何光年先の原石を
連れてこられたのは街灯のない高台だった。
ぐんぐんと進む伯父の背中を追って香織は必死に足を動かす。
「待って!こんな所まで来て何するのよ?」
首筋を撫でる風が段々と冷たくなってきた。
真っ暗な道が香織の不安を掻き立てるように永遠と続いている。
振り返って笑う伯父はついて来れば分かるとさらに歩幅を大きくした。
人のいい笑顔にこわばっていた肩の力が抜けるのを感じる。
これ以上何を問いかけても無駄だと悟った香織は黙々と後を追うことにした。
さて何故こんな状況になったのか。
香織は歩きながらも少しだけ頭を抱えた。
簡潔に言えば伯父の思い付きである。
しかし、そもそもの火を付けるきっかけは香織だったのかもしれない______。
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「香織ー?今日、伯父さん来るって言ってあったでしょう?部屋片付けて!」
朝、起きぬけに母にそう言われ香織は不機嫌に反発した。
そんな事を聞いた覚えはない。
渋々ベッドから這い出して見回した部屋は原稿だらけ。
どうしようもない現実にため息をついた。
拾い上げた原稿はバツ印だらけで、辛うじて書き上げたものも何となく破いてしまいたい衝動に駆られる。
「やっぱり才能なかったのかな。」
ため息と共に漏れる呟きは誰に届くこともなく消えていった。
机の上にある一冊の本。
香織のデビュー作。
作家になると決めて出版社に何度も何度も応募してやっと叶った作家の夢。
そしてそのデビュー作は幸運にも人気作品と言われるようになっていた。
しかし、その裏では新しい作品を出しても著しい結果がなかなか出ない。
その事に香織は焦りを感じていた。
ひとまず考えても仕方がない、と無理やり思考を片付けに変換する。
放り出した原稿は部屋の隅のゴミ箱へと消えていった。
伯父が訪ねてきたのは正午を少し過ぎた頃だった。
一緒に食卓を囲みながら他愛もない話をする。
「そうだ、夕方からご近所の集まりで少し出かけるわ。」
2人で留守番よろしくね、と笑う母はその後も伯父と談笑を続けた。
香織は隙を見つけて部屋に引きこもる。
書きかけの原稿に手をつけるがやっぱり思うようには進まなかった。
書いては捨てて書いては止まる。
どれも売れるとは思えなかった。
どれだけそうしていたのだろう。
部屋のノックで初めて窓の外が暗くなっていることに気付いた。
入るよ、という声とともに伯父は顔を覗かせてくる。
そのまま興味深そうに視線を彷徨わせながら部屋に入ってきた。
母はもう出かけたのだろう。
「ほう、これが作家さんの部屋か。」
大して面白い部屋でもないだろうに新鮮な表情をする伯父に香織はクスリと笑った。
「デビュー作、読んだぞ。面白かった。」
「ありがとう。」
「その次も、その次の本も読んだけど香織は凄いなぁ。」
本当に心底楽しそうにあれこれと感想を述べる伯父に驚いた。
「え、読んだの?」
当たり前だろう、と屈託なく笑う顔を見て胸がキュッとなった。
まさか全部読んでくれている人がいると思わなかったからだ。
香織の本はどこの書店に行っても他の本に紛れてしまうようなものが多い。
それを良いと言ってくれる人が目の前に現れた。
香織はどうしても心に引っかかることを聞かずにはいられなかった。
「でも、どれもデビュー作には及ばないでしょ?」
指先が震えていた。
自分の本に対する生の声を聞くことが怖いと思った。
ぎこちない笑みを浮かべる香織に伯父は不思議そうな顔をする。
「全く違う話を僕は比べられないよ。」
そう言うと、それぞれの良さを力説してくれた。
存外しっかりと読み込んで香織の意図を理解してくれていることに驚く。
「ん?これは?」
伯父の視線が部屋の隅の原稿に向く。
「あぁ、それはボツ原稿。」
答えるや否や伯父はぺらぺらと読み始めた。
真剣な表情に思わず止めるのを躊躇う。
暫くして顔を上げた伯父は興奮気味に感想を述べた。
あそこがいいだの、ここがいいだの。
自分がボツだとした原稿にここまで楽しげに感想をくれることにあっけにとられる。
しかし香織はすぐにモヤモヤと複雑な心境になった。
嬉しいと思うより困惑した気持ちが大きくなる。
「どうしてこれがボツなの?」
真っ直ぐな質問に香織は口ごもった。
なぜと言われても実際のところ答えられないのだ。
どこか納得がいかない、売れる自信がないと言う漠然としたものだから。
そんな釈然としない香織の様子に伯父は少し考え込むそぶりを見せた。
「よし、少し出かけようか。」
立ち上がった伯父は香織を引っ張る。
急なことにバランスを崩しながらされるがままに香織は伯父の後についていった。
「ほら、もう直ぐ着くぞ。」
そう言って立ち止まった伯父の背中に香織は顔面からぶつかった。
「痛っ〜。」
鼻を押さえながらゆっくりと目を開ければ視界いっぱいに飛び込んできたのは宇宙だった。
高台への道が開けて満点の星空が広がっている。
思わずほぅと溜め息が漏れた。
「綺麗…。」
ポツリと呟いた言葉に伯父は満足そうに笑う。
まるで自分のものかのように胸を張る姿に香織もつられて笑った。
「香織が今見ているその星は、あの星の今の輝きだと思うかい?」
香織は質問の意図がわからなかった。
肯定でもなく否定でもない、香織は少し首を傾げる。
例えばね、と伯父が指差す方向には一際明るい星があった。
「あの星はフォーマルハウトって言うんだ。」
フォーマルハウト。
秋の星の中では唯一の1等星だという。
「今僕たちが見ているあの星は、実は25光年も前の星なんだ。」
「25光年?」
伯父の話では、光には音と同じように進む速度というものがあるらしい。
その速さは何と1秒間で地球を7周半出来るという。
そんな光が1年間で進める距離のことを1光年と数えるから25光年は実質25年前の光を見ているということだ。
香織は突然のスケールの大きさに目眩がした。
「あの星は25年前に頑張って輝いたから今こうして僕たちに綺麗な光を見せてくれる。」
そう言われて改めて見ると不思議とさっきよりもさらに綺麗に見えた。
「あそこに見える木星は分かる?」
「木星?」
「そう、あれは14分前の光なんだよ。因みに月は1秒前で、太陽は8分前だ。」
さっきのフォーマルハウトと比べたら断然早い。
一生懸命輝いても25年かかる星もあれば、たった数分数秒で届いてしまう光もある。
「因みに、あそこに見えるアンドロメダ銀河は230万年前ね。」
「230“万”年!?」
さらりと言う伯父に卒倒しそうになる。
途方もない年月に香織の想像力は追いつかなくなった。
そんな香織の様子に伯父はひとしきり笑うとフッと真面目な表情をする。
「どうしてここに連れてきたのか分かるかい?」
ただの気分転換と言うわけじゃないだろう。
香織は素直に首を横に振った。
「香織、君は言うなれば宇宙だ。君の生み出す作品の一つ一つが空に散らばる星になる。」
香織はよく意味が分からなくて戸惑う。
それでも何とか理解したいと耳を傾けた。
「君は今、デビュー作の人気に追いつかない事に焦っているんじゃないか?」
確信を突かれてドキリとした。
言い訳がましく何かを口にしようと思ったが伯父の顔をみてそうするべきではないと感じた。
「今、君が頑張ったことが直ぐに光ることもあるだろう。だけど、直ぐに輝きが読者に届かないこともある。それは星と同じじゃないかな?」
「だけど、どれだけ頑張っても光らないものもあるわ。」
「それはまだ光が届かないだけかもしれないよ。案外、死んでから光るかも。」
死んでからって…、と思ったが伯父は本気で言っているようだった。
今、教科書に載るような有名な画家さん達だってそうであっただろう?と。
「それにね、全部が1等星みたいに輝けるわけじゃない。全部が1等星なら疲れてしまうよ。」
小さな光も必要なんだと言われて何だか納得した。
伯父の言葉が一つ一つストンと胸に落ちてくる。
「みんなが求める1等星よりも3等星4等星、時には6等星くらいの方がよほど心地よい時もある。」
デビュー作の光が強すぎてうまく書けなくなったと落ち込んだ。
下手になったんじゃないかと焦りを感じた。
しまいには、自分の実力じゃない偶然で運良く生み出せた作品だとさえ考えた。
だけど、その全てが早計だったと香織は思い知る。
「僕は君の描く世界が好きだ。だから、書くのを嫌いになっていないなら諦める理由を探さないで。」
作家にとってこれほど嬉しい言葉はない。
香織は今なら何だって書ける気がした。
作家は正解のない職業。
書き手が宇宙なら、生み出す星達には愛情と責任を持たなければならない。
いつか誰かに届く光だと信じて。
優しく笑う伯父に心からのありがとうを言った。
沢山売れるものじゃなくても良い、たとえ微かでも香織の空で確かに輝ける星を作ろうと初めて思えた。
「伯父さん、私先に帰る!」
駆け出した香織の背中はキラキラしてて伯父は“いってらっしゃい”とその背中に呟いた。