第51話 魔界最強 対 自称最強
目を覚ましたのは、とてつもない臭いを感じ取ったからだった。
まるで戦の直後の戦場のような、まるで腐った煙を鼻から目に通すかのような、まるで溜まった糞尿を喉に詰め込んだかのような、吐き気をもよおすほどの密度の不快感。
その生臭い臭いには縁遠い者ではない自分ですら、思わず顔をしかめ、鼻腔を覆いたくなるほどの血と臓物の匂いが漂っていた。
ツワンダは天蓋付きのベッドから滑り降りると、そっとクローゼットへと近付いた。
手に取るは、簡易的なガウン。ではなく、
白いゆったりとしたブラウスの上に羽織るのは、瞳と同じ紺碧に染め上げられた、魔導糸のみで織られたベルベット製のロングジャケット。
白いレギンスの上から同じく蒼のニーハイブーツを履き込んだ。
ソーサラー族の戦闘装束だった。
部屋の扉から滑るように通路に出ると、窓からは月明かりが差し込んでいた。
月の位置から察するに、恐らくは真夜中を少し回った辺りか。
屋敷内は静寂に包まれていた。
聞こえるのは、夜風に吹かれる木々のざわめき。
闇を舞う蝙蝠の羽ばたき、虫の囁き。
普段は気にもならない小さな物音が、より一層際立って耳を突く。
室内よりも一段と濃くなった死臭を辿りながら、廊下に敷かれた毛足の長い絨毯の上を進んだ。
まず向かったのは、マルハチを捕らえている談話室だった。
扉を開け、中を確認するも、そこには裸のまま鉄椅子に縛り付けられているマルハチのみ。
人質の無事を確かめ、多少ながらも安堵の息を吐くと、再び死臭を辿った。
念の為、マルハチは連れていく。
ツワンダはぐったりとうなだれるマルハチの首輪にくくり付けられた鎖を手に取ると、無造作に引っ張りあげた。
マルハチの体は椅子ごと床に倒れ込んだが、気に留めることもなく、歩き始めた。
談話室にはふたつの扉がある。
私室棟の廊下に繋がる扉。
そしてもうひとつは、本館へと繋がる扉。
マルハチを引きずりながら談話室を通り過ぎると、本館への扉を開いた。
死臭が一段と強くなった。
廊下に出ると、静寂をかき消すものがある。
歌声だ。
延びのある、透き通った美しい歌声。
しかし、聞き覚えの無いメロディー。
そして、虚ろにしか聞こえないが、聞き慣れ無い単語を含んだ歌詞。
ツワンダはその歌の聞こえる方を目指した。
次第に歌声が近付いてくる。
それは、講堂からだと気付いた。
徐々に歌詞が鮮明になっていく。
ツワンダは更に歩を進めた。
「もーいーくーつ、ねーるーとー♪
ラーンードーセールー♪」
遂に歌詞がはっきりと聴こえた。
「しょーがっこーにー、はいったらー♪
ともだちひゃくにん、できるかなー?♪」
だがやはり、聞き覚えの無い単語だった。
講堂は既に間近だ。
死臭が更に強くなる。
ツワンダは扉を開いた。
屋敷でも一際広い講堂。
深い紅色の絨毯が敷き詰められたその部屋を、天窓から差し込む蒼白い月明かりが照らしていた。
まるで淡いスポットライトのように浮かび上がらせていのは、
おびただしい数の死体の山と、
その中心に佇む、長い銀髪の少女の姿だった。
「ありゃりゃ。起こしてしまいましたか?」
ツキカゲの姿を目に留めると、少女は笑顔でそちらへと向き直った。
手にした大鎌で、魔王カウディンの喉笛をかき切りながら。
『貴様、何物だ?』
『そこで何をしておる?』
『貴様がやったのか?』
『ここがどこだか分かっているのか?』
『気は確かか?』
言いたいことは山ほどあった。
しかし、そんな悠長な真似をしている暇ではない。
目と目があった瞬間に悟った。
今この場で、どちらかが死ぬ。
マルハチの鎖を握り締めたまま、ツワンダが攻撃を仕掛けた。
ヴリトラを葬り、村娘から、クグマースから生命を奪った攻撃を仕掛けた。
少女の姿がかき消えた。
速い。
刹那の動きで自分との距離を縮めてくる。
しかし、既に攻撃は終わっている。
一瞬で少女の生命は断ち消える。
はずだった。
(まさか!?)
胸中で驚愕した。
少女は疾風の如く駆けながら、時折、まるで踊るかのような足さばきで体を捻り、くるくると回り、それでも尚、駆けている。
(見えている、のか!?)
適切にタイミングを見計らい、ツワンダの攻撃が当たる直前に体を閃かせ、その全てをかわしている。
ツワンダを照らす月明かりが遮られた。
気が付いた時には少女は、ツワンダの頭上で鎌を振りかざしていた。
(翔ぶとは、愚かな。)
空中に身を投げたのは失策、良い標的だ。
ツワンダが攻撃を放とうとした時だった。
少女の姿が、消えた。
(!?)
驚く間もなかった。
背後からの禍々しいまでの殺気に身を震わせながら、反射的に体をよじった。
少女の身の丈の倍以上はある長い柄の先に付いた白刃が、冷たい光を反射しながら宙を薙いだ。
ほんの一瞬前まで、ツワンダの上半身があった空間を。
大気すら切り裂かれるほどの閃光の後、やや遅れて風切り音が走った。
ツワンダは大きく体をねじ曲げ、両腕を地面につけて、かろうじてその一閃をかわしていた。
生まれて初めてだった。
人前で両手を突いたのは。
が、安心したのも束の間。
蒼い反射が閃くのを視界の端で捉えていた。
空中を薙いだ白刃はいともたやすく軌道を変えると、ツワンダの真上から振り下ろされたのだ。
(緩い。)
決して容易な軌道修正ではないのは分かっていた。
先ほどよりは幾分かの鋭さを欠いている。
ツワンダはその隙を逃さず、体を前に倒すと転がりながら一気に距離を取る。
つい瞬間前までツワンダがいた場所に大鎌が突き刺り、鋭い金属音が広い空間に響き渡った。
そこで初めて気が付いた。
狙っていたのは自分ではなく、マルハチを繋いでいた鎖だったと。
あわよくば、自分ごと始末しようとして、だが。
この間、およそ1.96秒。
ツワンダは既に一度、死線をくぐり抜けていた。
ツワンダは少女と、再び対峙した。
今度は先ほどとは真逆の位置関係。
少女はマルハチの首筋に指を当てがい脈を取っている。
背後には見知った顔が恐怖に顔をひきつらせ、固まったままの死体と成り果て折り重なっている。
ざっと見ただけでも数十。
恐らくはこの屋敷に存在していた配下のほとんど全てだろう。
魔界最上位の魔血種族、しかもその精鋭達。
例え自分自身だとして、この数のソーサラー族を相手に、全滅させるくらいは可能かもしれない。
しかし、自分に気付かれぬよう気配も無く。
ツワンダは少女の身なりに再度、目をやった。
黒いメイド用ワンピースにフリル付きの白いエプロン。
その服のどこにも、ほんの点ですら、返り血のひとつも飛び散ってはいない。
歴代の魔王を3名も含んだこの軍勢を、気配も無く、血飛沫すら上げずに、殲滅することなど、滅亡の女帝であっても不可能だ。
既に察しはついている。
マリアベルメイド室には、マルハチと並んで魔王に匹敵する戦士が属している。
これがそれなのだろう。
名は、知らぬ。
知っておくべきだったか。
ツワンダは口を開いた。
「貴様、名は?」
少女が身を捻らせた。
月光の中、華麗に舞うかのように、軽やかにステップを踏んだ。
「やはり、見えているのか。」
少女は笑みを浮かべた。
「見えているって、このげろげろバナナのことですか?♪」
その鎌の刃先には、鋭い牙の並んだ円口状の補食口を持ったヤツメウナギにも似た生物、ツワンダの使い魔が突き刺さっていた。
それも飛ばしたはずの7体全てが。
(冗談ではない。あれは、朕が魔力を籠めた使い魔だぞ。朕に匹敵する高い魔力を持つ者でなければ可視すら叶わんはず。)
「お噂通りの意地悪さんですね。お名前を聞いたのに攻撃なんて。」
非難の言葉とは裏腹に、それでも笑っているではないか。
しかしこれで判明した事実。
(この者、小細工無しには倒せん。)




