第57話 伏兵
「何をしておる!この無礼者め!」
唐突な罵倒の言葉に、マルハチは目を見開いた。
そして唐突に目の前に現れたその顔に更に驚いた。
マルハチの腕ががっちりと抱えていたのは、薄紅色の肌、月明かりを浴びて蒼く煌めく真っ白い髪、プージャとは似ても似つかない、ツワンダ・キヌ・カッサーラ・ゲシオだったのだ。
「バカが!さっさと離せ!」
マルハチに力強く押さえ付けられ、もがくように悪態をついていた。
「っひぇ!?」
それまでの幻想とはあまりにもかけ離れた現実に、マルハチは驚愕の声と共に悲鳴すら上げて、反射的に体を捩った。
「動くでない!バカめ!」
三度目の罵声。
唐突とは言え、これにはマルハチも気分を害した。
「な、何をしてる!?」
マルハチはツキカゲを突き離そうとその腕を掴もうともがいた。
そして、マルハチの腕は宙を掻いた。
「!?」
そこで初めて気が付いた。
ツキカゲが、ミュシャに敗北し手足を失った、そのツキカゲだということに。
一気に頭が冷え、マルハチは注意深くツキカゲの様子を伺った。
ツキカゲは、マルハチの体の上に覆い被さるように寝そべると、マルハチの胸元に残った腕でしきりに何かを書いているかのように見えた。
「い、生きていたのか?」
その様子にただならぬものを感じ、更に注意深く問い質した。
「黙って寝ていろ。気が散る。」
こちらに一瞥すらくれず、ツキカゲは一心不乱に書き続けていた。
ツキカゲの指が動くにつれ、ひとつ、またひとつ、マルハチの上に文字が浮かんでは皮膚に吸い込まれるように消えていく。
その度に、徐々にだが腹の底から力が湧き上がる感覚に見舞われていた。
「あのゴリラ娘め、止めも刺さずに妙な実を食わせおって。見ろ。このような不完全な姿のまま治癒してしまったではないか。」
筆記の手を止めぬまま、そしてやはり一瞥すらくれぬまま、ツキガゲが話し始めた。
「よいか?よく聞け。
今、この骸の山の向こう側では、ゴリラ娘と神の涙が交戦している。」
「ミュシャが?」
「ああ。だが無論、戦況は芳しくない。このままでは長くて60秒、短ければその半分で奴は果てるだろう。だから貴様の術式に強化の術紋を加えている。貴様のようなクソ雑魚ナメクジでも多少は使い物になるだろうからな。」
「強化!?そんなことが!?」
「動くなと言っておろうが!貴様が動くと文字がぶれる。ぶれれば一文字当たり0.2秒のロスが生じる。残る文字は150文字。合算すると30秒のロスだ。30秒あればゴリラ娘が死ぬには十分な時間だぞ。それでもまだ動くか?」
その忠告に、マルハチは渋々と背中を床に付け、黙って夜空を見つめていた。
精神を落ち着けると、次々と文字が体に吸い込まれてくる感触が伝わってくるのが分かった。
「誰がクソ雑魚ナメクジだ。」
「本当のことであろう。貴様だけが瞬殺で吹っ飛ばされた時には笑えたぞ。神の涙どころか朕にすら勝てぬくせに、ほざくな。」
「本当に強くなれるのか?」
「当たり前だ。朕の操術精度はマリアベルの比ではない。一度解読さえしてしまえば、理論の組み換えなど造作もないわ。この程度の不完全な術であのレベルの強化が出来るのであれば、朕の術ならば貴様を伝説の魔王級に仕立て上げることも可能だ。」
もはや聞くまでもなかった。
マルハチの体の奥底から次々と力が噴き上がり、体の隅々まで行き渡るのが感じられる。
未だかつて感じたことのない、とてつもなく強烈な荒ぶる力を。
「何故、僕達を助ける?こんなことをしても、お前はヴリトラ殿の仇。その贖罪にはならないぞ。」
「助ける?バカを言え。そんなことするか。」
「助けてるじゃないか。」
「思い上がりも甚だしいな。言ったはずだ。あのゴリラ娘を殺すのは、朕だ。絶対に殺す。他の奴には指一本触れさせん。
だが、今の朕では満足に動けんからな。貴様でも噛ませ程度には役に立つであろうと踏んだまでよ。」
言いながら、ツキカゲはマルハチの体の上から転がり落ちた。
マルハチは咄嗟にその体を受け止めた。
「僕を強化したことを後悔するなよ。これが終わったらお前は僕が必ず殺す。プージャ様の為にもだ。」
「やれるものならな。貴様の力など朕の裁量ひとつで無になるのを忘れるな。無駄口を叩かずさっさと行け。クソ雑魚ナメクジの不能野郎が。」
「下品な女だ。」
ツキカゲの体を丁重に絨毯の上に横たわらせると、マルハチは立ち上がった。
「その前に、だ。」
そのマルハチにツキカゲが声を掛けた。
いずこからか、あの気味の悪い使い魔が現れ出でた。
その円口に連なる鋭い牙には、見覚えのあるタキシードが引っ掛けられていた。
「その気色悪い出で立ちを何とかしろ。」
使い魔から執事の制服をひったくりながら、
「脱がしたのはお前だろう。」
慣れた手付きでタキシードを着込み、マルハチは悪態をついた。
その後ろ姿を眺めながら、ツキカゲが独り言のように言った。
「奴は物理的な干渉にはとことん強い。無効と言っていい。その反面、魔術的な干渉にはやや脆い。貴様とゴリラ娘では相性が悪いかろう。」
更に別の使い魔が3体、蜃気楼のような空間の揺らぎの隙間から、空中に現れ出でた。
「朕が補う。」
太く長い2体が両の脚に。
細く短い1体が左腕に食い付くと、骨が砕ける時の音を撒き散らし始めた。
ツキカゲは苦悶の表情を浮かべていたが、それもすぐに終わりを迎えた。
血飛沫が収まった時には使い魔だった面影は消えて無くなり、主と同じ薄紅色の肌に染まっていた。
ほんの少しの間で、ツキカゲの失われた四肢は見事に元の形を取り戻していたのだ。
よく見るとイビツではあるが。
「くそ。傷口に直接噛み付かせればまだ容易に同化できたものを。ゴリラ娘が無駄に治癒させたせいで痛みを伴ってしまったではないか。」
新たな四肢を手に入れたツキガゲはゆっくりと立ち上がると、馴染み具合を確かめるように手足を降り、間接を回転させていた。
「ミュシャにクペの実を食べさせて貰えなければ、魔力不足で使い魔なぞ召喚出来なかっただろうに。」
マルハチは内ポケットから取り出したブラスナックルを指に嵌めながら言い放った。
「何故、先に自分の体を再生させなかった?」
「バカめ。先に朕を修復して、貴様への施術に魔力が不足したでは目も当てられんだろう。その術に要する魔力消費量を舐めるなよ。」
「格好つけて言うことじゃないね。」
骸の山を回り込み、異次元の戦いが見渡せる位置まで辿り着いた。
囲うものを失った講堂の先では、ミュシャとダクリの激しい攻防が繰り広げられていた。
消えては現れ、現れては消えるを繰り返す。
しかし、先程までとは明らかに異なる。
マルハチには不可視だったふたりの動きが、視えた。
ダクリの掌がミュシャの背中に触れた。
ミュシャの体が凄まじい勢いで吹き飛ばされた。
その動きに合わせるようにマルハチが絨毯を蹴り、床に叩き付けられたミュシャの体を受け止めると共に、
ツキカゲの使い魔がダクリに襲いかかった。
ダクリはこともなさげに使い魔を避けると、再び宙へと舞い上がった。
「遅いですよ!ツキカゲさん!何の為に回復させてあげたと思ってるんですか?♪このポンコツ!♪」
マルハチの腕の中で、ダクリの猛攻によってボロボロになったミュシャが、それでも元気に抗議の声を上げていた。
「黙れ!どいつもこいつも!」
ミュシャを下ろしたマルハチの隣にツキカゲが並び立つ。
それを見下ろして、ダクリが笑っていた。
「へぇ。こりゃ面白そうなラインナップだね。」
3人が構えた。
「楽しめそうだ!」
ダクリの姿が消えた直後、3人の足元の床が、間欠泉の如く噴き上がった。




