第89話 南部の覇者
―――遡ること数日前。
プージャ達が南部遠征へと向かうための準備を整えている時期のことだった。
南部中央。雲をも眼下に見下ろすほど険しく高い山脈の麓に、大きな街があった。
魔界南部最大の都市、ベラージオ。
元々は魔界全土を統治していたマリアベル領の南部拠点であるため、建築様式や生活様式などは北部の文化をほぼ踏襲している。
が、その規模は領主の城下町であるプージャ達の住む町よりも遥かに大きい。北部よりも更に広大な南部の交易の中心地として、古くより栄えてきた大都市だ。
その大都市の中心にそびえ立つ異様な城郭。
石材はほぼ使われずに木材を中心に構成されており、朱に塗られた太い柱と柱の間は漆喰で塗り固められた壁が覆う。屋根には瓦と呼ばれる独特の光沢がある焼き物が使われ、美しい波模様を浮かび上がらせている。天井が高く、5階建てのサルコファガスと同等の高さを誇るも、実際は2階建て。
そして特筆すべきはその広大な敷地。
ベラージオの半分を潰して建設されたその城の敷地は、マリアベルの町がすっぽり収まるほど。
マリアベルらゴブリン族を中心とした文化圏とは全く異質な、ドラゴン族の文化様式で建造されし天霊ブローキューラの居城。
それが【天霊郭】だった。
本殿の裏手。
この城郭の主のみしか立ち入りが許されない、バルコニーが存在する。
太陽の日を浴び、簡易的な寝椅子に仰向けになって本を読む者があった。
小さな体躯。細い四肢。まだ年端もいかない子供だ。一般的な魔族とは一線を画する空色の髪は伸び放題で、長い前髪は目まで覆い尽くす。しかし、身なりだけはとてもしっかりしている。黄金と朱の糸で織られた前合わせの、プージャらの文化圏で言うところの、ワンピースを帯で留めたそれは、ドラゴン族の民族衣装の中でもとりわけ高貴な者のみが身に纏う、特別な物。そして、寝椅子からはみ出した大きな蝙蝠の如し翼。
彼女の名は、天霊ブローキューラ。
魔界南部を支配する魔血種族、魔人種ドラゴン族の王にして、約1万年前に魔界を支配した、魔王だった。
ブローキューラを照らす光が遮られた。
何かが彼女の頭上を通り過ぎたのだ。
影が徐々に大きく、濃くなっていく。しかし、彼女は手に持った本から視線を動かさない。
遂に、影の主が彼女の前に降り立った。そこでようやく、ブローキューラは顔を上げた。
「これはお久し振りです。クソ兄貴殿。」
逆光で顔は見えないが、ブローキューラははっきりとそう言った。
前髪の隙間から、髪と同じ空色をした瞳が輝かせながら。ギラギラと。
兄と呼ばれたドラゴン族は、背の高い細身の青年のように見えた。
ブローキューラ同様に、金糸の織り込まれた高貴な衣装を身に纏っていた。
「いつもこそこそと隠れてるあんたが島から出てくるなんて珍しい。オレに何かご用でしょうか?」
その口調には、完全なる侮蔑が含まれている。が、そんなことは意に介する様子もなく、青年はブローキューラに歩み寄った。
「緋哀の樹が昇った。」
短く言った。
「あぁ、そうですか。」
幼女。という表現がぴったり当てはまる外見をした魔王は、つまらなさげに吐き捨てた。
「昇らせたのは、あの魔王だ。」
「あの……?あぁ、オレ達を召喚したあのねーちゃんですか。生きてたんだ、あいつ。」
受け答えはしながらも、手にした本から目は離さない。そんの態度に業を煮やしたのか、青年はブローキューラの手からそっと本を抜き出した。
「緋哀の樹を下ろす方法を得にやってくる。」
「へぇ。」
「今の儂らドラゴン族では、神の涙には到底敵わぬ。彼らは、希望だ。汝も手を貸せ。」
「…………兄貴殿、あんた、もしや。」
ブローキューラはそこでやっと兄を見上げた。視線すら、侮蔑でまみれていた。
「ヴェルキオンネの秘術を与える。」
「あんたにはほとほと愛想が尽きる。まさか、ドラゴン族としての誇りすら失ってるとは。」
目を瞑り首を振る妹の様子もまた同様、意にも介さずに兄は語気を強めた。
「汝もドラゴン族の端くれであれば、神の涙の驚異は知っておろう。今、奴を止めねば、魔界のみならず、世界は奴の手に落ちる。」
「そりゃまぁ、オレだって多少なりとも理解はしてるつもりですよ。親父殿からは耳にタコが出来るほど聞かされてましたからね。」
今度は耳の穴に小指を入れてねじ回している。どこまで行っても兄と話す気などさらさらない。その意思を態度で現しているのだ。
が、兄の語気は更に強さを増していくばかりだった。
「ならば答えは決まっているはずだ。いつまでもいがみ合っている時では無い。彼女ら……いや、彼女はヴェルキオンネに次ぐ、神の涙に触れることの出来たふたり目の存在。何度でも言うが、彼女は希望なのだ。」
そこでようやく、ブローキューラの目の色が変わった。




