第93話 2日目~ポイズンリザードタイラント~
―――マルハチが声を上げた。
「止まれ!」
その乱暴な語気の意味を悟ったミュシャとツキカゲが足を止めた。
「くそっ!なんで気が付かなかった!臭いが、こんな近くになるまでしないなんて!」
マルハチの額には珠のような汗が噴き出ていた。それはツキカゲも同じだ。
ミュシャだけが、いつも通りにニコニコと……いや、いつも以上に満面の笑みを浮かべていた。
「マルハチさん?これって、ジェノサイドポーラベアの時と同じですよね?氷煌の時の。なんで同じ間違いを繰り返しちゃうんですか?」
そう、これはステルスの術。対象の気配を消すだけではなく、発する臭いや音すらも消し去る。見破る方法は目視のみ。
「ミュシャ。悪いが説教は後で聞くから、今は目の前の敵に集中してくれないか?」
マルハチ達のいる平原からはおよそ100メートルほど。砂岩丘から飛び出した、小さな岩山の陰に、それはいたのだ。
見た目はその名の通り、家畜用の牛馬と同程度の少し大きなトカゲに過ぎない。が、しかし、ただの大きなトカゲが食物連鎖の頂点の一角に数えられるわけがない。全身は赤黒い大きな鱗に覆われ、体の割りに頭部は小さくトカゲよりも蛇に近い印象を持つ。そして、最大の特徴は首回りに備わっている、蛙の鳴嚢のような大きな袋。この大トカゲを魔界一の殺戮動物へと押し上げた、魔王をも殺す毒を精製するための毒嚢だった。
「まずい……こっちに気付いたぞ。」
ツキカゲがたじろいだ。
「いいか?絶対に打撃を加えるなよ?」
マルハチも腰を落とす。
ポイズンリザードタイラントが立ち上がった。同時に首回りの袋が一気に膨れ上がる。形状的にはエリマキトカゲに近い。が、そんな生易しいものではない。
激しい雄叫びと共に、毒嚢が揺れた。
揺さぶられる毒嚢から染み出した体液が、雄叫びに合わせて撒き散らされた。
飛沫を受けた岩肌が、凄まじい煙を上げ始めたかと思うと、一瞬で崩れ落ちた。
「おいおい、岩まで溶かすだと?話し以上の化け物だな。」
あまりに非常識な光景に、ツキカゲから笑い声が漏れてきた。それはマルハチも同じ気持ちだ。笑わずにはいられない。それほどまでの脅威。
「って、おい!君は何をやってるんだ!?」
突如としてマルハチがツッコミを入れたのは、傍らにしゃがみ込むミュシャの行動を目にしたからだった。自慢のアヒル型リュックのファスナーを広げると、いそいそと中身を取り出している。
両の手に持ったのは、リュックそのままの形のアヒル型をした、刃が大きく柄の短い、ふた振りの手斧だった。
「ミュシャですね、昔、姫様に褒められた事があるんです。『ポイズンリザードタイラントみたいな殺戮者の目をしてるね』って。」
自分の胴体ほどもある巨大な刃を備えた斧を、お手玉をするかの如くクルクルと放り上げながら、ミュシャが言った。
「それは褒められてないぞ!ミュシャ!」
いくらミュシャでも今度ばかりは相手が悪い。掠る程度でも触れたが最後、肉体は融解し崩れ落ちる。あの頑強なギガース族の長ですら簡単に葬ったのは実証済だ。
「分かってます、マルハチさん。ですからミュシャ……」
もはやミュシャの目には生ける強酸しか映っていなかった。
「姫様に褒め直して貰いたいんです。『ポイズンリザードタイラントは、ミュシャみたいな殺戮者の目をしてるね』って♪」
「それも褒められてない!そしてなんでそんな無駄な対抗心を!?死ぬぞ!」
「大丈夫です♪」
ミュシャの体がブレたような気がした。
「毒、引っ掛からなければいいだけですから♪」
気が付いた時には声のみがその場に残されただけで、ミュシャの姿は既にポイズンリザードタイラントに向かって駆け出していた。
ミュシャが片手の斧を投げた。
巨大な手斧がまるで円月輪か何かの投擲具のように鋭く速く空を切って飛んでゆく。狙いは、後ろ足だった。
二足で立ち上がったポイズンリザードタイラントの片足を、手斧が真っ二つに切り裂いた。
同時に体液が飛び散り、直でそれを浴びた斧は空中を舞いながら溶けて消滅していった。
が、ミュシャは得物のひとつを道連れに、相手の機動力を削ぐことに成功した。
「あのゴリラ娘ならやれるかもな。」
ツキカゲが呟いた。
「奴は、あたしの配下だった手練れのソーサラーを数十と相手取り、返り血ひとつ浴びなかった。そのあいつならば、あるいは……」
一足飛びで生ける強酸との間合いを詰めると、ミュシャは斧を横に薙いだ。
「そうかもしれない。今の僕や君でも、同じことは出来るかもしれない。だけど、触れたら最期のあの猛毒を前にして……」
毒嚢に光が走ったかのように見えた。同時にミュシャが斧を手放す。鋭い刃は、泡を立てて融解し始めていた。
「それでも切り裂こうなど、まともな神経では出来んだろうな。」
ポイズンリザードタイラントが口から黄土色をした血液を吐き出した。その隙間を縫うように、ミュシャは体を捻らせると間合いの外へと飛び出した。
毒嚢には裂傷ひとつ付けることなく、その奥に眠る喉笛だけを掻き切ったのだ。
「見てましたかぁー?」
ぐったりと倒れ伏す毒トカゲから少し離れた場所で、ミュシャは笑顔で手を振っていた。
「ちなみにちゃんと袋は切ってますよー♪切れ目が開かないくらい速く切ったから、切れてないように見えただけですよー♪だから斧は溶けちゃったんですよー♪」
せっかくの決めシーンのはずなのに、訊かれてもいない解説を全力でアピールしている。
誠に残念だし、遺憾だった。
「やれやれ。どこまで行っても締まらない奴だ。」
ツキカゲが白い髪を掻き上げながら笑っていた。マルハチもニヒルな笑みを浮かべた。




