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第76話 大公様は家事でも天才

―――本来であればプージャの専属であるミュシャなのだが、流石に今のツキカゲをプージャに近付けるわけにはいかない故、今日のミュシャの担当は他のメイドと同様に屋敷内全域での一般職となった。


「今からこの廊下の窓をぜぇんぶ、ピッカピカ♪に磨きあげますよ!」


 ミュシャが指差したのは、本館の中庭に面した屋敷で最も長い廊下だった。

端からざっと見渡し、奥の窓がはっきりと見えないほどの距離だ。


(こんな広い屋敷に住むとは、ゴブリン風情が生意気に。)


 仮にも魔王の居城である故に当たり前のことだが、ツキカゲは心中で悪態をついた。

魔血種族のプライドが許さないのだろう。


「いいですか?全部の窓をピッカピカ♪曇りひとつ許されませんよ。」


言いながら、ミュシャは自分の背丈の倍以上ある窓の前に大きな脚立を立てた。


「高いところも綺麗にしないといけませんからね♪まずはお手本をお見せします。まずこれが雑巾と言いまして、ツキカゲさんの心みたいに汚れた物を拭くための道具です♪」


「それも知っとるわ!そしていちいち気に障ることを言うな、貴様は。」


汚れた雑巾を広げて見せるミュシャに対し、今度は堂々と悪態をつく。


「それから、この脚立と言うのに乗って、高いところを拭くんですよ♪」


そんなツキカゲの悪態などどこ吹く風。

ミュシャは手も使わずに身軽に急勾配の脚立の上に登っていく。


「まずはお手本ですからね。こうやって、まずは水拭きして汚れを落としてから……それから乾拭きして磨きあげるのです♪」


 何度も同じことを言う、下手くそな説明を交えながら実演して見せるミュシャの手元を眺めながら、ツキカゲは困惑を隠せなかった。

何故なら、ミュシャの水拭きした窓ガラスは、掃除する前よりも遥かに汚れが付ついているように見えたからだ。


「おい貴様。その雑巾、ちゃんと洗ってから使ってるのか?」


 その言葉をいい終えるか終えないかの瞬間だった。

ツキカゲの眼前を何かが通り過ぎた。凄まじいスピードで。ほとんど残像しか捉えきれなかったが、後を追うように白い髪が宙を舞っているのを見て、確信した。

自分の顔を掠めるように、何かが頭上から投げつけられた。……のだと。

 足元を見下ろすと、絨毯に突き刺さった雑巾が、元の柔らかさを取り戻して床にしなだれるところだった。


(投擲の勢いで濡れ雑巾を床に突き刺しただと!?)


ツキカゲの全身から血の気が引いた。


「すみません……雑巾、落としてしまいました。」


見上げると、ミュシャがにこやかな笑みを浮かべてツキカゲを見下ろしていた。


「あ、ああ……気にするな。ところで貴様、随分と大人びたパンツを履いているな。見直したぞ。」


「えへへ♪姫様とお買い物に行った時に買って貰いました♪」


 顔を引きつらせ、拾い上げた雑巾をミュシャに手渡しながら、ツキカゲは悟った。

こいつは色々とヤバい奴だが、自分がツッコむのは死を覚悟する必要があるらしい。

 とりあえずはスカートの中から丸見えになっている黒いレースのパンツを誉めちぎり意識を逸らすことで命の危険は遠ざけた。


(まずはこいつとの関係性を築かなければ。)


 マリアベルを内側から切り崩すための第一歩はこれで決まりだった。




「じゃあツキカゲさんの番ですよ♪やってみて下さい♪」


 手本を見せ終えたミュシャが脚立から降り、ツキカゲに雑巾を手渡しながら笑顔で言った。

握らされた雑巾は、それはそれは汚い物だった。


「あ、ああ。分かった。(やはり!こんな汚れた雑巾で窓を拭こうなど、こいつ、正気か!?)」


 ツキカゲは、言ってみればお嬢様育ちも甚だしい。

魔血種族と謳われる高貴なソーサラー、しかもその王の家系に生を受けた。

物心つく頃には神童と持て囃され、事実、齢50にはソーサラー族の中でも最強の力を持つに至った。

生まれながらの天才にして、生まれながらの支配者。

無論、そんなツキカゲは、その半生で家事などしたことなどは無い。

が、そんなツキカゲにでも分かる。


(雑巾を濯いでから始めなくては意味がないだろうが!バカめ!)


 脚立の足元に用意された、水が張られたバケツに雑巾を突っ込むと、ジャブジャブと洗い始めた。

ほぼ初めて触れるバケツと、その中の汚水。

これほどまでの屈辱は味わったことが無かった。

念入りに雑巾を濯ぐツキカゲの頭上から、ミュシャが声を掛けた。


「ツキカゲさん。綺麗にしたいのは雑巾ではなく窓ですよ?」


「分かってるわ!」


 ミュシャがどこまで本気で言っているのかは図りかねるが、とにかくこいつに惑わされては目的は達成出来ない。

その辺だけはしっかり芯を持って事に臨むよう、ツキカゲは決心していた。


 あらかた雑巾の汚れを落とし終え軽く絞ってから、ツキカゲは脚立に足を掛けた。

思ったよりも急な傾斜だ。

これを手も使わずに登るとは、やはりこのゴリラ娘、異常か?

心中で独りごちながらも、ゆっくりと脚立を登っていく。

 初めて登る脚立に若干の緊張を持ちながらも頂上へと辿り着くと、ツキカゲは窓に向き直った。


(まずは水拭きだったな。)


ミュシャの言葉を思い出し、濡れ雑巾をガラスに押し付けた。

ほとんど力も入れていないが雑巾から水が滲み出し、ガラスを伝って汚水が垂れていく。

それを拭おうと雑巾を動かすが、何故か上手く拭き取れない。

それどころか、次々と水が垂れ滴っていくではないか。


(む?)


 違和感を感じながらも懸命に腕を動かす。

しかし、窓ガラスの全面を拭き上げた頃には、外の様子が滲んで見えるほどに、ガラスはびっしょびしょになってしまっていた。


(おかしい。どうした?まさか……。)


結果を考察するに、どうやらこれは、


(もっと絞るべきだったのか?)

「あぁー、ダメですよ?ツキカゲさん。お雑巾はもっとしっかり絞らないと♪」


失敗の原因を突き止めたと同時に、眼下のミュシャから同様の指摘がなされた。


「ぐっ!?(うるっせぇー!それは今気付いたんだバカがぁー!)」


怒鳴り散らしたく気持ちを抑え、飛び出そうになる罵声すら抑え、ツキカゲはミュシャに視線を移した。


「もう一回降りてきて、絞り直して下さいね。」


「わ……分かった。」


 それから何度目かも分からない脚立の往復を繰り返し、ツキカゲの窓拭きはめきめきと上達してきていた。

いくら家事初体験と言えど、そこは天才。

こう言ったことも覚えが早いようだ。

既に最初の一枚は、曇りひとつないほどに磨き上げられていた。


「わぁ♪ツキカゲさん、すごいですね♪とっても綺麗です♪」


「ふん、まぁな。失敗に対する原因追求、そして導き出された解答に対し正しい対策さえ怠らなければ、この程度の仕事など造作もない。」


手放しで賛辞を述べたミュシャに対し、ツキカゲも満更でもなさそうに腕組みをしつつ返した。


「じゃあ次の窓を拭いちゃいましょう♪今度は手分けしてやりますよ!そうすれば早く終わりますからね!」


駆け出そうとするミュシャ。

しかし、ツキカゲがそれを止めた。


「待て。貴様はやるな。」


「どうしたんですか?」


ミュシャが小首を傾げた。


「…………これは朕の訓練も兼ねているのだろう?ならば朕が全てやらねば意味がない。」


「そうですね!ツキカゲさん、すごいです♪やる気満々ですね♪」


 無論、この提案の真意は別にある。

ミュシャの家事における実力は大体掴めた。

ここでこいつと手分けなどしようものなら、無駄な時間を浪費するのみ。

であれば、ひとりでやる方が賢明というものだ。


「まぁ、な。」


「でも、お昼までに終わらせないといけないので、やっぱりミュシャもお手伝いしますね。ジョハンナさん、お仕事終わらないとお昼抜きって言うんですよ♪」


「そ、そうか。(ならば尚更任せられないではないか!)」

 

 ツキカゲは痛む頭を堪えると、自慢の使い魔を周囲の空間に召喚した。


「あっ!げろげろバナナ!」


「言っておくが、こいつらにはサルディナという立派な生物名があるのだが、まぁいい。コツは掴めた。後はこいつらに任せるとしよう。」


 言うや否や、放出された15体のサルディナ達は一斉に雑巾を咥えると、空を切って各窓へと向かっていく。

それぞれ2体で1ペアになり、1体が水拭きし、もう1体が乾拭きし、見事な連携で窓拭きを仕上げていく。

残った1体はツキカゲに付き従い、ツキカゲが水拭きした窓を丁寧に乾拭きしてた。


(ふむ、15体か。悪くないな。)


窓を拭きながら、ツキカゲは機嫌良く鼻唄を歌っていた。

初めてミュシャと対戦したあの夜、ツキカゲの使役出来るサルディナの最大数は10体だった。


(朕にもまだ伸び代はある。)


 ツキカゲは真っ直ぐな瞳で窓ガラスの汚れを探し求めていた。

 


 窓拭きを全て終えたのとほぼ同時だった。


「ふたりともー、お昼ですよー!」


廊下の反対側からふたりを呼ぶ声が響いてきた。


「わぁ♪今日のおかずは何でしょうか?ツキカゲさん、行きましょう!」


言うや否や、一目散に駆け出すミュシャ。

その後ろ足がバケツを蹴り上げた。


 ツキカゲは額を押さえ、激しく溜め息をついた。




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