第46話 滅亡の女帝
「魔王様。少し見ない間に、貴女、」
ツキカゲの声が大きく張り上がった。
「女になりましたわね。」
部屋中の全ての魔族に聞こえるように、ツキカゲは大声でそれを言ったのだ。
部屋中の魔族達からざわめきが聞こえてきた。
「な!?」
予想もしていなかった発言に、プージャは、プージャだけではない、マルハチも、ヴリトラも、3人全員が驚愕した。
「な、何を言いだすのだ!」
「恥ずかしがらなくても宜しくてよ。自然のことですもの。むしろ喜ばしいこと。」
「何を根拠に、」
「分かりますとも。ええ、匂いで分かります。以前の貴女様にはなかった、女の悦びの匂いがプンプン香ってきますわ。」
「な!?」
「貴女様を女にしたのは、この執事か、はたまたその護衛か、どちらなのでしょう!」
ツキカゲは扇子を開くと、再び笑い声を上げていた。
その笑いは正真正銘の嘲笑と言えた。
体温が一気に上がるのが分かった。
頬が火照り、首筋も胸元も焼けるように熱くなっている。
何か、何かを言い返さなければ。
そんな焦燥感に駆られていた時だった。
ふと視線を感じた。
マルハチだ。
マルハチがこちらを見ている。
一瞬、恥ずかしさのあまりに目を逸らしそうになった。
が、そこでプージャは我に返った。
この羞恥心とは別の感情が、彼女の頭を冷やしたのだ。
そして同時にマルハチの意図も汲み取った。
プージャは、必死にアイゼンの言葉を思い出そうと努めた。
『ルールその1、絶対に怒らない。
奴の目的が衝突であった場合、ツキカゲはどんな手を使ってでも魔王殿下を怒らせようとするでしょう。しかし、乗ってはいけません。こちらが怒りに我を忘れれば、一気に主導権を握られます。つけ入る隙を与えない為にも、どんなことが起きようと、絶対に怒ってはいけません。』
(絶対に、怒らない。絶対に、怒らない。絶対に、怒らない。絶対に、怒らない。)
呪文のように心の中で唱えながら、同じく心の中で何度も掌に魔の字を書いて飲み込む。
画数が多いので書くのに時間が掛かり、心が落ち着くのだ。
「カッサーラ・ゲシオよ。私のパートナーが誰であろうと貴公には関係のない話しだ。公然の場である。慎め。」
プージャはぴしゃりと言ってのけた。
しかし、
「あら。ですが、妾は興味がございますわ。同じ女として、貴女様が誰に愛されているのか。」
ツキカゲは引かなかった。
「2度も言わせるな。慎め。」
「でしたら、別室へ移りませんこと?ふたりきりでしたら、ゆっくりとお話しが出来ますわよ?」
プージャの怒りの引き金は、実際問題として腐るほどある。
その中でも、この引き金が最も引きやすい。
ツキカゲがそう判断したのは間違いなかった。
「私は所用がある。話しはまた別の機会にするとしよう。」
それはプージャも分かっている。
マルハチ、そしてヴリトラ。
このふたりを前にして、これ以上この話しを続けられても、冷静さを保てる自信はない。
一刻も早く逃れるべきだと悟っていた。
「あぁ、想像するだけで疼いてしまいますわ。ふふ。ねぇ、マルハチ。」
ツキカゲがマルハチに振り返った。
「魔王様はどんなお味なのかしら?ねぇ、妾は聞きたいわ。」
猫なで声を上げながらマルハチの正面に回り込むと、その首元に腕を回し始めた。
(魔王様。)
ヴリトラがプージャの耳元で囁いた。
(これ以上の侮辱、自分は我慢なりません。)
(抑えるのじゃ。今この者とドンパチ始めるわけにはいかん。)
(しかし!)
(私が堪えておるのじゃ。堪えよ。)
(くっ……)
「貴方、思いの外に良い体をしてるのね。」
片腕を首に回したまま、もう片方の手が首筋から胸元へと滑り落ちていく。
「妾も愛して欲しいわ。魔王様のように。」
指先で弄ぶようにして胸元をこねくり回している。
摘まんだり、引っ張ったり、優しく、時に乱暴に。
そして、指先は更に下へと降りてゆく。
しかしマルハチは何の反応も示すことはなく、ただ無言で宙をみつめるだけだった。
どんなにツキカゲが耳元で甘く囁こうと、マルハチは乱されない。
「魔王様なんて、どうせただのマグロでしょう?」
鍛え上げられた腹筋を、何度も何度も揉みしだく。
「ねぇ、マルハチ。本当の女を、味わってみたくはない?」
ツキカゲの細長い指先が、マルハチの下腹部へと達した。
それでもマルハチは微動だにせず、ただ空中の一点だけを見つめていた。
「我慢強いのね。でも、そんな男も、好きよ。」
ツキカゲの大きくて艶やかな唇が、マルハチの唇にかぶり付いた。
プージャは目を逸らした。
その瞬間だった。
「離れろ!この淫売め!」
動いたのはヴリトラだった。
プージャの脇をすり抜けると、マルハチに噛み付くツキカゲに襲いかかったのだ。
ツキカゲの瞳が輝いた。
マルハチの唇を深くはみながら、迫り来るヴリトラを横目で見ながら。
風船が弾けるような湿った音が部屋中に響き渡った。
気が付いた時には、ヴリトラの左の肩口から腕の先が、弾け飛んでいた。
ヴリトラの勢いは止まらなかった。
腕を失ってなお駆けていたが、やがて力が抜け落ちていき、膝から崩れ始めた。
ツキカゲは踊るような動作でマルハチから離れると、よろめくヴリトラの姿を見送った。
そしてヴリトラの体は駆けた惰性だけでマルハチの元へと到達すると、力なくその胸へと倒れ込んだ。
マルハチはヴリトラの体を抱えようと踏ん張りを利かせた。
だが、力の入っていないヴリトラの巨体を支えきることは出来ずに、彼の体はずるずると崩れ落ちていった。
マルハチは驚いたような表情を浮かべ、目を見開いて、プージャを見ていた。
その胸元には真っ赤な血が広がっていた。
真っ白いワイシャツは、ヴリトラの真っ赤な血で染め上げられていたのだ。
(これは、あの時のビジョン。そうか、そうだったんだ。私が見たのは、これだったんだ。)
「ヴ、」
「無礼者め!」
オーク隊長の名を叫ぼうとするプージャの言葉を遮って、ツキカゲが声を張り上げた。
「魔王様!ご覧になりましたか!?」
ヴリトラから目が離せなかった。
しかし、そんなことはお構いなしにツキカゲはプージャに向かって歩み寄ってきたのだ。
「貴女様のたかだか臣下が!
貴女様のお家により大公を拝命されているこのソーサラーの長を!
公然で罵ったのでございますよ!」
「ヴ、ヴリトラ……」
マルハチが、足元に転がったヴリトラの脈を取っていた。
だが取るまでもないのは分かっていた。
左肩を吹き飛ばされた時、一緒に心臓の半分も持っていかれていた。
見えているのだ。
ヴリトラの、心優しいヴリトラの心が、半分剥き出しになって、今まさに、その役割を果たそうとゆっくり止まっていく様が、見えているのだから。
マルハチが顔を上げ、プージャの目を見つめた。
その表情だけで何が言いたいのかは感じ取れた。
「魔王様。」
気が付くと、ツキカゲの顔が目の前にあった。
「臣下の失態は、貴女の失態。
この落とし前、一体どのようにつけてくれるおつもりですか?」
紺碧の輝きは、まるで太陽の如くギラギラとプージャの瞳を覗き込んでいた。




