第6話 漆黒のバージンロード
幻術。
それしか考えられない。
黒薔薇の貴公子は、魔術と幻術の達人だった。
数百年前、魔界を統一した魔王のひとり。
無論、その武力は絶大。
しかし、魔人種黒子族という平凡な生まれの黒薔薇の貴公子を魔界の覇者へと押し上げたのは、デタラメとも言える程のその幻術だった。
敵対する魔界の猛者のほぼ誰一人として、黒薔薇の貴公子の体に指一本触れられず、破れ去ったと言う。
突如として現れ、破竹の勢いで魔界を制圧し、そして突如として消えた。
奴が何故、歴史の表舞台から消えたのかは定かではない。
どうしてプージャがなんの抵抗もなく、奴の申し出を受け入れたのか。
理由はそれしか考えられなかった。
マルハチの頭を悩ませている目下の問題。
プージャと黒薔薇の貴公子、
どちらが当主となるのか。
魔界における男女の性差は意味を成さない。
男尊女卑。
そんなものは存在しない。
女は男に嫁ぐもの。
そんなものは存在しない。
ルールは至ってシンプル。
力ある者が上に立つ。
当主同士が婚姻を結ぶということは、婚姻と言う名の戦争に他ならない。
より力のある方が主導権を握り、相手の持つ全てを吸収する。
プージャが黒薔薇の貴公子の幻術に魅了された時点で、この戦争はマリアベルの敗けだった。
マリアベルの家が存続するか否かは黒薔薇の貴公子次第、ということだ。
自室の机の上で頬杖をついた。
「はい!お茶ですよ♪」
マルハチの目の前にティーカップが置かれた。
「今日はこぼさずに置けたじゃないか。」
トレーを抱えたミュシャが微笑みかけてきた。
「はい♪ミュシャは常に進化し続けるバトルガールですから♪」
「そうか。君にとってメイドの仕事とは戦いなんだな。」
「ミュシャの人生はいつだって戦いなのです。」
「随分と哲学的なことを言うな。それにしてもぬるいお茶だ。」
「はい!マルハチさんはワンちゃんだから、きっと猫舌だろうと思ったのです!」
「毎日毎日お茶を運んできてくれるのに何故、今さら猫舌だと思ったんだ?僕は熱いものに弱くはないよ。」
「すみません!ミュシャ、勘違いしちゃいました!じゃあ、少し熱くしますね♪」
そう言ってミュシャはカップにタバスコを振りかけた。
「確かにこれなら熱く感じるようになるな。急にコーヒーが飲みたくなった。すまないが取り替えてきてくれるか?」
「はい♪お熱いのたっぷりでお持ちします!」
「自分で調節したいから、タバスコの瓶は別につけておいておくれよ。」
「はい♪」
「それで、プージャ様のご様子は?お茶、運んだんでしょ?」
「はい♪お部屋でウェディングドレスのご試着をなさってましたけど、なぁんかいつもより更にボーッとしてました。ブラジャー、前後ろで着けようとして、みんな爆笑でした♪」
「そうか。また、コーヒーを持ってきてくれるついでに様子を教えてくれる?」
「はい♪かしこまりました♪」
ミュシャが開けた扉の隙間から、慌ただしく動き回るメイド達の姿が見えた。
屋敷では、着々と婚礼の儀の準備が行われていた。
(さて、と。)
マルハチはゆっくりと席を立つと、部屋を後にした。
新郎の部屋の前に立つと、マルハチは軽く戸を叩いた。
それに応えるかのように、扉が勝手に開いた。
「やあ。君が僕に用があるとは、驚いたよ。」
客間の中央の椅子に黒薔薇の貴公子が膝を組んで腰掛けていた。
「式の前に申し訳ありません。」
扉の前でマルハチは深く一礼をした。
「入りたまえ。」
「失礼致します。」
ゆっくりとした足取りでマルハチは部屋の中に進んだ。
「ここは良い屋敷だね。」
宙に浮いたカップを手に取り、お茶をすすりながら貴公子は言った。
「お気に召して頂けたようで何よりです。」
なるほど、早くも現実を受け入れたか。
貴公子が目を細めた。
「ふふ。やはり君は賢いようだね。」
「もったいないお言葉。」
「さて、僕はまどろっこしいのが嫌いでね。一体君は何が聞きたいのかな?」
「…………分かりました。それではお伺いします。
あなた様がプージャ様と婚姻を結ばれたあかつきには、マリアベルのお家をどうなさるおつもりでしょうか?」
保身。
貴公子は心中でほくそ笑んだ。
確かに気になるだろう。
自分が生かされるのか、それとも切り捨てられるのか。
この男はわざわざそれを確かめに来た。
希望はもちろん分かる。
もし切り捨てられる危険があるのなら、この男は全力で取り入ってくるだろう。
しかし、家に仕える身分の自分がそう簡単にマリアベルを裏切れば、新たなる主の心証は悪くなる。
少しばかりでも家に対する忠誠を見せておく腹積もりか。
「ふむ。ますます気に入ったよ。僕は賢い者が好きだ。」
黒薔薇の貴公子がカップから口を離した。
「結論から言おう。君は手元に残す。」
「他は?」
「他?他に何か必要な者でもいたかい?」
「プージャ様は、」
「ああ、彼女か。」
貴公子がつまらなげに吐き捨てた。
面白い。実に。
主の幸福を願うフリか。
確かに妥当な振る舞いだろうな。
己の忠誠心を示すには。
新しい主にも同様の忠誠を誓えるという証明にはなる。
「……やはり目的は鹵獲ですか。」
「それ以外に何が?君でもそうするだろう?」
「…………。」
「不服そうだね。まぁ、プージャは、器量は良い。君が望むなら、僕のペットにしてやってもいいかな。
プージャが残ればマリアベルの血筋は残る。それなら君の義理も立つだろう?」
「……はい。」
いいぞ。
それがいい。
この、追い詰められた者がとる、見苦しいまでの悪あがき。
見てるだけで背筋がざわめく。
そしてこういう、生への執着の強い者こそ、生きるためにはいくらでも姑息に振る舞える者こそ、利用価値があるというものだ。
「やはり同じ穴のムジナだね。プージャに君はもったいないよ。」
「…………それこそ、もったいないお言葉。」
「良い式を頼むよ。」
そう言うと、黒薔薇の貴公子は手を払う仕草でマルハチの退室を促した。
「御意。」
扉が閉まるのを見届けると、黒薔薇の貴公子は満足そうに目を閉じた。
「賢い者は好きだ。だが、賢すぎる者は嫌いだよ。マルハチ。」
屋敷の講堂にて、式の準備は整った。
黒いバージンロードが敷かれ、その両脇に長椅子が並べられた。
そしてそのバージンロードの最奥に、巨大な邪神像が置かれた。
その像の前で誓いのくちづけを交わしたとき、プージャと黒薔薇の貴公子は夫婦となる。
講堂の扉が開け放たれ、新婦と新郎が現れた。
プージャは漆黒に染め抜かれたウェディングドレスを身に纏っていた。
とても美しかった。
祝いの歌を唄う歌手が邪神像の脇に立った。
ミュシャだった。
「ハッピバースデー、トゥーユー♪ハッピバースデー、トゥーユー♪」
延びのある、透き通るような美しい声でミュシャは唄い上げた。
「……彼女はふざけているのかい?」
貴公子がプージャに耳打ちをした。
「いや。あの純真無垢な笑顔は、本気だろうね。」
まどろんだような視線のまま、プージャが返した。
「何故誰も注意しない?」
「ミュシャだから仕方ない。」
やはりこの家は要らない。
黒薔薇の貴公子がそう心に強く誓ったのは言うまでもない。
真っ黒いバージンロードを歩くふたり。
講堂を埋め尽くしたマリアベル家の使用人達に見守られ、邪神像の前にたどり着く。
ふたりは互いに向き合い、
黒薔薇の貴公子が、プージャの漆黒のヴェールを持ち上げた。
プージャが目を閉じた。
黒薔薇の貴公子が、その潤んだ唇に、
唇を重ねた。