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三章 どんな願いも信じれば叶う日が来る――とはもう言えないけど その3

 ブライアンはミルク入りのダージリンを口に含んだのち、再び話し始めた。

「さて。今日私がここに来たのは、和花に話があったからだ」

「そんな気がしてた……」

 彼はくつろいだ様子で和花を見やりながら続けた。


「和花は今年で何歳だったっけ?」

「……小学四年生」

 俺は違和感を覚えたが、ブライアンは気にした風もなく二度うなずいて言った。

「そうか。卒業まで二年とちょっとだね」

「ええ……」

「五、六年生といえば、高学年だ。……そこで」


 ブライアンは少し身を乗り出して言ってきた。

「和花には一つ、試練を与えたいと思う」

 家族の団欒だんらんには似つかわしくない単語に、俺は少なからず驚かされた。


 だが和花はいたって平然としたまま返した。

「……試練って、……お姉ちゃんと同じ?」

「そうだ。よく覚えてたね」

 ブライアンは満足そうに何度かうなずき、続けて訊いた。

「予期してたってことは、もう計画も?」

「いえ……。それはまだ……」

「ダメじゃないか、和花。予見できた困難には、事前に対策を立てておく。もっとも基本的な処世術だって、昔パパが教えてあげただろう?」

 大げさに肩を竦めるブライアンに、和花は「ごめんなさい」と素直に頭を下げた。


 普通の親子のやり取りだと捉えられないこともない会話だ。しかしなぜか俺は、言葉の節々から引っ掛かりのようなものを覚えてならない。それは先のものが消えるよりも前に次々と積もっていき、無視できないものになっていった。

「まあ、いい。それでも和花なら、やり遂げてくれるだろう。お姉ちゃんとは違ってね」

「まっ、待てい、待てい!」

 まな子が慌ててストップをかけて、会話に割り込んでいく。

「なんの話をしているのか、我と盟友にはさっぱりであるぞ!?」

「おっと、すまないね。せっかく君達にもここにいてもらっているんだ。私には説明する義務があるだろう」


 ブライアンは組んだ手を机の上に置き、左手の薬指にはめたダイヤモンドの指輪を右手の人差し指で時を刻むように叩きながら言った。

「まあ、いたってシンプルな話だよ。そうだね、和花?」

 和花は無言でこくりとうなずく。


「もしかしてそれは、年齢に関することだったりするんですか?」

 ブライアンはパチンとフィンガースナップを響かせ、微笑をこちらに向けてきた。

「その通りだよ。よくわかったね、咲本さん」

「……どうも」

 礼儀のために軽く会釈した。今日で演技力の経験値は上限まで溜まりそうな気がした。もっとも、永続スキルに『他人行儀』とかがつきそうな気がするが。


 ブライアンはちらとヴィンカを見やって言った。

「なかなか面白いお客さんだね。君のように」

「いえいえ。ミーなんてただの真面目な家政婦に過ぎマセンカラ」

「ハハハ。私も君のユニークさを少しぐらいわけてほしいよ」

 俺なんかよりよっぽど能力値の高そうな笑いだった。ユニークさだってどうとでも取りつくろえるに違いない。


「すまない、話が逸れてしまったね。本題に戻ろう」

 一瞬にして笑いは微笑に取って代わった。

 俺は無性に喉が渇いて、ダージリンをストレートのまま一杯飲んだ。馥郁とした香りが凝り固まった気持ちを幾分か和らげてくれた。


「時に咲本さん、明智さん。君達はお金を稼いだことがあるかい?」

 俺とまな子は一度呆けた顔を見合わせた後、ブライアンに向き直ってうなずいた。

 彼はしばし弧の形に口をきゅっと結んでこっちを見てきていた。笑っているのか真顔なのか見当のつきにくい表情だった。

 ブライアンが口を開くまで、全員が呼吸を我慢していたに違いない。それぐらい完璧な静けさが場を一時的に占めていた。

 彼は一度うなずいた後、組んだ手をへその辺りに乗せ、浅く椅子に腰かけた。目線が俺達から逸れ、天井のシャンデリア辺りに向けられた。


「金を稼ぐことは、人生で二番目に有意義なことだ」

 俺とまな子は黙って続きを待つ。今の一言だけでは一寸先の闇、どこへ話が転がるのか皆目見当もつかず、安易に相槌を打つこともできなかった。

「ただし、何も考えずにがむしゃらに稼げばいいというわけではない。そこには欠けてはならない重要なファクターが一つ存在する」


 ブライアンは視線をこちらに向け、軽く首を傾げて問いかけてきた。

「何かわかるかね?」

 俺はまな子へ目線で問いかけた。彼女は眉根を寄せて軽くかぶりを振った。

 一応、いくつか答えが思いつかないこともない。ただそのどれもブライアンを満足させる自信はない。きっとまな子も同じ思いなのだろう。

 それでもとりあえず、適当な単語を口にすることにした。

「……目的、でしょうか?」

「ふぅん? まあ、きっとそれも間違いではないね」

 口調からして、及第点にも届かない返答だったのだろうと俺は察した。


 納得いかぬ思いに突き動かされ、俺はブライアンに訊いた。

「……では、夢咲さんはどうお考えなのですか?」

「私か。……うん、私の考えこそ、きっと世間の人から見たら異端だろうね」

 彼は天より降り注ぐ雨粒を受け止めるように、肩幅ぐらいに手を広げて言った。

「美学だよ」

「……美学、ですか?」

 思わずオウム返しに問いかけると、ブライアンは満面の笑みでうなずいて言った。

「そう、美学だ。美学をもって金を稼ぐことこそが、人生で二番目に有意義なことだ」


 説明を受けても、まるで理解できた気がしなかった。

 そもそも俺の目的は、ブライアンの哲学やら心情を聞くことではない。

 一度ダージリンを口に含んでゆっくり味わった後、気持ち新たに彼に訊いた。

「……それで、そのお金を稼ぐことと、和花さんに一体なんの関係があるのでしょう?」

「まあ、さっきも言ったように。実にシンプルな話さ」


 ブライアンは両手をこちらに向けてぱっと開いてみせて言った。

「和花に小学校を卒業するまでに、これぐらい稼いでもらおうと思ってね」

 左右の五本の指、合わせて十本だ。


「……十万円?」

 俺の一言は彼に「ハハハ」と一笑に付されてしまった。

「まさか。つつましく生活しても、一生を乗り切ることさえできないじゃないか」

 ヒントは、一生働かずとも暮らせる額ということらしい。

 それで十本の指となると、思い当たる額は一つしかない。

「……まさか、十億円ですか?」

「その通り」


 あっさりとブライアンはうなずいて言った。

「今から和花には、小学校を卒業するまでに十億円を稼いでもらう」

「えっ……、小学生に?」

「何か問題でも?」

「大ありでしょうっ! そもそも未成年の労働は……」


 抗議しようとした俺を手で制し、ブライアンは声を重ねて訊いてきた。

「君は未成年者、年少者、児童の違いを説明できるかい?」

 やや気おくれしながらも、どうにか返答した。

「……全部同じじゃないんですか?」


 俺の答えにブライアンは鼻で一笑し、緩慢な動作でかぶりを振って言った。

「勉強不足だよ、咲本さん。その程度の浅はかな知識で私に法律を説こうなんて、ちゃんちゃらおかしいね」

「ちゃ、ちゃんちゃら……」


「そもそも児童が労働にまったく参加できないなら、子役なんていう職業は存在できないだろう?」

「た、確かにそうですけど……」

「それに私はドリームズ・フラワーという、世界的な大企業の社長だ。その御曹司が勉強のために事業、あるいはその他経済的な活動を行う。文句をつけるつもりなら、私や国を敵に回す覚悟を持ってほしいものだね」


 自信に満ちた弁舌に俺とまな子は黙するしかなかった。

 ブライアンはちらりと和花を見やって、最後に言った。

「和花なら十億円を稼ぐことは容易いだろう。だからこそ、念のために言っておくよ」

 一拍の間を置き、彼は一語一語に重みを与えるような調子で告げた。

「美学を持って金を稼ぎなさい。でなければそれは、和花にとって塵ほどの価値にすらならないよ」

 彼女は無表情のまま、無言で一回うなずいた。


 ブライアンは相変わらず仮面のような微笑を浮かべたまま、しばらく彼女の顔をじっと見ていた。

 それからおもむろに彼は立ち上がり、周囲のボディーガードに顎をしゃくって言った。

「そろそろ行こう」

「もうよろしいので?」

「ああ。娘との再会は十分に満喫したからね」


 立ち去っていくブライアンに、最後に俺は「夢咲さん」と呼び止めて訊いた。

「もしも和花さんが十億を稼げなかったら、どうするつもりですか?」

 彼は肩越しに俺の方へ振り向いて言った。

「その時は、私の元で立派な大人になれるように教育させてもらうよ」

「教育?」

「そう、教育だ」

「具体的には?」

「さてね。君には関係ないことだろう?」

「そうですね。だけど夢咲さんは、わたしを同席させた。家族の話の場で」


 ブライアンは泰然とした態度で軽くかぶりを振った。

「悪いけど明言は避けさせてもらうよ。最低限のプライバシーがあるからね」

 そう返されてはこちらも強くは出れない。

 けれどもどうしても諦めきれずにじっと食い入るように視線を送り続けていると、彼は苦笑して言った。

「和花の青春を犠牲にしてしまうことになるかもしれない。でも社会で通用する人間になるためには、致し方ない代償さ」


「そんな権限が、あなたにあるのですか?」

「ライオンは我が子を崖から突き落とすものさ」

 ブライアンの口調は、カフェで常連がいつものメニューを注文する時のようだった。

 そのまま彼はボディーガードを連れて立ち去った。

 テーブルの上では、飲みかけのダージリン・ミルクティーが薄い湯気を立てていた。

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