第58話 長政海子~その日わたしの心は壊れました~
その日は、一生忘れられない日となりました。
それもそのはず。
それは、わたしが死んだ日なのですから。
そこに何のドラマもありません。
あの日、わたしはいつも通り学校に行き、いつも通りに友達とお喋りし、いつも通りに授業を受けて、いつも通りに下校しました。
学校の後は学習塾に通っていました。
良い学校に進学して、良いお仕事に就いて、お母さんを楽にしてあげるために、わたしは頑張って勉強していました。
その日も夜遅くまで学習塾で勉強をして、家に帰りました。
アパートに帰り着き、階段を上がりました。
部屋の前まで来ると、中から大きな音がしました。
わたしがドアを開けようと、リュックの中から鍵を探そうとしていると、勢いよくドアが開きました。
中から出てきたのはお義父さんでした。
「○□△○□△○□△!」
いつものように何かを喚き散らしながら、早足で階段を降りていきました。
わたしは急いで部屋の中に入りました。
玄関と繋がっているお台所に、お母さんがしゃがみ込んでいました。
わたしは急いで靴を脱いで、お母さんの側に駆け寄りました。
お母さんの顔は大きく腫れていました。
わたしはお母さんを抱き締めました。
わたしがいっぱい勉強して、良い学校に進学して、良いお仕事に就いて、お母さんを楽にしてあげるから。
わたしはお母さんを力一杯に抱き締めました。
お母さんは言いました。
「お前なんか生まれてこなければよかったのに。」
その日、わたしの心は壊れました。
わたしは家を飛び出しました。
無我夢中で走って、どこをどう走ったのかも覚えていません。
走って、走って、辿り着いたのは、学校でした。
わたしは屋上まで登って、夜の街を眺めました。
街の灯りが見えます。
たくさんのビルに光が灯り、遠くには東京タワーとスカイツリー。
とても綺麗でした。
今度、大好きな女優さんが出演する舞台があります。
わたしはその女優さんを生で見るのを楽しみにしています。
アルバイト先のファーストフード店でも、たくさんお仕事を覚えて褒められるようになりました。
そこには気になる男の子がいて、今度その子と一緒に映画に行く約束もしています。
わたしはいっぱい勉強して、良い学校に進学して、良いお仕事に就きたいと思っています。
わたしは屋上から飛び降りました。
―――目が醒めた時、わたしは、生きていました。
真っ暗な空間でした。
何も見えません。
目が開いているのか、瞑っているのか、自分の体が立っているのか、座っているのか、寝ているのか、浮いているのか、それさえ分かりません。
でも、なんとなくですが、生きているんだとは思いました。
どのくらいの時間が経ったでしょうか。
気が付くと、目の前に人が立っています。
赤い髪と赤い瞳を持った、現実にいるとは思えない、まるで映画やアニメに出てくるような子供です。
でもアニメじゃないのは分かります。
何故なら鼻の穴や、人中と呼ばれる唇の上にある溝があるからです。
わたしが気が付いたのを悟ったかのように、その子供は話し掛けてきました。
「始めまして。オイラはダクリ。」
「わたしは、長政海子です。」
「早速で申し訳ないけど、君、生き返る気はない?」
「わたしは死んだんですね?」
「そうだよ。だから、生き返る気はない?」
「いいです。わたしは、生きてても仕方ありませんから。」
「そうだね。君は必要とされない子だったね。」
「はい。だからいいです。」
「そうだね。でも、君は本当にそれでいいの?本当に必要とされない子でいいの?」
「どういう意味ですか?」
「君は、誰かに必要とされるから君なのかい?」
「意味が分かりません。」
「君は、君でしょ?」
「そうです。でも、虚しいだけです。」
「君は誰かに必要とされたい?」
「はい。」
「なら、オイラに必要とされたらいいよ。」
「あなたに?」
「そう。オイラには君が必要だ。生き返って、オイラのお願いを聞いて欲しい。」
「あなたのお願いを聞いて、わたしに何の意味があるんですか?わたしはあなたに必要とされても嬉しくはありません。」
「それはそうかも。じゃあ、こういうのはどうだろう?君が生き返って、オイラのお願いを聞いてくれたら、君を元の世界に戻して、新しい人生を約束するよ。」
「新しい人生?」
「そう。君のお母さんも、お義父さんも、君のことを必要としてくれる、そんな新しい人生を。」
「そんなことが出来るんですか?」
「もちろんだよ。お金の心配もせず、両親が仲良く、君は自由に、好きなことが出来る。オイラならそんな新しい人生をプレゼントすることが出来るよ。」
「わたしは、何をすればいいんですか?」
「そうこなくちゃ。オイラが君にお願いしたいのは、ある世界に行って、その世界で最強の人を倒して欲しいんだ。」
「そんなこと、出来ません。わたしはただの一般人です。」
「出来るよ。生まれ変われば、君はその世界の住人と同化することになる。そして、君の精神体を宿した新しい存在は、とても強い力を持つことになる。」
「本当ですか?」
「本当だよ。君は、とても強い精神を持っている。自らの命を自らで絶てるくらいのね。」
「新しい、人生。」
「やる気になってきたかい?」
「はい。」
「いいね。では契約成立だ。
新しい世界での君の名は、ミュシャ。」
「ミュシャ。」
「そう。マリアベルという家に潜入し、最強だと思う人を倒してきて欲しい。」
「分かりました。」
「不安かい?」
「はい。」
「何でも訊くといい。不安がなくなるまで答えるよ。」
「あなたは、誰ですか?」
「オイラはダクリ。またの名を、神の涙。」
そしてまた、わたしは眠りに落ちました。




