第5話 黒薔薇の貴公子
マリアベル家の図書室はこの様にとても広いでしょう。
少なくとも13代は続いている由緒正しい家柄です。
数千年に渡って蓄えられた蔵書数は膨大。
歴代の当主となられた方々は、その全員がこの蔵書の全てを読了なさったと言われています。
そのような魔族は他に聞いたことがありせん。
元々、とても知識欲が高い血筋であられるのです………。」
「だから、プージャおねーさまの読書好きもご先祖譲り。いつだって本に読み耽ってしまうのも仕方のないことなのです。」
いつものように机の前に立ち、授業を行うマルハチ。
徐々に授業ではなく説教に変わっていったところで、つまらなそうに語学の本に目を落とすプージャが呟いた。
「……目の流れ方が違うのですよ?」
マルハチはプージャの持つ語学の本の内側に手を突っ込むと、隠れていたいつもの絵本を取り上げた。
「っあー。」
「授業中に堂々と。良い度胸でございます。」
「本には変わらないじゃんさ。」
「中身がだいぶ変わると存じますが?」
「だってここにある本、どれもつまんないんだもん!」
プージャはいーっと歯を食いしばって見せた。
「魔王としての自覚を持って下さいませ。」
「不要!」
またお決まりのやり取りだ。
どうしてこうも、我が主は不真面目なのか。
何度考えてもマルハチに答えは分からない。
ついでに言えば、どうしたら君主にやる気を出させられるのかも。
五里霧中の難問だった。
マルハチは溜め息をついた。
「この絵本はそんなに面白いのですか?」
取り上げた絵本の表紙に目を落とした。
【君がランチを食べるまで】
意味不明なタイトルの下には、超絶美麗な少年?がポーズを決めた絵が踊る。
?をつけたのは、それが本当に男性なのかも分からない中性的な顔付きで描かれていたからだ。
「おっと、マルハチくぅーん。なぁに?興味あるの?」
マルハチの言った意味をとてもポジティブに解釈したらしい。
眼鏡を外して机の上に身を乗り出してきた。
「いえ、そういう……」
「よし!したらばこのプージャ様がマルハチ君にこのお話のことをおせーてしんぜよう。」
「え?いえ、そういう……」
「いいって、いいって!皆まで言うなよー。最初は誰でも恥ずかしいものよ。」
ぷふっと吹き出しそうになる口を手で隠すその顔は、実に嬉しそうだった。
そう。
実に嬉しそうだ。
(思えば、先代のミスラ様が逝去されてから、プージャ様のこんな嬉しそうなお顔を見るのは初めてかもしれない。)
そう考えると、マルハチの心はキュッと締め付けられた。
マルハチはプージャの机の脇に立つと、背を正した。
「それでは、お願いします。」
「おー!いいよいいよ!そんな畏まらなくていいから、お掛けよぉー。ほれほれー。」
顔を真っ赤にしながら、自分の隣の椅子を指差している。
これはこれで有りなのかもしれない。
マルハチは少しだけプージャに付き合うことにした。
机の上に絵本を置くと、まずプージャは表紙を指差した。
「ほら、まずこの男の子が主人公ね!セージ君って言うのさ。見て見て、カッコいいよねー。すんごい素敵。すんごい綺麗。うふふ。」
「やはりこの方は男性だったのですね。」
「そだよー。んでね、この子はね、最初はとっても弱っちい魔族なんだけどね、ほら出てきた!この綺麗な女の子!」
「主人公の少年とあまり見分けがつきませんが。」
「えー?そぉー?全然違うじゃんさ。」
「見慣れてないからでしょうか?」
「きっとそうだ。マルハチ君も修行なさいな。」
「はい、精進します。」
「それでね、この女の子、リリスと出会って、この子を守るために強くなろうと思うのさ。
んでー、この世界ではね、朝にね、敵が襲ってくるのさ。」
「はぁ。」
「だからね、お昼になるまでリリスを守れば、その日は安心になんのよ。」
「なるほど、だから【君がランチを食べるまで】というタイトルなのですね。」
「おーいえーす♪飲み込み早いねぇー。」
「ふむ。しかし、確かに綺麗な絵ではありますね。色使いも鮮やかで、タッチも繊細ですし。確かに惹かれるものはあります。」
「だっしょだしょぉー?」
「それで、この少女は何に狙われてるのです?」
「お、それはいい質問だねぇ。リリスを狙ってるのは、ジャジャーン!」
「む。これは……なんとも美しい。」
「だしょ!?だーしょー!?暗黒仮面騎士レーヴァテイン様!敵なんだけど、どっか憎めなくて、なぁんか裏がありそうなお方なのよ!」
ページを埋め尽くすほど大きく描かれた暗黒仮面騎士は、それはそれは美しかった。
細身の長身で、ウェーブのかかった黒髪を腰まで長く伸ばしている。
きらびやかな装飾が施された黒服に身に包み、大きなマントを華やかに広げている。
その背後には華麗な黒い薔薇が散りばめられていた。
「でね、でね、ちょっと影もあって、でね、とってもカッコいい!とぉーってもカッコいいの!うふ、うふふ♪」
妙な笑い声を上げながら、プージャはそのページを愛おしそうに撫で回していた。
「プージャ様はこの方にご執心なのですね。」
「そう。私は暗黒仮面騎士さまの嫁になるのだ。」
(絵だろ。)
喉から出かかった言葉を飲み下しながら、マルハチは何を言うべきか思案に暮れた。
「……いつか叶うとよろしいですね。」
「ぐふふ。」
(まぁ、何にしろ、プージャ様が幸福を感じられるのなら良いことかもしれませんね。)
相変わらず頬を赤らめながら本を見つめるプージャのヨダレをハンカチで拭きながら、マルハチの表情は無意識に緩んでいた。
「なるほど。暗黒仮面騎士はとても強いのだね。」
「そう!そうなのよー。カッコいいだけじゃないのが、また痺れるんだなぁ。」
「ふふ。君は強くて美しい男が好みなんだね。」
「そうそう!はあー、暗黒仮面騎士さまぁー。」
「じゃあ、僕なんてぴったりじゃないかな?」
「えー?マルハチじゃ似ても似つかないっしょー。」
「プージャ様?一体誰と話して……」
プージャとマルハチは、全くの同時に勢い良く振り向いた。
背後の低い本棚、胸元ほどの高さのそれの上に座っていた。
優雅に片膝を立て、膝の上で組んだ腕に顎を乗せ、こちらを見つめていた。
ウェーブのかかった長い黒髪。
黒い詰め襟のスーツに黒いマント。
まるで女性と見間違うほどに整った、それでいてしっかりとした顔立ち。
透けるほどに白い肌をしたその男は、
「く、黒薔薇の貴公子……」
マルハチは、絞り出すような声でその名を口にした。
「ごきげんよう。プージャ・フォン・マリアベルXIII。」
プージャを庇うようにして、マルハチは椅子を蹴って立ち上がった。
「一体どこから!?」
黒薔薇の貴公子が笑みを浮かべた。
「どこから?きちんと玄関からお邪魔したよ。」
「馬鹿な!?」
「馬鹿なものか。誰も僕を出迎えてくれなかったからね。申し訳ないとは思ったけど、勝手にここまで。」
「な!?……ま、まさか……」
マルハチは図書室の扉の方へと目をやった。
「ふふ、誤解するなよ。言ったろう?誰も出迎えてはくれなかった、と。誰も殺してはいないよ。」
「屋敷には大勢の使用人がいるんだぞ。そんなはずはない。」
「人聞きの悪い。僕は平和主義者なんだ。無益な殺生はしないよ。ただまぁ、使用人には少し眠って貰ったことは事実だがね。」
言いながら動かした指先に青色の霧がまとわりついた。
それを目にした途端にマルハチの意識は少しだけ遠退いたが、すぐに正気を取り戻した。
マルハチは人狼である。
鼻が利く。
扉の外から入り込む空気には血の匂いもしない。
どうやら嘘ではないらしい。
「一体、何の目的で?」
「そんなの決まってるさ。」
更に指先を小さく動かすと、机の上に置かれた絵本が浮かび上がり、黒薔薇の貴公子の手元までゆっくりと飛んでいった。
「プージャ・フォン・マリアベルXIII。」
絵本を手に取ると、パラパラとページを捲る。
そして手を止めた。
それは暗黒仮面騎士が初めて描かれたページだった。
「僕の妻になるんだ。」
「ふぁ、ふぁい。」
「っえー!?」
マルハチが驚いたのは、もちろん黒薔薇の貴公子の申し出もそうなのだが、
最も驚いたのは、その申し出に即答で快諾したプージャの方だった。
「プージャ様!一体なにを!?」
「ふふ。決まりだね。」
「待たれよ!」
「分をわきまえろ。」
黒薔薇の貴公子が指を動かすと、それだけでマルハチは身動きがとれなくなった。
見えない細い鎖に巻かれたかのようだった。
「これは君主の決定だよ。」
貴公子の胸元から飛び立った一輪の黒薔薇が、ふわりと優雅に宙を舞うと、ゆっくりとプージャの髪に刺さった。
「そうだろう?プージャ。」
「ふぁい。」
まるで夢でも見ているのではないか?
プージャの目はまどろんだように虚ろだった。
「プージャ様。」
「マルハチ。」
プージャが前を見据えたまま口を開いた。
「今宵、婚礼の儀を執り行う。」
「……御意。」
マルハチの体に自由が戻った。