っていた。
「もしかしなくてもこれ、和花の朝食の残りだろ?」
「いつもなら、ミーのお昼ご飯に回すんデスケド。今日はスパゲッティの気分デシテ」
「つまり残飯処理っていうわけか」
「いりマセンカ?」
「いやまあ、ありがたくもらうけど」
俺はサンドウィッチを一つつまみ、壁際に置かれていたベンチに腰かけて口に運んだ。
「ん……、美味いな」
「気に入っていただけて、よかったデス。……あの、本当に美味しいデスカ?」
「え? ああ、美味いけど……。なんで?」
「いえ、その……」
ヴィンカは少し悩んでいたが、結局躊躇いがちに言った。
「……お嬢サマには、決まって美味しいと言っていただけるノデ……。もちろん好きなものを主張はしてくれるのデスケド、出来自体には『美味しい』以外のご感想をいただいたことがないんデス」
「なら一度、思い切りマズイもの作ってみたらどうだ?」
「そんなこと、お嬢サマにできるわけないじゃないデスカ」
ぷくっと頬を膨らませるヴィンカ。
「まあ、だろうな」
俺は軽く笑いを漏らして言った。
「和花は美味いって言ってくれてるんだろ?」
「そうデスケド……」
「だったら今まで通りに、料理を作ればいいじゃないか。実際、お前の料理は美味いぞ」
「本当デスカ……?」
「ああ、俺が保証するよ」
ヴィンカはふっと表情を和らげ、俺の隣に腰かけてきた。
「ところでミスター・生流はなんで、そんなに熱心に体を鍛えているんデスカ?」
「……まあ、その」
「もしかして、ミスター・古吉にノックアウトされたのが悔しかったからデスカ?」
俺は答えたくなくて口をつぐんだが、顔が急激に熱くなっていった。それは暗に答えているようなものだっただろう。「フフフ」とヴィンカが笑っていた。
「負けず嫌いデスネ」
「どうだろうな」
「でもミスター・生流のお話によると、周りはストロングなボディーガードに囲まれていたのデショウ?」
「……下手に反撃しないでよかった、って言いたいのか?」
ヴィンカはこくりとうなずいた。
「ボスに怪我をさせていたら、生きて帰ってこれなかったかもしれマセンヨ」
「まさか……」
笑い飛ばそうとしたが、ヴィンカの真顔を前にしてはそれもできなかった。
「それにもしもボディーガードをノックアウトできていたとしても、暴行罪で訴えられてビー・ダフィード。ユーはリーガルで敗北していたと思いマス」
頭の中が殺菌でもされたかのように、何もかも失われていく。
「じゃあ……。俺はどうあっても、泣き寝入りするしかなかったってことか?」
「おそらくは」
身体中から力が抜けていった。
そんな俺をじっと見ていたヴィンカが、やがて唐突に訊いてきた。
「強くなりたいデスカ?」
俺はぽかんとした思いで、ヴィンカを見返した。
彼女の碧眼は曇りなく俺の姿を映していた。
「強くって……。俺はどうあっても、古吉に勝つことはできなかったんだろう?」
「だけどユーは、ミスター・古吉に勝てなかった。それが結果論デショウ?」
ジュッと、心に焦げ臭さが立ち込めたのがわかった。
「ああ、強くなりたい」
気が付いたら俺はそう答えていた。
ヴィンカはにこりと笑って言った。
「グッド・アンサーデス」
彼女は静かに立ちあがり、ソファから少し離れたところでこちらへ振り返った。
「ヘイ、カモン」
くい、くいと手招きしてくるヴィンカ。
俺はわけがわからず、首を四十五度傾げて訊いた。
「……なんだ、カモンって?」
「アタックしてきてクダサイ。グーでもキックでも、チョキでもタックルでもいいノデ」
「いや、でも……」
「パーでもスロウでもいいデスヨ?」
「攻撃の手段の話じゃなくて。別に恨みも憎しみもない相手に手を上げるのは……」
「別にただのレッスンデスカラ、ほら」
「お前って、稽古をつけられるぐらい強いのか……?」
見た感じヴィンカは部分的に肉付きはいいが、全体的にはほっそりとしていてどちらかといえば華奢だ。
しかし彼女は余裕の笑みで誘ってくる。
「いいデスカラ。カムヒア!」
「怪我をしたって知らないぞ……」
俺は立ち上がって拳を握りしめ、ヴィンカに迫っていった。
踏み込んで、軽めの一発を彼女に放つ。
だが――その瞬間。ヴィンカの碧眼が細められ、凍てつくような光を発した。
「遅いデスヨ」
俺の一発は軽く叩かれるように捌かれ、そのまま弾丸のごときスピードで指先が迫ってきて……。
鼻先でピタリと止まった。まるでナイフの切っ先を突きつけられたかのように、体内の血が一気に冷え込んでいく。
「チェックメイトデス」
すっと手が下ろされて、俺はようやく呼吸をすることができた。
ヴィンカは元の表情に戻り、軽く息を吐いて言った。
「ミーもまだまだデスネ」
「えっ……? いや、そんなことないだろ」
「いえ。ユーの手を傷つけてしまいマシタ」
彼女に右手を取られて気付いた。俺の手の甲――さっき彼女と接触したところが真っ赤に腫れていた。
「暴力自体は罪じゃない。それを行った際に、制御できぬことが悪である」
「なんだそれは?」
「ミーの……まあ、師匠みたいな人の教えデス」
ヴィンカは俺の手の甲を軽く撫でて言った。
「痛いデスカ?」
「いや、特には」
実際、腫れたところにほとんど痛みがなかった。
それよりも美人な女性に手を取られていることに、どうしようもなくドキドキしていて気が気でなかった。
ヴィンカは俺の顔を見やり、にやっと笑みを零した。
「あれれ? もしかして、照れちゃってマス?」
「べ、別に」
「フフ。ミスター・生流は本当にツンデレデスネ」
「ツンデレとかじゃない……」
「そうなんデスカー? ミーは結構、ミスター・生流のこと好きデスヨ」
「なっ……!?」
「ワォ、さらに紅くなりマシタネ」
「ぐっ……。お、お前俺のことからかってるだろ!?」
「さてさて、どうデショウカ? ……あ、でもお嬢サマの前ではあまりラブラブするのはやめマショウネ」
「別に二人きりの時もする気はないが……、どうしてだ?」
「お嬢サマ、きっと焼き餅焼いちゃいマスノデ」
「ああ、そういうことか。長いことずっと一緒にいたお前を取られたら、そりゃ不機嫌にもなるよな」
うんうんと納得してうなずいていると、なぜかヴィンカに「ハァ……」と特大級のため息を吐かれた。
「お嬢サマはバンピー・ロードをゴー・バイ・フットしなくちゃいけないみたいデスネ」
「……なんだって?」
「なんでもないデス、こちらの話デスノデ」
「そ、そうか……」
「それで、どうしマスカ? よろしければユーの特訓に、お付き合いしマスケド?」
「ああ、ぜひ頼む」
「オーケー。では道場にプレイスを移しマショウ」
ヴィンカに手を取られ、俺は道場へと向かった。




