第32話 おばあさんの昔話
始めはただの長雨でした。
しかし、雨足は強くなるばかり。
止む気配はありません。
何日も何日も、滝のような雨が降り続けました。
そして長く続いた大雨により、魔界を流れる川という川が氾濫を起こし始めたのです。
各地の町々、村々が溢れだした川の水に飲み込まれようとしていました。
この町の近くを流れる川も、いつ溢れてもおかしくない状況にありました。
町の男達が川の様子を見に行くと、堤防にヒビが入っているのを見付けました。
これはもうおしまいだ。
その場にいた誰もがそう思いました。
「諦めるな!まだ間に合う!」
絶望する男達の群れから飛び出したひとりの男が、堤防のヒビに土をあてがい押さえ始めたのです。
住民は驚きました。
それは、各地で暴れまわっていたはずの、悪名高きミスラ・ミラ・マリアベルその人だったからです。
ミスラはその仲間の悪童達と共に、堤防を土で塗り固め、決壊を防ごうとしていました。
「ここを固めてもすぐに他に綻びが出るぞ!さっさと高台に避難しろ!」
ミスラの指示に従い、住民達は急ぎ避難を開始したのです。
町の男達数名だけが残り、ミスラとその仲間の愚連隊と共に堤防を塗り固め始めました。
ですが、ミスラの言った通り、塞き止められた堤防のせいで、少し川下に亀裂が入り始めました。
住民達の避難は終わっていませんでした。
その新たな箇所を塞き止めなければ、町は水に飲まれてしまいます。
かと言って、今いる場所から動いてしまえば、この場所が決壊してしまいます。
新しく入った亀裂は今いる場所よりもかなり低い場所に位置しており、そちらが決壊しても、ミスラ達がいる場所にまで水は来ないでしょう。
しかし、今この場所が決壊してしまえば、ミスラの仲間達も皆、氾濫に巻き込まれてしまいます。
二手に別れ塞き止めれば、住民が避難する時間を稼げるかもしれませんが、人手が足らず、いずれはどちらも決壊するでしょう。
ミスラに選択が突き付けられました。
住民を見捨て、仲間の命を救うのか。
それとも、
住民を救い、仲間の命を見捨てるのか。
ミスラの頭はパニックになりました。
下流のヒビが大きくなるのが見えました。
時間はもうあまりありませんでした。
「オイラのサイコロに聞いてみようか?」
その時でした。
ミスラの背後から、子供の声がしたのです。
「おまっ!?ガキ!?ここで何してやがる!」
あまりにも驚いたミスラは子供に怒鳴り散らしました。
「オイラのサイコロは、正しい道を示すサイコロ。このサイコロに聞いてみようか?」
そう言いながら、子供がサイコロを振りました。
出た目は、4、でした。
サイコロが光輝くと、気が付いた時にはミスラとその仲間達、そして残った町の男達は、町の中心にある広場に立っていました。
「サイコロの示した道は、町を捨て、住民達を全員避難させること。のようだね。町はいずれまた再建できる。君達が生きていれば。」
子供の姿は見えませんでしたが、声だけが広場に響き渡っていました。
降りしきる雨音にもかき消されず、はっきりと響き渡っていました。
ミスラ達は、逃げ遅れていた住民達の手助けをしながら、高台にやってきました。
ミスラ達が高台に到着したと同時に、堤防は川の水によって打ち砕かれ、町は氾濫した水に飲み込まれていきました。
でも、誰ひとり欠けることなく、住民達は避難することが出来たのです。
もし、ミスラがふたつの選択の中からしか道を選べなければ、必ず誰かが犠牲になっていたでしょう。
どこの誰かも分からないし、どこに行ってしまったのかも分からないけど、あの子が導いてくれたお陰で助かったのです。
ミスラは語っていました。
後日、水が引いた後の町の復興作業を行う為にラクシャサの派遣したマリアベル軍の中に混じり、ミスラ達の姿がありました。
この経験から、柔軟な姿勢と広い視野を持って物事を見極めることの大切さを学んだと言います。
それからミスラは何でもかんでも力で解決することを改めて、偉大なるマリアベルの当主として相応しい魔族になることを志したのです――――
「わしはあの時の、わしらと一緒になって町の復興を手伝って下さったミスラ様のお姿を忘れはしませんよ。今のあんた方を見てると、ミスラ様を思い出しますわい。」
マルハチはサンドイッチを口に運ぶことも忘れ、老婆の話に聞き入っていた。
「そんなことが……全然知りませんでした。」
マルハチが驚いていたのは、それがマリアベルの家族史にも記されてはいない出来事であるということだった。
そして、どうしても聞かねばならぬことが、今の話にはあった。
「その子供ですが、何故あなたがご存知なのですか?状況からして、ミスラ様とご一緒に残られた方々しか知り得ないはずですが。」
「ああ、それはですな、あの時堤防に残った町の男のひとりが、わしの父だったからですじゃ。」
「では、その子供を実際に目撃したんですね?どんな姿形をしていたか聞いてらっしゃいますか?」
「いんや、そこまでは。まぁでも、大方は、あの人のホラ話でしょうな。少しでも大袈裟に言った方が盛り上がると思ったんでしょう。父は見栄っ張りでしたからの。あまり気にせんことですじゃ。」
老婆は嬉しそうに、でも懐かしそうな目で笑っていた。
そんな老婆を尻目に、マルハチは顎に手を当てて考え込んでいた。
(脚色?そんなことはない。脚色であれば、サイコロなどという具体的な表現などするはずがない。古の邪神が降臨したとか何とか、脚色なら他にもっと良い方法があるはずだ。わざわざそんな突拍子もない話を持ち出すのであれば、それは紛れもない真実。
正しい道を示すサイコロ、だって?800年も昔に?)
マルハチは顔を上げた。
「貴重なお話、ありがとうございます。それに、美味しいお昼ご飯も。」
手に持ったままだった食べかけのサンドイッチを一気に頬張ると、勢い良く立ち上がった。
「さぁ!休憩はおしまいだ!続きを始めよう!早いところ終わらせるぞ!」
マルハチの号令に従い、兵士達も一斉に腰を上げると、各自の持ち場へと移動を始めた。
それを見届けると、マルハチも早足で作業に戻った。
(早いところ終わらせ、屋敷に戻らなくては。出来るだけ早く。)
マルハチの心はいつになく不穏な気持ちで満たされていた。




