笛
列車の汽笛よりもひとつもふたつも甲高い笛の音がたちまち部屋に響きわたり、耳慣れているはずなのに今日もまたびくっとつかまれるまま背筋を上げながらそのほうへ顔を向けると、音のする方角はそれとなくわかるのにこちらとあちらとを遮る壁にはばまれて、正確な位置までははっきりとはわからない。場所を定めようと戯れにぴんと聞き耳をたててみると、甲高い響きにくわえて怒りのこもった響きが徐々に、そしてある一点から急激に台頭してきたのを確かに聴きつけて座布団から立ちあがると、すっくと伸びた太腿からふくらはぎにかけて同じ姿勢から一挙に解放された悦びがたちまち駆けめぐり、穂香はそこでそのままつま先立ちになってさらに悦楽の伴奏を指揮した。
そろそろ悦びから苦痛へと事態が暗転するほんの間際でかかとを下ろしてふーっとひとつ長い息をつくと、ぼーっとし始めた頭にむかって忘れたわけではなかったもののつい最前まで耳障りだったはずの笛の音が、目を覚ますのを目的としているはずが意図に反して時にこころよい振動をつたえてくる携帯電話のバイブレーションのように、瞬間音がすっと消えてそのふるえだけが耳から頭に伝ってくる。彼女はふっと我にかえると、座布団から足を踏みだして早足にすすみ、キッチンへはいるとステンレスのやかんの注ぎ口を塞いでいる蓋のちいさな穴から、半透明の湯気がもうもうと噴きあがって回転する換気扇を保護する整流板にあたり横へ伝って細いすきまからなかへ吸い込まれてゆくのが、見えたような気がするうちにすうっと伸びた右の人差し指がキッチンコンロへたどり着き火を止めた。
穂香はからだを向けかえて二歩あゆみ足をとめると、電子レンジの扉を縦にあけて、なかから事前にあたためておいたカップを取りだして扉を閉め、もとの場所へもどって注ぎ口の蓋をあけたやかんからカップの七分目にかけて湯気のたったお湯を注ぐと、準備してあった紅茶のパックを調理台から取ってひと巻きされた糸をほどき、さきを指につまんで空中でパックがぶらぶらするのをながめながら落ち着いたところでお湯にゆっくりと浸した。
真っ白な器を背景にした透明なお湯に、すこし赤みがかった茶色がまるで湯気が噴き出るようにゆったりと浸透してゆく。お湯を含んだパックが糸だけ外へのこして静かに溺れていくと、それにつれて色彩もゆっくりと溺れてゆく。底に沈んだお尻をぺたりとつけて壁にもたれ休んでいる様子に、つい惹きこまれているとふいに気づいて部屋にもどり、掛け時計へ目を移すと、今の時間はわかるけれど、さていつ頃パックをいれただろうか。もう一分はたったかしら。二分ちょっと浸しておけばいいはずだけれど。彼女はなるべく時間に正確に浸けて飲みたかった。結局掛け時計の針のうち、もっとも細身でもっとも俊敏な針が一回り半したところで台所に急いで取ってかえし糸をつまんでそっと引きあげると、底にうずくまっていた濃密で圧縮されたマグマが突如盛大な火山噴火を起こし、それとともにみるみる紅茶の色彩が均等に整っていく頭上で空中へと飛び立ったパックは、縦横の比率をどうしようもなく誤ったプロペラのごとくくるくると回りだして徐々に減速し、止まったかと思うと反動で、こんどは初めから周りに気を配る低速で反時計回りをしているうちそろそろとしだして遂にぴたりと止まった。
彼女はぴんと張った糸をやさしく振って水分を切った。以前適当にふっているうちに糸がぷちんと切れてポチャンとやったことがあったのだ。そうなるとスプーンかお箸をつかって引き上げなければいけないし、ちょっとしたものだとはいえ洗い物も余分にふえてしまう。ミルクやレモンをいれるならそんな計算をすることもないけれど、家ではもっぱらストレートで楽しんでいた。それでいてお店の椅子に腰をかけて優雅な午後にふけりたいときにはまずミルクティー風味のものを選んでしまう。家では味を調えるのが面倒だとかそういう怠惰な理由ではなく、すみわけをしたいのだと彼女自身は考えている。だんだんと自分の彩り方に確信がもててきたとっておきの化粧を家へ着くや否やまずはきれいさっぱり落とすのも、男には絶対見せない年季の入ったお気に入りのスウェットは出掛ける際はもちろんのこと、ドアから一歩でも脚を外へだすときにもインチのきつくしまったズボンに必ず履き替えるのだって、すみわけなのだ。
穂香はもう滴りおえた紅茶のパックを再度軽くふり、最後の確認をすると、すぐそばのゴミ箱へ右脚をのばして指先にペダルを踏んだとたん、曜日とゴミ捨てとの符合が彼女をひたととらえ、今日はまだカフェインの恩恵をひと口も受けていない若い脳みそがたちまち苛立ちの覚醒を起こし、やかんの笛の長く甲高い怒号のような響きとはちがう、ごく短いタップ音が薄紅色の唇から漏れた。
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