最高傑作③
夜の11時、ティムがジュースの買い出しを兼ねて会社周辺の見回りに出かけた。発売日が三日後に迫り、夜十時から朝六時までの間は並ぶのは禁止しているとはいえ、ここ数日終電で来て、夜中に並ぼうとする若者と規則を守り決められた時間通りに並んでいる人達の間でトラブルになっていると連絡がきたのである。
「ですから先ほどから申し上げていますように、今から並ばれても既に千三百五十一人の方が並ばれていますから、その後の順番になりますから、名前をご記入頂いてお帰りくださいと申し上げていますでしょ」
「そんなの知るかよ!おばさんが勝手にやってることだろ、俺達は今ここにきたばかりなんだよ、そしたら誰も並んでなかったから、一番のりだって言ってんだよ。発売日までここに並んでいるつもりだからよ、横入りされても迷惑なんだよ。いったん列から出たんだったら後ろに並び直すのが常識ってもんだろ!」
「ですから、何度も申し上げていますでしょ。警察を呼びますわよ。ディオレス・ルイ社のホームページにも記載されておりましたでしょ。新刊の販売待ちのお客様は夜十時から朝の六時までは治安の都合上並ばれるのはご遠慮願いますと、あなた英語も読めませんの?」
「はあ?俺はな昼間は仕事で並べないんだよ。今仕事が終わって明日から三日徹夜で並びに来たんだ。ごちゃごちゃぬかしてるとただじゃおかねえぞ」
「なんですって!」
「おやめください。お客様も、ご事情はお察しいたしますが、夜、徹夜で並ばれてもしお客様が事件に巻き込まれでもなさったら、発売自体中止になりかねないんですよ。すでに数日前から並ばれていらっしゃる方達はきちんと、我が社とのルールを守って並んでくださっているのですよ。お客様のようなご勝手な行動をとられる方がいらっしゃいましたら碧華先生もどんなにお心を傷めになられるか」
三人の若者とカリーナが口論しているのを見かけたティムが慌てて間に入り言った。
「じゃあどうしろっていうんだよ。今から並んだって買える見込みは薄いんだろ?店頭でも限定発売の予定は千冊だって聞いたぜ」
本音が出た若者の一言を聞いて真っ先に声を出したのは意外な人物だった。
「あら~残念ねえ、一生懸命頑張っても店頭販売できるのって、たった千冊だけなの?」
その声に反応したのはカリーナとティムだった。なぜならそれは英語ではなく日本語だったからだった。
「!」
驚いて振り向くと、そこには碧華とボンズが立っていた。言葉をなくし声の主に視線を向けた。
「そうですわね。完成を明日の午前中までに終了して頂けるのでしたら、主人に言って後店頭販売に分を追加で千冊は増刷できるように印刷機械を特別に二十四時間体制に切り替えてられるか掛け合ってもよくてよ」
碧華の言葉に日本語で答えたのはカリーナだった。
「ええ~私次第なの~」
「碧ちゃん、普通の本の出版物ではこんな急な仕事は受けませんわよ。これでも原画待ちで機械を全てストップさせてお待ちしておりますのよ」
「ほっ本当よね。毎回毎回遅くなってすみません。あなたの旦那様にはいつも無理を言ってます」
碧華はそう言ってカリーナに深々と頭を下げた。
「あら、自覚がおありなのね。でも、毎回期待を大いに裏切ってくださるもの。こちらも頑張りがいがありますわ」
「恐れ入ります」
二人は互いに笑いあった。その後突然思い出したように碧華が叫んだ。
「そうだカリーナ、これから一緒に買い物行かない?私お腹すいちゃって、まだ開いているお店があるっていうからこれから夜食を買い出しに行くところなのよ」
「買い出しですか?先生自らですか?」
驚いてそう答えたのは横で話しを聞いていたティムだった。
「あの、そんなことでしたら僕がジュースと一緒にこれから行きますから、先生は早く作業に取り掛かってください」
そういうティムに対して碧華がお腹をさすりながら言った。
「でも、疲れちゃったから息抜きしたいのよね」
不服そうに碧華がブツブツ言った。
「そうですわ。碧ちゃん、差し入れならわたくしの行きつけのお店がありますから、後で届けさせますわ。ここは日本ではごさいませんのよ。夜の街は何があるかわかりませんから、碧ちゃんは中でお仕事をなさってくださいませ」
カリーナも碧華が外に出ることは頑なに反対の様子だった。
「カリーナがそこまでいうなら仕方ない、買い出しはあきらめるか・・・でもあなたたちはこんなところで何してるの?」
碧華は二人の後ろから顔をのぞかせて聞いた。その様子に驚いているのはカリーナともめていた三人だった。
のんきに日本語で質問した碧華に対して驚きで硬直している若者たちを尻目に碧華は興味深々で更に若者たちに近づいた。碧華の日本語を側にいたボンズが英語で通訳すると、正気に戻った若者の一人がしゃべり出した。
「あっあんたはAOKA・SKY?・・・ほっ本物?」
「おっおい本当か本当に本物か?」
三人は互いの顔を見あいながら驚いた顔で三人に近づいてきた碧華に対して逆にあとずさりながら小さな声で言い合った。碧華はその言葉を聞いて笑顔で答えた。
「は~い、私が正真正銘AOKA・SKYの碧華よ。あなた方はどうしてこんな時間にこんな場所にいるの?」
「あっあの本が発売になるって聞いたので徹夜で並ぼうかと思ってきたんです」
「徹夜?わあ楽しそうね!私も若い頃徹夜でチケット買うのに並んだことあるけど、大変だったわよ、楽しかったけどね。でもねえ、ここはアトラスで日本じゃないから危険よ。本を買ってくれるのなら、きちんと規則を守ってくれるとありがたいな。じゃないと、もし何か問題がおきたら本の出版自体だめになっちゃうから」
「でも・・・俺達出遅れちまったから、当日買えないかもしれないし」
「当日は無理でも限定販売じゃないからネットでも時間はかかるかもしれないけど買えるし、それじゃだめなの?どこかに行くとか?」
碧華の日本語をボンズが通訳すると、いきっていた若者の一人がポツリと話し出した。
「実は・・・AOKA・SKYのファンなのはコイツの妹なんです」
そういうと隣にいた若者が自分のスマホを取り出すとスマホの画面に一人の少女を写した画像を見せた。その少女は病院の病室らしきベッドの上で弱弱しく微笑んでいた。
そして手には碧華の前作の本が大切そうに抱きかかえられていた。
「すっすみません。こんなこといけないことだってわかっていたんです。だけど、どうしてもサ―シャに新作の本を買ってあげたくて、本当にすみませんでした。もう帰ろう。こんなことをしても本は買えないよ。順番に並んでだめだったら、諦めるよ、手術後に買えばいいって励ましてやるから」
そう言うとその青年は深々と頭を下げると、渋る二人の腕を引っ張ってその場を去ろうとした。その時碧華が叫んだ。
「あっ待って、その妹さんの手術はいつなの?」
「四日後の九時からなんです」
「そう…そうだ!あなたたち家に帰る終電までまだ時間ある?」
「はい」
「じゃあ、そのスマホ少し借りれないかしら?」
若者は首をかしげながら素直に自分のスマホを差し出した。
「さっきの娘さんの写真のとこだして」
言われた通りもう一度その少女の写真を出すと、碧華はそれを受け取ると
「十分ばかり待っててくれる。すぐ戻るから」
そう言って走り出した。その場にいる全員が驚いている中、碧華は一人だけディオレス・ルイ社の中に入って行ってしまった。何をするのかと待っていると、十五分後息を切らせながら何かを手に持って碧華が戻ってきた。
「ハアハア・・・ごめんなさいね。新作本、本当にまだできてなくて妹さんにあげられる状態じゃないから、これサイン色紙なんだけど、妹さんにプレゼントしてあげて、手術の成功を祈ってるわ。三日後に二千冊店頭販売できるように頑張って仕上げることにするから、あなたたちもこんな危ない所にいないで家に帰りなさい」
そう言ってスマホと色紙を青年に手渡した。その色紙に描かれていたのは、テマソン直筆の少女の似顔絵と碧華直筆の短い詩が書きこまれていた。驚いて言葉をなくしている青年に向かってボンズが言った。
「若者よ。今回の騒ぎは下手をしたら警察沙汰になってもおかしくない行動なんですよ。そんなことにでもなったら、一番悲しむのはその妹さんじゃありませんか?しかし自分勝手な軽率な行動の裏のそんな事情があるのなら今回は警察への通報はしないでおきますがこんなことは二度としないと誓えますか?」
「はい!すみませんでした」
三人は涙を流しながら何度も頭を下げた。
「よーし、そうだチェキで写真撮ろう」
そういうと背中から写真機チェキを取り出すと、それをティムに手渡すと二枚とってというと三人をディオレス・ルイ社の正面玄関に手招きすると、まだ照明が照らされている場所で四人で写真を撮った。そしてその後ろに三人の名前をサインさせると、何も書いていない方を一枚渡した。
「これで妹さんにその色紙が偽物じゃないって証明になるでしょ」
碧華は英語でそういいながら彼らに手渡した。
「ありがとうございました」
彼らは大きくお辞儀をするとお礼を言った。碧華は笑顔で一礼した。
「でも、このことは内緒にしてね。夜中に来れば私と写真を撮れるなんてことが広まったら私安心して睡眠とれなくなっちゃうから」
「はい誓います。このことは口外いたしません」
三人はそう言ってもう一度頭を下げた。碧華はその後すぐ手を振ってディオレス・ルイ社の中に入っていったが、後に残ったティムは念の為に、三人から身分証明書を提出してもらい住所と名前とを控えた。そしてカリーナは本の順番待ちのボードを三人に渡し、正規の時間に順番に並ぶように説明書きを手渡した。彼らは一名の名前を記入した後、素直にそれぞれの家へと戻って行った。