三章 どんな願いも信じれば叶う日が来る――とはもう言えないけど その1
意識が夢の中からするりと抜け出し、ぱっと目を開かせる。
気持ちのいい目覚めだった。まるでプラスチック容器からきれいにプッチン・プリンを皿の上に移せた時みたいに。
ふかふかのベッドから軽い身体を起こし、天蓋ベッドのカーテンを開く。窓にかかった厚いカーテンの隙間から薄っすらと光が漏れていた。
スリッパに足をつっかけて窓の傍まで行き、一気に開く。さっと流れ込んできた陽光が部屋の薄暗さを晴らしていく。
気持ちいい、太陽のシャワー。
うんと背伸びをして、それを甘受する。
全身にエネルギーが満ちていく。今ならどんなことだってできそうだという全能感さえ芽生えてくる。
このどこまでも広がる、青い空を飛んでいくことだって。
だがその爽快な気分は、いきなり乱暴に開かれたドアの騒音によってたちまちどこかへ吹っ飛んでいってしまった。
「でっ、デンジャーデンジャーッ! デンジャーデースッッッ!!」
振り返ると、顔面蒼白のヴィンカが俺の方へ駆け寄ってきていた。
「……どうした?」
「お、お父サマがっ、お父サマが帰ってくるんデスッ!」
いくら目覚めがよかったとはいえ、寝起きにこの声量はちょっと堪えられない。
「……お、落ち着け、落ち着け」
「そ、ソーリーデス」
深呼吸して気を静めるヴィンカ。
頃合いを見計らって、俺はやんわりと問いかけた。
「それで、そのお父様っていうのは?」
「お父サマというのは、お嬢サマのお父サマ……つまりミーのご主人サマデシテ」
「和花のか。そりゃ、大層な人が来るな」
IT界隈の大企業、ドリームズ・フラワーの社長――そんなやんごとなき人と顔を合わせることになるかもしれないのだ。緊張で体が少し強張るのがわかった。
しかしヴィンカはかぶりを振って言う。
「重要なのは、そこじゃないんデス」
「というと?」
「問題はご主人サマが、お嬢サマに対して至極厳格だということデス」
「……へえ?」
「過保護、と言い換えることもできるかもしれマセン」
「話が見えないな」
「ええと……デスネ」
歯の間に物が挟まったような調子でヴィンカは続ける。
「……ご主人サマは、お嬢サマに虫がつくのを酷く警戒してらっしゃる、というか」
「ああ、なるほど。つまり男……か」
「ザッツ・ライト。だから今の状況は、ものすごくデンジャラスなんデス」
「デンジャラス……?」
「もしもユーがここで一晩過ごしたことがご主人サマにバレたら、ヘブンへの片道切符をプレゼントされるかもしれマセン」
「そりゃ気前がいいな。……で、和花の親父さんはいつ来るんだ?」
「わかりマセン。時刻はメッセージに書いてなかったので……」
俺は軽く肩を竦めて言った。
「……わかった。要するに、一刻も早く屋敷を出ろってことだろ?」
「いえ。その際に屋敷から出る姿を見られたら、アウトデス」
「裏口とか、抜け道はないのか?」
「ご主人サマは抜け目ない方デスノデ……。滞在中はおそらく、どこもかしこも出入りはインポッシブルデスヨ」
「……解せないな。そこまで神経質なヤツが、娘が男とプライベート・ジェットに乗ってたことに気付かないものか?」
「そっちは奥サマの管轄デスノデ。お父サマには、秘密にしていただけると先程連絡がありマシタ」
一旦俺は、今までの話を整理するためにしばし黙考した。
「……俺は和花の親父さんが帰るまで、屋敷のどこかに隠れていればいいのか?」
「それも考えマシタ。ただ、ご主人サマは百人近くのボディーガードを引き連れてきマスカラ、万が一気配に気づかれたら……」
「他人の家でサバイバルゲームはしたくないな……」
なんか段々、気が滅入ってきた。
「じゃあなんだ? お前等は正直に白状と謝罪して、俺を親父さんに売り渡す気か?」
「いえいえ。そんな薄情なことはしマセンヨ」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「フフフ。とっておきの秘策がありマス」
ヴィンカの双眸がキラリと光る。
……ものすごく、不吉な予感を覚えた。
○
「ドレスアップ完了デス!」
俺は昨日と同じ、パウダールームにいた。
鏡の中には昨夜流星と名付けられた女の子……、つまり俺がいる。
今日はなんかお高そうなロング丈のワンピースを着せられた。袴のように両足の間を遮るものがないのに、布が膝を覆うように当たっているこの感触はなかなか不思議である。
「……お前、絶対ふざけてるだろ?」
「そんなことないデスヨ。真面目も真面目、大真面目デス」
満面の笑みで答えるヴィンカ。こっちは生憎と呆れが勝って草も生えない。
「お前の持ってる辞書は不良品だ、買い替えた方がいい」
「まさか。ちゃんとキュートの項目にはジャスティスって書いてありマスヨ」
自信満々な様子で述べるヴィンカ。
俺は爽やかな朝に似つかわしくないため息を漏らした。
「これで本当に騙しきれると思ってるのか?」
「それはミス・流星の演技力次第デスネ」
「そのステータスにはまったく経験値を割り振ってこなかったんだが」
「大丈夫デスヨ。昨日のレッスンを思い出してクダサイ」
「一朝一夕でどうにかなるもんじゃないだろ。それに、これ……」
自身の胸元に手をやった。そこにはふにふにと柔らかい二つの膨らみ。
「……こんな紛い物の胸を作ったところで、意味ないだろ」
「ノー、ノー。ミーは昨晩のミス・流星には何か足りないと思っていマシタ」
「それがこのシリコンバスト?」
「イエス!」
親指を真上に突き出してのアンサー。キランと白い歯が光ってるのが無駄に眩しかった。
「画竜点睛を欠くどころか、蛇足でしかないと思うんだが」
「オゥ、素材だけでレディたる自信があるとは!」
「いや、そういうんじゃないけど……」
「でもデスネ。バストは大事デスヨ!」
ちょっと動くだけでダイナミックに揺れる双丘に、思わず目が引き付けられる。それから自分の緩やかな膨らみ。
「……別に、大きいのと小さいのでも大切さの度合いは一緒じゃないか?」
「イグノランスなミス・流星に一つ、レクチャーしてあげマショウ」
ヴィンカが俺の胸もといシリコンをつついてきて言った。
「女の子の胸には、愛がいっぱい詰まってるんデスヨ」
「……男にだって愛ぐらいはある」
「そうデシタカ、それは失礼シマシタ」
俺は自身の胸をつつくヴィンカの指を、なんとも言えない気持ちで見やりながら訊いた。
「なあ……。やっぱり、いつも通りでよくないか?」
「もったいないデスヨ。せっかくだから、バストのある感覚を楽しみマショウ?」
言いつつ、シリコン製の胸を撫でまわしてくる。手首まで柔軟に使ったヴィンカの愛撫は異様になまめかしかった。感覚神経は通っていないはずなのに、実際に肌に触られているような気分になってくる。
それに背には、本物の二つの果実がむにゅっと押し付けられている。足の力が次第に抜けてきて、俺はその膨らみに次第にもたれかかるようになっていた。
徐々にヴィンカの呼吸が浅くなってきて、生温かい吐息が耳にかかってきていた。
「……チークを真っ赤に染めて……キュートデスヨ、ミス・流星」
「そ、そんなこと……ない」
「フフ、声が上ずってマス。本当に女の子みたいデスネ……」
女の子みたい――そう言われた瞬間に、肌が泡立つ感触が全身を襲った。
同時に頭がゾクゾク震えて、体が火照り始める。
生まれて初めての感覚だった。
ふと鏡の中の自分と目が合った。まるで熱に浮かされたように、その両目は蕩け切っている。胸を上下させて呼吸し、ヴィンカに体を預けてなされるがままにされているその姿はまるで……。
ふいにコンンコンと控えめにドアがノックされた。
すぐさまヴィンカが言った。
「入ってきていいデスヨー」
「ちょっ、おまっ!?」
我に返って止めようとするも時遅く、ドアはすでに開かれていた。




