第54話 小さな来訪者
「ばぁ♪」
マルハチの体を覗き込むようにして、ミュシャは両の掌を顔から離して広げて見せた。
完膚なきまでの、いないいないばぁ!、であった。
「大分前から、と言うよりも、始めから起きていたよ。」
暖かな絨毯の上に横向きに寝そべりながら、マルハチは視線だけでミュシャの顔を見上げていた。
左右の瞳はそれぞれ上下を向き、赤い小さな舌を飛び出させた、ひっぱたきたくなるほど愛らしいミュシャの顔を。
しかし、
「マルハチさん。マルハチさんの体にげろげろバナナが食い付いてますよ?」
当のミュシャはと言えば、丸裸のマルハチのとある一点だけを凝視するばかりだ。
「安心しろ、それはげろげろバナナじゃない。僕だ。そしてそんなに見るもんじゃない。」
ツキカゲによる術式のせいなのか、まるで体に力が入らない。
起き上がるどころか、ミュシャの視線からげろげろバナナを隠すことすら叶わず、マルハチは抗議の声を上げた。
「すまないが体が動かないんだ。気を遣って何か掛けてくれてもいいんだよ?服とか、最悪カーテンとか。」
「はい♪」
ミュシャは笑顔でエプロンを外すと、そっとマルハチの上に掛けてやった。
顔から上半身にかけて。
「ありがとう。だいぶ間違えてるが、ありがとう。」
エプロン下からのマルハチの抗議の声に、ミュシャはポンと手を打つと、
足先から腿にかけてエプロンを掛け直した。
「もういい。自分でやるから。」
悲鳴を上げる体に無理やり言うことを聞かせると、マルハチはエプロンを腰回りに引っ張り上げた。
どうやら何とか体に自由が戻ってきたようだった。
「それにしても、凄いな。あの、ツキカゲを。」
講堂の壁に寄り掛かりながら、マルハチは部屋の中央辺りを見つめていた。
「はい♪とっても強かったです♪ミュシャ、二回も叩かれてしまいました。」
にこやかな笑顔を浮かべるミュシャ。
その体のどこにも、傷と呼べるような損傷は見受けられなかった。
「叩かれたって、本当に平手で叩かれただけじゃないか。最後に、倒れる寸前の、最後に。」
それはミュシャなりの敬意の示し方だったかのかもしれない。
死力を尽くして命を削り合った、強者に対しての。
「はい!とっても、とっても強い人でした♪」
マルハチの視線の先、
そこには月明かりに照らされて、左腕と両脚を失って倒れ伏す、魔界最強の暴君の姿が浮かび上がっていた。
マルハチが、祈るような想いで目を閉じた。
その時だった。
広い講堂に、乾いた音が響き渡った。
思わずマルハチは目を見開いて、音のする方へと視線を向けた。
講堂の壁に取り付けられたシェルフの上。
その上に、座っていた。
座って、拍手をしていた。
「流石だね。本当に魔界最強の魔族を倒すとは。」
嬉しそうな表情を浮かべしきりに手を叩く、ボサボサの赤い髪を持った、小柄な人影。
ミュシャはゆっくりと立ち上がると、そちらの方へと向き直った。
「やっぱり来ていたんですね。ダー君。」
そう。
そこに座っていたのは、
「ダ、ダクリ?」
マルハチは乾いた声でその名を呼んだ。
「やあ、マルハチさん。こんばんは。」
あの燃えるような赤毛。煤けた顔。みすぼらしい支度。しかし、幼さの中にも凛々しさが感じられる真紅の瞳を持つ双眸。
紛れもなく、ダクリだった。
「え、どうした?」
あまりにも意外な人物の登場に、マルハチは何を言うべきかも分からなかった。
唖然とした口から飛び出たのは、自分でも笑ってしまうくらいに意味の分からない台詞だった。
「うん、説明は面倒なんだ。それに、オイラが会いに来たのはあなたではないしね。
ねぇ?ミコちゃん。」
「…………。」
ダクリの呼び掛けに、ミュシャは微動だにすることなく、じっと佇んだままだった。
「どうした?ミュシャ。」
彼女らしくもない不思議な挙動を目にし、思わずマルハチは声を掛けた。
ミュシャが勢いよく振り返った。
そして、マルハチの前に跪くと、力一杯にその首を抱き締めたのだ。
「ど、どうした?どうしたんだ?一体、」
「マルハチさん。これから聞くこと、何があっても、わたしを、わたしを信じて下さいね。それから……」
マルハチの耳元で、小さな声で囁いた。
その声は、震えていた。
そして震える手で、マルハチの手を握り締めていた。
ゆっくりと離れていくミュシャを見送りながら、マルハチは、温もりの残る掌をしっかりと握り締めた。
「お別れは済んだかい?」
ダクリは言いながらシェルフから飛び降りた。
「長政海子ちゃん。」
その口から飛び出したのは、聞いたこともないような、不思議な響きの名前だった。
「な、ナガマツリ、ミコ?」
マルハチはその名前を繰り返して口に出した。
「あぁ、いちいち面倒だな。マルハチさん、少し黙っててくれない?って言っても、この状況じゃあ無理か。」
蒼白い明かりの下を歩きながら、ダクリがボサボサの髪を掻き上げた。
「面倒だけど、うるさいよりはいいか。なら、少しだけ教えてあげるね。海子ちゃんのことと、この世界のこと。」
ミュシャの背中からは、もはや何も感じ取れなかった。




