序幕③ 黒の炎~パイロマヴロス~
バルモンが腰から太刀を抜いた。
プージャやマルハチの体ほどもあろう、長く幅広の太刀を。
その太刀を宙で振り回すと、一気に真っ赤な炎が燃え上がり、刀身を包み込んだ。
これが伝説に名高い、破壊の炎だった。
天を焦がし、地を焼き払い、世界を燃やし尽くす。
炎は魔界の半分を7日で焼き尽くした。
その強大な力の前に、名だたる魔族達は次々と破れ去り、ある者は命を落とし、ある者はバルモンの配下となった。
ほぼ全ての魔族をねじ伏せ、そしてバルモンは人間界へと侵攻しようとした。
しかし、
全ての魔族をねじ伏せなかったことが、バルモンの運の尽きだった。
最後に残ったマリアベル家の当主、ミスラ・ミラ・マリアベルがバルモンの前に立ち塞がった。
ふたりの戦いは熾烈を極めた。
7日7晩に及ぶ戦いは、ミスラの勝利で幕を閉じた。
ふたりの戦いが終わった時、魔界全土が焦土と化していた。
(やむなし!)
マルハチの体が膨れ上がり、太く長い体毛が全身を多い始める。
「人狼風情が我に歯向かうか?」
バルモンが太刀を振り上げた。
簡易テントは炎に飲み込まれ、一瞬のうちに焼け落ちた。
「貴様の父は強かった。奴さえおらなければ、我は人間界をこの手中に出来ていたものを。」
マルハチの変身に構うことなく、バルモンの目はへたり込むプージャだけを捉えていた。
「己の不甲斐なさ、あの世で父に詫びるがよい!」
ボタッ。
雄叫びを上げたバルモンの顔から何かがこぼれ落ちた。
「ひいぃー!!」
プージャが悲鳴を上げた。
「目が、目ん玉、落ちたぁー!?」
目玉だけではなかった。
びっしりと生え揃っていた髭も髪も抜け、歯もボロボロと抜け落ちていく。
皮膚が溶けるように崩れ、腐った肉が剥がれ落ちていく。
「これは!?」
側近のオークが立ち上がった。
「ポイズンリザードタイラントの毒!?」
「しゅ、しゅうーく、りぃーむ?ど、毒を、盛った……のか?……しかし……なぜ……我が食うと……予想できた………」
もはや喋るだけで精一杯だったはずだが、それでもバルモンは続けた。
しかし、プージャの答えを聞くことなく、みるみるうちに、バルモンの体は崩れ落ち、腐り果てた。
「グルル!プ、プージャ様!?」
銀狼と化したマルハチがプージャに問い掛けた。
言葉にはなっていないが、意図はバルモンと全く同じだった。
バルモンは毒見をさせていた。
プージャとマルハチが、側近のオークが、食べるのを見届けていた。
見た目は全て同じシュークリーム。
一体どうやってバルモンの分だけに?
―――プージャは思い出していた。
(あ、一個だけクリーム足んなかったや。んー、ミュシャが作ってたドロドロ、なんかクリームっぽいからこれでも入れときゃいいか。)
そう言って、プージャは植木鉢からドロドロをすくいとって皮に挟み込んだ。
―――(あいつ。
マジでポイズンリザードタイラントの糞を入れてたんかよ?)
魔界の殺し屋。
劇薬の暴君。
生ける強酸。
その体液に含まれる猛毒は、ほんの一滴で大型のドラゴンすら腐らせるほど強力だ。
シュークリームの大きさであれば、
魔王をも殺す。
(てかどっから持ってきたー?)
我に返ったプージャは呟くように言った。
「いや、たまたま、みたいな?」
「貴様らぁー!!」
焼け落ちたテントを囲むようにして、呆然とこちらを見ていたオークの軍勢が一斉に襲いかかってきた。
「プージャ様!」
マルハチはプージャの首根っこを咥え上げると、自分の背中の上に放り投げた。
「掴まって下さい!」
背中の毛を引っ張られる感覚を確かめるや否や、巨大な銀狼は駆け出した。
迫り来るオーク達を凪ぎ払い、飛び越え、マルハチは疾風よりも速く駆けた。
頭は取った。
形はどうあれ。
残された任務はただひとつ。
プージャを生還させるのみ。
屋敷にはもしもの時の場合に備え、マリアベルの軍勢に出陣準備をさせている。
そこまでプージャを送り届けるのだ。
「わっわっわっやっはっはっやっやっ。」
マルハチが駆ける度に背中のプージャは大きく飛び跳ねた。
「声を出してはいけません。舌を噛みますよ。」
足元にオークが群がり、思い思いに手にしたこん棒や大金槌でマルハチの足を狙ってくる。
それを巧みに避けながら走るも、避ければ避けるほどにプージャは跳ね上がる。
「オロロロロロロ…………」
妙な声がマルハチの耳に届いたが、ついでに湿った感覚も背中に感じるが、そこに関してだけは気にしないように努めた。
多少の手傷を負ったものの、マルハチは遂に敵陣営から抜け出した。
鈍足で有名なオーク達だ。
もはや銀狼を追ってはこれまい。
心中で胸を撫で下ろしたマルハチだが、何か違和感を感じていた。
背後から風切り音が聞こえてくる。
背中に強い痛みが走る。
体毛が逆立った。
何かが刺さった。
これは矢だ。
走りながら振り返ると、オークの軍勢が足を止め、一斉に弓を引き絞っているのが見えた。
(この距離では逃げ切れない!)
矢が放たれたと同時に、マルハチは爪を立てその場で四肢を踏ん張った。
「わぁーっ!」
突然の急ブレーキに、プージャは空中へと放り出された。
矢の届かない、遥か前方へと。
(これでいい。プージャ様が無事であれば。)
無数の矢がマルハチに襲いかかった。
「わぁー!」
空中をグルグルと回りながら吹っ飛んでいくプージャ。
その目に飛び込んできた。
無数の矢が銀狼に降り注がんとするのが。
「にゃろぉ!マルハチに手ぇ出すなぁー!」
矢を掴もうと腕を振った。
次の瞬間には、空気を切り裂く矢の雨は、真っ黒い炎に包まれていた。
プージャの腕から巨大な黒い炎が解き放たれた。
空を埋め尽くすほどの矢をまるまる飲み込んだ、巨大な炎が。
マルハチの頭上に炭クズが振ってきた。
黒炎に焼き尽くされた、矢の雨の代わりに。
それはまるで、黒い雪。
あまりに幻想的な光景に、マルハチの頭は柄にもなく意識が遠くなっていた。
「マルハチ、かもーん!」
プージャの声が聞こえ、マルハチは我に返った。
前方にはこちらを振り返りながら走るプージャの姿。
絵本に飛びつく時だけはあんなに素早いのに、今はドタドタと鈍そうに走っている。
(運動不足ですね。)
地面を蹴ると一瞬でプージャに追い付いた。
再び首根っこを咥え、今度は丁寧に背中に乗せた。
成す術がなくなったバルモンの軍勢は、遠くから二人を眺めるだけだった。
屋敷に向かう平原を疾走しながら、マルハチは温かい気持ちになっていた。
近いようで遠い道程を駆けながら、背中に跨がる君主に話し掛けた。
「今のは何です?」
「知らん。」
「バルモンの炎に見えましたが?何故か黒かったですが。」
「知らんって。」
「もう一回出してみて下さい。自由に出せればプージャ様でも戦えるってことですよ?」
「なんだよ。プージャ様でも、って。私は戦いたくなんてありませぇーん。」
「折角足手まといから抜け出すチャンスなのにですか?」
「うるぁ!」
「熱っ!?あち!あちゃちゃあだぁー!」
「おー、銀狼の毛はよー燃えるのぉ。すげー臭いけど。」
首領を失った軍勢に、もはや戦闘力はほぼ無い。
破壊神バルモン軍は、数に劣るマリアベル軍に圧倒され、早期に降伏、投降。
マリアベル軍に接収された。
マリアベル軍の数、現在7千。
そして、どういうわけだかは分かってないが、黒炎を放てるようになったプージャは、その半生で初めて戦う力を手に入れたのだった。
―――が、しかしだ。
戦う力すら持たぬこのへたれ姫。
彼女が戦乱の世に身を投じることになったのなど、謂わば身から出た錆。
元を正せば全てはプージャのせいなのだ。
それは、遡ること数日前のことだった……。