第1話 へたれ姫
「魔王様。魔王様。」
青年が静かな口調で呼び掛けながら、身長の数倍はあろう巨大な扉をノックした。
「…………。」
部屋の中からは何の返事もなかった。
「魔王様。魔王様。」
再び呼び掛けながら扉を叩いた。
「………………。」
しかしやはり返事はなかった。
青年は深い溜め息をつき、大きく息を吸い込んだ。
「魔王様!!」
怒号と共に青年の体は大きく膨れ上がり、一瞬にして全身が白銀に輝く太い毛に覆われる。
高い天井に届くほどに巨大化したその体躯が扉に襲いかかると、轟音と共に扉は木っ端微塵に吹き飛ばされた。
「きゃっ!」
破壊された扉の先。
仄暗い部屋の中央に置かれた大きなベッドの上から悲鳴が聞こえた。
悲鳴の主は、ネグリジェを身に纏った妙齢の女性だった。
半身を起こし、ベッドの上に寝そべった巨大な影に体を預ける姿勢で、不安そうな表情を浮かべて扉の方を見つめている。
誰が見てもうっとりと見惚れるほどに、とても美しい女性だった。
「魔王様。」
扉を突破した巨大な銀狼が言葉を発した。
「いらっしゃるのなら、お返事をなさって下さい。」
唸るような声でそう呟きながら大きな前足を一歩踏み出す。
床にうず高く積まれた何かの山が、大きな音を立てて崩れた。
「無礼者!」
その様を目にした女性が声を荒げた。
銀狼の歩が止まった。
「下がりなさい!」
「失礼致しました。」
女性の声に応じ、謝意を述べつつ銀狼は踏み出した前足を元の位置に下げた。
が、しかし、あまりにも大きなその足は、また別の何かの山を崩してしまった。
その瞬間だった。
女性がベッドの上に立ち上がった。
「私のナバールぅー!」
悲鳴にも似た叫び声を上げながらベッドから飛び降りると、銀狼の足元へ疾風の如き速さで滑り込んだ。
「ちょっと!足をどけなさいな!」
銀狼は素直に従って足を上げた。
その拍子にまた別の山が崩れた。
「っあー!?シュレールも!?こりゃー!マルハチ!気を付けなさぁーい!ってかデカすぎ、元に戻れ!」
女性が崩れ落ちた大判の本を大事そうに積み直しながら、銀狼に向かって怒鳴り声を上げた。
その様を見下ろしながら、銀狼は首を横に振った。
「ちょ!?ヨダレ飛んでるし!早く戻らんかい!」
前足を平手打ちされてから、巨大な銀狼はようやく元の青年の姿へと戻った。
額まで伸ばしたブロンドの癖毛をお洒落に流し、清潔感溢れる燕尾服に身を包んでいる。
よくよく見ると、とても整った顔立ちをした美青年だった。
「またこの様な絵本ばかり読んで。」
白いネグリジェの袖で本についたヨダレを丁寧に拭き取る女性の正面に片膝を付いてしゃがみ込む。
額を押さえ少しばかり頭を振り、マルハチと呼ばれた青年は、散らばった本の一冊を拾い上げると女性に手渡した。
「絵本じゃないわ!クロエ・ナバール先生の真・地獄白書~彩の章~に、マルセーヌ・シュレール先生のちょびっと物語!文学作品だよ!!」
手渡された本を、女性は大切そうに抱き締めた。
背中まで伸びた長い黒髪を登頂部で団子にまとめ、大きな黒縁眼鏡をかけている。
確かに美人ではあったが、よくよく見るとかなり残念な様相を呈していた。
「何が文学なものですか。ほとんど素人の落書きではございませんか。」
拾い上げた他の一冊をペラペラと捲り、再度溜め息をついた。
その全てのページの大部分は、珍妙な画風の美少年や美少女の絵ばかりで占められていた。
「触んな!」
マルハチの手から文学作品を引ったくると、女性はイーっと声を漏らしながら歯を食いしばって見せた。
何度目かも分からない溜め息をつき終え、マルハチは肘を上げて、背後に向けて何かのサインを送ったようだった。
途端に何者かの影が部屋に飛び込んできたかと思うと、一瞬にして部屋のカーテンを開け放つ。
少しばかりの蝋燭で照らされるだけだった部屋の中に、強烈な太陽の光が差し込んだ。
「うえっ!」
相当長い時間、暗闇に慣れていたであろう女性は、あまりの眩しさに目を押さえた。
照らし出された部屋の様子に、マルハチは頭痛を覚えるほどに呆れ返ってしまった。
魔王の寝室に相応しいとても広い部屋の床と言う床のほとんどは、件の絵本の山と、食い散らかされた菓子袋や汚れた食器で埋め尽くされ、壁には隙間が見えなくなるほどに件の絵本画家が描いたであろう絵が貼り付けられている。
中央のキングサイズのベッドはしわくちゃで、これまた件の絵本に登場するのであろう想像上の熊のような動物を再現した特大のぬいぐるみが鎮座している。
そして極めつけはこの部屋の匂い。
なんと表現したものか、優しく鼻を突く臭いが充満している。
控えめに表現して、真夏の雑巾。
言えることはただひとつ。
「とりあえず空気を入れ替えましょう。死にますよ?」
カーテンを開けたメイドの少女が窓を開け放った。
部屋の空気が一気にマルハチのいる扉に向かって押し出される。
目眩を覚えつつ、マルハチはそっとハンカチを口にあてがった。
「きゃあー!本が傷む!」
「魔王様。」
片膝を付いたまま、左胸に掌を当てたマルハチが、本を庇うように抱き締める女性に向かって言った。
「こんな部屋に置いてるのであれば、本なぞ傷むどころか腐りますよ。」
「うっさい!」
魔王はマルハチの顔面におもっくそ絵本を叩き付けた。
【プージャ・フォン・マリアベルXIII】
魔界の名家、マリアベル家の13代目当主にして、魔界を統べる現魔王。
それが彼女の名だった。